Sightsong

自縄自縛日記

ミシェル・ンデゲオチェロの映像『Holland 1996』

2013-07-14 23:48:40 | アヴァンギャルド・ジャズ

ミシェル・ンデゲオチェロによるライヴ映像、『Holland 1996』(1996年)を観る。オランダ・ハーグでの「North Sea Jazz Festival」に出演した際の記録である。

なかなか言葉が解りにくいから、歌詞を探して、片手に持った。わずか4曲ではあるが、相手をドアの外から想う愛の唄、黒人としてのプロテストの唄など。おそらくはさまざまな隠語が散りばめられているのだろうが、わたしにとっては距離の遠い異文化、それを感知する能力はない。

それにしても、ンデゲオチェロは囁くような声で聴かせる。ファンクの繰り返しとビート、その中で、彼女は歌い、キーボードを弾き、ベースを弾く。もう、ひたすらにカッチョいいグルーヴなのだ。なお、ンデゲオチェロとは、スワヒリ語で「鳥のように自由に」を意味する。

1996年といえば、ちょうど、『Peace Beyond Passion』が公表された年だ。もう手元にはないが、普段は線が細くて敬遠していたジョシュア・レッドマンのサックスがぴたりとはまり、唸った録音だった。同時期に、インパルス・レーベルの企画で、ハービー・ハンコックと共演したCDと映像があって、これもずいぶん好きだった。

実は、その後のンデゲオチェロをまったく追いかけていない。二ーナ・シモン集なんて聴いてみたいのではあるが。推薦乞う。


『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』

2013-07-14 10:43:39 | 北海道

NNNドキュメント'13」枠で放送された『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013/6/9放送)(>> リンク)を観る。問題提起のドキュメンタリーである。

タンチョウは、北海道東部、釧路湿原近くなどに棲息する。かつては江戸で越冬し、明治期には乱獲のため絶滅しかけた鳥でもある。

そのタンチョウは、いまでは、北海道で越冬する。なぜか。昭和に入り、北海道や国は保護に大きく方向転換したからだ。そのため、給餌が地道に行われている。

一方で、タンチョウの営巣地も個体数も急増している。電車との衝突事故は後をたたない。農害もあるという。人間に馴れすぎて野生に戻れないタンチョウもいる。地元のシンボル化、観光資源化、保護といった活動が生み出した矛盾である。環境省は、棲息地を北海道全域に広げるとの解決策を示しているが、新しい場所では、その矛盾ごと引き受けることが求められてしまう。

それはそれとして、このドキュメンタリーや、Youtubeで数多くアップされている映像を観ると、やっぱり釧路湿原に行きたくなる。大学生の時分に、本多勝一『釧路湿原』を読んで以来、ずっと憧れている場所なのだ。

参考映像
「危ないよ~線路上のタンチョウ親子」(番組でも紹介)
「タンチョウ 求愛ダンス」
「タンチョウ 赤い吐息 美しき光景」
「伊福部昭 交響詩・釧路湿原」

●NNNドキュメント
『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
『沖縄からの手紙』(2012年)
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
『風の民、練塀の町』(2010年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


塩原良和『共に生きる 多民族・多文化社会における対話』

2013-07-14 08:37:47 | 思想・文学

塩原良和『共に生きる 多民族・多文化社会における対話』(弘文堂、2012年)を読む。編集者のHさんにご紹介いただいた本。

「多民族・多文化社会」を認め標榜したところで、多くの場合には、マジョリティがマイノリティを「認めてやる」形に陥る。このパターナリズム(強い者が弱い者の利益になるよう本人の意思に反して干渉する)は、マイノリティの怒りや、異議や、予期せぬ行動や、弱者からの脱却といった事態に遭遇すると、容易にその本性をあらわす。本書において、さまざまな視点から示されているのは、そのようなマジョリティの欺瞞に他ならない。

かつて(あるいは現在も)、厳しい抑圧を受けたマイノリティは、その疵をトラウマとして抱え、常に、抑圧者がふたたびあらわれるのではないか、また抑圧されるのではないかという恐れを抱く。かたや、罪深いほど無知・無邪気なマジョリティは、なぜそこまで過去に拘るのか理解できない。そして、異議申し立てを行うマイノリティへの攻撃にさえ転じてしまう。多くの場所でみられることである。

著者は、この溝を乗り越える手段のひとつとして<対話>を挙げる。もちろん、マジョリティが自分自身を正当化し、あるいは浄化するための手段であってはならない。当たり前のことに感じられるが、それすらも、可視化をタブーとし、ひとりよがりな<善意>や<歴史>を押し付け、その逆の流れを断固として拒絶するような現状においては、ほとんど成立していない。

良書である。

ところで、著者は、序章において、かつて自分自身が民間のコンサルティング会社で働いたことを告白している。その体験を振り返り、まるで、最新の情報を必死に取り込み、古い情報を書き変え続け、当面の成果だけを追求する世界であったかのように書いている。自虐の衣をまとってはいるが、これは、非常に失礼な見方である。言うまでもないことだが、その世界においても、<知>は蓄積される。このことは、図らずも、<学>における大学というマジョリティ性が相対化されていないことを、示しているのではないか。


ウォシャウスキー姉弟『マトリックス』3部作

2013-07-14 01:02:49 | 北米

何をいまさら、ウォシャウスキー姉弟による『マトリックス』3部作をまとめて観る。もはやDVDは1枚105円、まとめて315円。

●『The Matrix』(1999年)
●『The Matrix Reloaded』(2003年)
●『The Matrix Revolutions』(2003年)

とは言っても、テレビで何度も再放送していたから、適当にあちこち観てはいる。これらの作品が与えた影響は、アクションだけでなく、香港コメディやゴジラ映画まで幅広い。

仮想空間に棲息する人間活動というテーマでいえば、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』やジョン・バーンズ『大暴風』といったSFを思い出す。

その側面については、初作の完成度がもっとも高く、平行する世界をリアルに描いている。そして、こうしてまとめて観ると、シリーズ物の例にもれず、次第に緊張感を失ってこけおどしと化していくことがよくわかる。同じ登場人物でも、個性の紹介を甘えて省き、2時間程度に詰め込もうという制約も緩いものになっているのだから、これは仕方がない。確かスラヴォイ・ジジェクがこの映画を絶賛していたが、続編のことはどう考えているのだろう。