Sightsong

自縄自縛日記

中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』

2013-07-03 00:16:31 | 韓国・朝鮮

中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』(高文研、2013年)を読む。

1894年、日清戦争。そのきっかけとして、わたしは、朝鮮における「東学党の乱」があったと記憶していた。

本書は、その位置づけに根本的な異を唱える。すなわち、「党」というような好ましからざる集団でも、正統の権力を揺るがそうとする「乱」でもなく、本来は「東学農民戦争」と呼ばれるべき歴史である、と。そして、これは日清戦争に至るきっかけなどではなく、朝鮮侵略そのものであったのだ、と。

確かに、日本の植民地主義的な直接行動は、蝦夷地併合(1869年)や琉球侵攻(1879年)が既にあり、朝鮮に対しても、日韓併合(1910年)より前、江華島事件(1875年)があった。既に、侵略国家なのであった。

本書においては、東学農民戦争での日本の軍事行動が検証されている。農民たちの蜂起を脅威として捉えた日本政府は、相手が東学農民であれば、文字通り皆殺しにせよと命じた。これは、広島大本営(臨時首都)(>> リンク)にあった伊藤博文や、朝鮮に赴いていた井上馨の意思でもあった。当時、朝鮮が交戦国でも植民地でもないにも関わらず、である。明らかな蛮行だったと言える。(言うまでもないことだが、交戦状態にあっても許されることではない。)


広島大本営(2013年6月)

この戦争における東学農民の死者は約3万人。一方、軍事の近代化を進めていた日本軍の死者はわずかに1人。ところが、本書によれば、その1人についての靖国神社や日本政府の公式記録においては、戦死の日時も場所も改竄され、中国での最初の戦闘時とされているという。すなわち、上からの「正史」への取り込みであり、ジェノサイドという歴史を消し去った以上、そこで亡くなった死者も消さなければならなかったというわけである。

ただの過去の史実ではない。現在につながる歴史として、可視化されるべきものだ。

印象深い当時の新聞記事が紹介されている。1894年、『香川新報』は、真っ当な主張を掲載していた。

「悪人の討たるるは、討たるべきの理ありて、しかして後ちに恨みなし、討たるべからざるの愚民、或は討たれ、或は害せらる、安くんぞ、恨みを後世に残さざるを得ん、百人死すれば、千人恨み、千人斃るれば、万人恨む、嗚呼、安んぞ永く我が徳を播くに便ならんや。」