林壮一『マイノリティーの拳 世界チャンピオンの光と闇』(新潮文庫、原著2006年)を読む。
なぜ日本語の本のオビに、ジョージ・フォアマンの推薦文が記されているか。一読してわかった。著者は、米国のボクシングに魅せられ、米国に渡り、数々のボクサーたちと接しながら生活してきた人だからだ。
なるほど、面白い。そして哀しい。多くの黒人やヒスパニックの少年たちは、貧困と差別のなかでもがき、その生活から脱出するために、ボクシングを選んだのであった。長じて世界チャンピオンになった者たちは、最初から「モノが違った」らしい。ほとんどの者は、普通の「モノ」しか持たない。「モノ」を持っていても、かれらを食い物にするだけのプロモーター(ドン・キングのような)に搾取され、たとえチャンピオンになっても、一部の者を除いては、いい暮らしはできなかった。著者の視線は、その、多くの者に向けられている。
勅使河原宏が2本のドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』『ホゼー・トレス Part II』を撮ったホセ・トーレスは、名伯楽カス・ダマトに見出され、人間性とボクシングの両方を教え込まれた。聡明だったトーレスは、世界チャンピオンになり、また、自らの出自を意識し、マイノリティーの視点を持った文筆家としても名を成した。
トーレスとは反対に、やはりダマトが見出したマイク・タイソンは、凄まじい勢いで世界の頂点に立ち、すぐに、同じかそれ以上に凄まじい勢いで転落した。著者は、兄弟子トーレスの言葉を借りて、タイソンの精神的な弱さを浮かび上がらせてゆく。第1章ではあるが、これがわたしにとっては本書の白眉である。
多作の作家、ジョイス・キャロル・オーツも、ボクシングに関する著作『オン・ボクシング』(中央公論社、原著1987年)をものしている。
ここに書かれているのは、ボクシングという異常なスポーツ、あるいはスポーツではなく衝動、活動についての、オーツの思索である。
なぜ多くの作家が、ボクシングに魅了されたのか。オーツが言いたいのは、おそらく、それが本質的に言語によって表すことができず、ひょっとしたら言語というものに反していて、言語の活躍場所があるとしたら、やっと、再現のステージになってからだからだ。しかも、再現というものが、ボクシングと相対立している。
ただ、そのように思索するオーツが、自ら限界を示してしまっているように思える。おそらく、フォアマンが45歳で世界チャンピオンに返り咲くなど、想定外もいいところだっただろう。そして、本書が書かれた当時、絶頂を極めつつあったタイソンについても、その醒めた目を観察してはいても、やはり、激烈なる転落は想像できなかったに違いない。
●参照
勅使河原宏『ホゼー・トレス』、『ホゼー・トレス Part II』
マーティン・スコセッシ『レイジング・ブル』(ジェイク・ラモッタがモデル)
ジョイス・キャロル・オーツ『Evil Eye』