編集者のSさんにいただいた、具志堅隆松『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。 サトウキビの島は戦場だった』(合同出版、2012年)を読む。(ありがとうございます。)
著者は、沖縄戦の遺骨を丁寧に掘り出し、その死に至る経緯を探り、特定する作業を、30年近くも続けておられる。
何故か。それは、政府による遺骨の収集が、重機によって土を塊ごと掘り出し、その中からまとめて遺骨を取り出すような水準のものだったからだ。そのような杜撰なやり方では、仮に死者を特定できるような持ち物や手がかりがあったとしても、失われてしまう。それ以前の問題として、死者への追悼の念が乏しいのではないかという著者の指摘は、確かに的を射ている。
まるで遺跡を発掘するように、丁寧に、死者が亡くなったときの状況を再現する。その推測のプロセスには、本当に驚かされてしまう。
たとえば、ガマの中の遺骨は、入り口付近と奥とに固まっていた。奥の遺体は、下半身のみが残されていることが多かった。じっくりと検証した結果、それは、手榴弾による「集団自決」が行われた結果だというのだった。
また、首里城の下に設置された日本軍の拠点を守るための場所から出てきた銃弾の数は、日本軍1に対し、米軍100であったという。語り伝えられたように、実際に、日本軍が1撃つと米軍は100撃ったのである。
このような検証のため、著者は、当時の武器の種類や特性、兵士の持ち物などに関する詳細な知識を活用している。それにより、沖縄戦の実状や、民間人・兵士がどのように死に至ったかが浮き彫りになってくる。
これは大変な仕事である。
●参照
○比嘉豊光『骨の戦世』(那覇新都心での遺骨収集)