新宿K's Cinemaで、ボリビア・ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネスの最新作『叛乱者たち』(2012年)を観る。
早めに着くと、太田昌国さん(日本でずっとウカマウ集団の活動を紹介・支援)がロビーにいて、ご挨拶。もうDVDは出来あがっていて書店でも売っているとのことで、ちょうど持っておられた『鳥の歌』を購入した。
上映前に、太田さんと津島佑子さんとのトークショーがあった。津島さんは、これまでの先住民族をめぐる言説の移り変わりとともに、オーストラリアのアボリジニの方が、福島原発において自分たちの土地で採掘されたウランが使われていたという現実に心を痛めると表明したことを紹介した。すべて、「まずは自分のこととして考える」事例として、である。太田さんは、日本は先住民族問題に関してずっと鈍感であり続けており、その意味でも、ウカマウ集団の映画を観る意義があるのだとしめくくった。
2006年、ボリビアにおいて、先住民族出身のエボ・モラレス政権が誕生した。このことが、如何に画期的な歴史的意味を持ち、また、今後への課題を孕んでいるのかといったことが、映画において、過去の再現をコラージュのように示す方法により、示される。
18世紀、先住民族たちが、トゥパク・アマル、トゥパク・カタリ、バルトリーナ・シサらを指導者として、植民地政府に対し武力蜂起を行った。半年もの戦いの末、裏切りによってカタリは処刑されるのだが、絶命前、カタリは「われわれは100万人になって戻ってくる!」と叫んだという。その後も、幾多の抵抗運動と弾圧があった。1944年に大統領となった白人のビリャロエルは、先住民への弾圧を緩和し、農地改革を行おうとして、保守層に抵抗されて失脚した。そして、水資源、天然ガスの民営化に抗する「水戦争」(2000年)、「ガス戦争」(2006年)は、新自由主義を排除する動きとなり、ついに、モラレス政権が誕生した。
「正史」という「大文字の歴史」においては語られない歴史である。パンフレットに太田さんが寄稿した文章によると、このような先住民族の歴史を可視化するウカマウ集団の活動自体も、かつては、弾圧されていた。従って、これらがプロパガンダ映画的であっても、それは権力の正当化・正統化のためではない。
ビリャロエル大統領の失脚の際、先住民の村では、「私たちを救おうとしたのに、私たちは彼を助けることをしなかった」と悔いている場面がある。また、サンヒネスの『第一の敵』(1974年)でも、チェ・ゲバラを支援できなかったことへの贖罪の気持が表明されているのではないかと感じた場面があった。キューバ革命を成功させたチェ・ゲバラは、次に、ボリビアでの革命をこころざすも、農民の支援を得られず、失敗に終っているのである。その反省を含め、ウカマウ集団の映画は作られ、上映されているということではないか。映画の中で、モラレス大統領の就任演説が流される。そこでは、18世紀のトゥパク・アマル、トゥパク・カタリ、バルトリーナ・シサに加え、チェ・ゲバラの名前も挙げられていた。
パンフレットには、藤田護「『叛乱者たち』はボリビアの現状を批判しうるか」という文章が寄稿されている。映画がモラレス政権の公式プロパガンダになってもいいのか、さまざまに噴出してきている政権の問題点にも目を向けるべきではないのか、という批判である。確かに、それは違和感として残る。
映画の中で、モラレス大統領が貧しい先住民とすれ違い、見つめ合う場面が2回ある。先住民はもの言わず、期待なのか、「風景」としてなのか、あるいは監視の表明なのか、厳しい目でモラレスを凝視する。わたしは、これこそが、映画のモラレスに向けられたメッセージではないのかと捉えた。
●参照
ウカマウ集団の映画(1) ホルヘ・サンヒネス『落盤』、『コンドルの血』
ウカマウ集団の映画(2) ホルヘ・サンヒネス『第一の敵』
ウカマウ集団の映画(3) ホルヘ・サンヒネス『地下の民』
ウカマウ集団の映画(4) ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』
モラレスによる『先住民たちの革命』
松下俊文『パチャママの贈りもの』 貨幣経済とコミュニティ(松下監督とサンヒネス)
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