Sightsong

自縄自縛日記

スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』

2014-05-23 23:03:02 | 東南アジア

スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』(晶文社、原著1968年)を読む。

1968年、ベトナム戦争の真っただ中、ソンタグはハノイを訪れた。米軍による北爆はすでにはじまっていた(1965年~)。ホー・チ・ミンはまだ存命中であった。そのような時期、ゴダールはベトナムに行くことができず、おそらくは西側知識人にとって、ベトナムに行くことじたいが大変な事態なのだった。

ソンタグは思索する。ある役割をあてがわれ期待される者が、実際に、その場にあってなにをしうるのか。紋切り型の思考にとらわれないためには、どうするべきなのか。多くの選択肢をもつアメリカ人が、その生活を続けることの誘惑を断ち切ることなどできず、そのうえで、他に選びようのない選択肢しかもたないベトナム人を前にして、いかに振舞うべきなのか。

いまの目で見れば、思索は堂々巡りで、頭でっかちだ。なるほど、パターナリズムは回避しえている。しかし、自己への問いかけを極大化してはいても、ベトナムに対するオリエンタリズムからは脱却することができなかったのだと思えてならない。もちろん、それは同時代の限界には違いなく、否定的な批判の対象にはならない。

意表を突かれるのは、ソンタグが、このことを、状況の分析ではなく、自己革命につながるものとして考えていることである。ただ、それはあやういバランスのもとに成り立っていたことかもしれない。晩年、ソンタグは、NATOによるコソボ空爆を支持したというのだから。

「その人間のうちに、”革命”が発生しかけたのであり、そして、それは進行しつづけるのだ。だから、私は北ヴェトナムで私の身に起こったことが、アメリカ帰国とともに終熄してはいず、いまなお進行中であるのを発見している。」

●参照
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C