植民地文化学会主催のフォーラム『「在日」とは何か』に足を運んだ(2013/7/6)。
「在日」とは、在日韓国・朝鮮人のみを示すわけではない。それがこのフォーラムの問題意識のひとつでもあったようで、テーマは、在日ブラジル人、在日中国人にも及んだ。
以下、各氏の発言概要(当方の解釈に基づく、敬称略)。
■ 外村大(東京大学) 「殖民地期における在日朝鮮人の文化活動」
○1920年代以降、在日コリアンが増加した。
○生活は概ね苦しく、女性や子どもも労働力となった。街角では、朝鮮服を着た子どもたちが普通に遊んでいた。定住に伴い、祖国よりも祖国らしい、自分たちの場所として認識するようになった。
○文化への希求から、慰安会や商業的な芸能の興業などが開催された。同時に、娯楽だけでなく、プロレタリア文化活動も行われた。そして、文化活動の担い手は在日コリアンにシフトしていった。
○こういったことは、朝鮮学校での芸能活動などを通じて、現在につながっている。
○目立つ存在は、舞踏の崔承喜、歌劇の�樮亀子、小説の張赫宙や金史良。これらの活動は、ゆるやかなネットワークを形成していた。
○1937年の日中戦争勃発なども影響し、プロレタリア文化活動は弾圧されていく。金史良は偽装転向して朝鮮半島へ脱出し(のちに朝鮮戦争に従軍して姿を消す)、一方、張赫宙は積極的に日本の国策に協力した。
■ 西成彦(立命館大学) 「在日文学と言語戦争」
○在日問題と併せて、在外日本人と棄民政策との関係も重大な問題として捉えるべき。
○在日文学は、言語の問題を抜きにしては考えられない。文学者たちは、母国語への距離感を覚えながら活動した。
○李恢成が、群像新人文学賞(1969年)、芥川賞(1972年)の受賞前後に、いくつか重要な対談を行っている。後藤明生が放った「朝鮮人であるということを度外視すべき」という暴言に対しては、逆に、日本人が朝鮮で朝鮮語による文学をやっているとしたら、日本人のことなど考えずにいられるのかと応じた。
○また、大江健三郎は、李文学について、「朝鮮語と日本語というものを、二つ自分の内部に持ちながら、その二つの言語が内部で争い合っている」と、本質的な指摘を行った。また、日本語の中にロシア語や朝鮮語の響きがあるとも指摘している。
○沖縄の作家たち(大城立裕、東峰夫、目取間俊)の文学活動も、在日文学と共通する課題を抱えつつ、軌を一にしている。ただし、大城立裕『カクテル・パーティー』は、家庭内の会話に琉球語がなぜか入っていないなど策略的なものでもあった。また、目取間俊『目の奥の森』は、日本語のルビという機能を使い、二言語小説として提示したものだった。
○ところで、日本語を母語としないにも関わらず日本語で文学活動を行うリービ英雄について、注目している。
○小松川事件(1958年)、金嬉老事件(1968年)は、在日文学者に、人ごととは思えない衝撃を与えた。
■ 李恢成(イ・ホェソン)(コメント)
言うまでもなく、在日コリアン文学の大作家である。
○西さんのまなざしは素直で優しく、こけおどしでない。今日、このような方に逢ったことはショックだ。
○なぜ日本語で書いてきたのかと訊かれる。武器は、日本語しかなかった。朝鮮語で書ければ、書きたかった。いずれはそうするつもりだった。金日成が1960年代に「朝鮮語で文学をやれ」と発言したことにも影響された。
○自分はサハリンで生まれた。そこには朝鮮人たちがいた。その言葉、叫び声、泣き声、オーバーな表現、そういったリズムが自分の中に入っている。
■ 田嶋淳子(法政大学) 「中国系移住者の過去・現在・未来―中国系エスニック・コミュニティの40年―」
○在日中国人のオールド・タイマーズについては、戦後補償問題と切り離しては考えられない。一方、ニューカマーズは、自らの意思で日本に来た人びとである。
○1970年代初頭まで、台湾出身者が全体の半分を占め、さらに福建省や江蘇省の出身者が多かった。東北地方出身者はほとんどおらず、従って、70年代の横浜中華街は水餃子がないところとして知られていた。
○ところが、最近では、東北地方(遼寧省・吉林省・黒竜江省)が非常に多くなってきた。東北地方に多い朝鮮族たちは、日本だけでなく、4人に1人は韓国で暮らしている。したがって、エスニック・アイデンティティが非常に複雑なものになっている。
○それだけではない。国籍と文化のずれが、いまや世界的規模で起きている。
○インドでは二重国籍が許可されるが、韓国では一部にとどまる。中国では許可してほしいとの請願が繰り返されている。日本でも不可。
■ アンジェロ・イシ(武蔵大学) 「在日ブラジル人の場合」
○自分は日系三世ではあるが、意図的に、在日ブラジル人一世だと名乗っている。
○かつては出稼ぎが多く、ポルトガル語としても「デカセギ」が定着した。2000年代に入り、短期滞在から移住へとシフトしている。しかし、2008年のリーマン・ショックとその後の派遣切りが、その流れを大きく変えた。いまでは在日外国人の数は、3位から4位に落ちている(中国、韓国、フィリピン、ブラジルの順)。
○1908年の日本からブラジルへの移民船就航開始から100年後、2008年に、ブラジル人が多い浜松市において「ありがとう日本」イベントが開かれた。これからも住みたいというメッセージでもあった。しかしそれは、リーマン・ショックと派遣切りによって、冷たく切り捨てられてしまった。
○2011年の東日本大震災の時には、被災地にさまざまな支援を行った。同じ日本社会の一員としての活動だった。しかし、現地から寄せられた感謝は、「海外(ブラジル)からの支援に心より感謝」であった。意図が伝わっていなかった。
○日本における在日ブラジル人たちのデモ行進は、派遣切りへの反対時(2009年)にはわずかな単語の羅列であったが、サッカー・コンフェデ杯の時(2013年)にブラジルやNY、ロンドン、シドニーとも連動してのブラジル政府へのプロテストを行った際には、非常に饒舌となっていた。在外ブラジル人としての意識が高まったあらわれである。
■ 李恢成(コメント)
○自分は在日朝鮮人としての活動にはこだわったが、対象を「在日」として拡げるやり方には、まだついていけない。時代からはじき飛ばされそうになっているのかもしれないが、レンズを絞ることしかできない。「ちっちゃい所から」の発想をしていきたい。
○在日朝鮮人に関しては、政治的な言説が目につくが、民族として世界を変えていこうとする面白さはあるのか。とても少ないのではないか。
■ 内海愛子(社会学者)(コメント)
○日本の国籍取得は血統主義である(1985年までは父系のみ)。
○日本人と外国人が国際結婚した場合、その子どもは、21歳までは二重国籍であり、22歳になる際に国籍を選択できる。日本に住む多くの場合、日本国籍が取得されている。
○日本の敗戦時、日本政府は戸籍によって国籍を定めた。このことは、国家が国民をどのように支配し、あるいは排除してきたかを考える上での観点となる。
○好景気を背景に労働力のニーズが高まった際に、日本政府は、労働力が欲しいが、その一方で外国人を入れたくないとの考えにより、1990年に入管法を改正した。すなわち、海外日本人移民の子孫であれば、在留資格が得られるとするものだった。それに伴い、在日ブラジル人が急増した。
■ 外村大(コメント)
○在日ブラジル人の方々は、震災復興に際して、日の丸とブラジルの国旗を併置している。これはたとえば在日朝鮮人ではありえないことだ。すなわち、歴史の問題が大きく異なっている。
○外国人労働力の輸入に関しては、1960-70年代にも、韓国人をもういちど入れようとの動きがあった。しかし、それは強制連行の歴史を容易に想起させるものでもあり、産業界はその策を採らなかった。
○最近では多文化主義が標榜されることが多い。しかし、それは相手が管理できるマイノリティである限りにおいてではないか。
■ 西成彦(コメント)
○確かに日の丸とブラジル国旗との併置にはぎょっとさせられるものがある。
○国旗とは、要求をつきつける対象でもあった。
○南北朝鮮に対する日本人の差別と同情は、南の経済成長と北の軍備増強を経て、嫌悪と敵対応戦へと変化している。
■ 田嶋淳子(コメント)
○最近では、内蒙古や東北の朝鮮族の人びとが、大変な勢いで日本国籍を取得している。それはひとえに有用だからである。日本政府は、永住権を付与することを嫌がり、むしろ帰化を薦めている。
○一方では、中国政府は、自国民を外に出したがっている。在外中国人は、中国に戻っても、なかなか戸籍を取得できない。
■ アンジェロ・イシ(コメント)
○1990年の入管法改正は、日系人を優遇する一方で実は移民を許さないという、実にずるい方法であった。
○日系ブラジル人にとって、日の丸だけでなく、君が代にも抵抗がない。感覚的には、サッカーのホームとアウェーの双方の国家を流すようなものに近い。
■ 西成彦(コメント)
○入管法上、日系のみ優遇することは、ブラジルからは、日本が人種主義国家に見えることでもないか。
■ 内海愛子(コメント)
○日本政府は1960年代から入管法の改正に着手した。その議論において、法務省は、一貫して外国人を日本に入れないという方針を堅持してきた。
○企業は、歴史上の問題を考慮し、労働力を入れるよりも資本を海外に出すという方法を選択した。
○ところで、インドネシアやフィリピンにおける残留日本兵の子孫が、1990年入管法改正に伴い日本に出稼ぎに来るようになった。彼らが、大洗の水産加工業を支えている現状がある。
■ 李恢成(コメント)
○大岡昇平『レイテ戦記』は、日本文学の最高峰ともいえる作品である。その中には、誰かに助言され、フィリピンゲリラについての章を挿入してもいる。若い人への「聖書」としてもよい。
○魯迅『藤野先生』は、政治の垣根を越え、人間としての日本人を恩師として描くものであった。このような観点を共有の認識にしたい。
●参照
○李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
○李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
○李恢成『伽�塩子のために』
○李恢成『流域へ』
○金石範『新編「在日」の思想』
○金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
○金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
○金達寿『玄界灘』
○金達寿『わがアリランの歌』
○朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
○梁石日『魂の流れゆく果て』
○青空文庫の金史良
○朝鮮族の交流会
○朴三石『知っていますか、朝鮮学校』
○枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
○朴三石『教育を受ける権利と朝鮮学校』
○朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
○荒井英郎+京極高英『朝鮮の子』
○波多野澄雄『国家と歴史』
○鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』
○尹健次『思想体験の交錯』
○尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
○野村進『コリアン世界の旅』
○『世界』の「韓国併合100年」特集
○高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
○菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真