古田元夫『ホー・チ・ミン 民族解放とドイモイ』(岩波書店、1996年)を読む。
ホー・チ・ミンの評伝を探したのだが、何しろ、いま売られている本でそのようなものが見当たらない。そんなわけで、割と新しい本書を入手した。よくまとまった本である。
ホーが生まれた1890年前後には、既にフランスの支配により、中国との行政・教育上のつながりは断たれていた(ホーの父の時代は、科挙試験がエリートへの門であった)。日露戦争(1904年~)の後には、ベトナムでも、日本に学ぼうとする運動があったという。しかし、ホーの父は、フランスに抗するために別の力に与することを良しとせず、フランス式教育を選んだ。仮に、ホーが日本に来て、孫文、頭山満や大川周明らのアジア主義者、インドから亡命してきていたラス・ビハリ・ボースらと接していたとしたら、その後の歴史はまた違ったものになったのかもしれないと考えると、興味深い。
やがて、1910年代から20年代にかけて、フランスにおいて、抑圧された自民族のことを考えるナショナリストとしての面と、レーニン主義に影響された共産主義者としての面とを持つようになる。このことは、ホーが、自分自身を極めてあやうい位置に置いていたことを意味する。思想それ自体についてではない。ソ連のコミンテルンが、ソ連を頂点とするエリート主義・教条主義へと突き進んでゆき、ホーが考えたような、地域からの独自な運動、階級闘争とは違う民族解放運動とは、相矛盾するものであった。
ここでも、たとえば独自の革命をなし遂げた者が粛清され、ソ連色に染まったモンゴルといった国とは、随分異なった道を歩むことができたわけである。中国に接近した時期もあった。
もちろん、最大のインパクトを持つホーの功績は、大戦終了時の独立と、長いインドシナ戦争・ベトナム戦争の主導である。著者によると、フランスをやぶったディエンビエンフーの戦い(1954年)や、アメリカに打撃を与えたテト攻勢(1968年)は、周辺国や相手国の状況を分析してこその成果であったのだという。
ホーの一貫して高い評価は、親しみやすさや、政治的な綱渡りの手腕に加えて、好機を見出す能力によるものでもあったということか。
ホー・チ・ミン廟、2012年6月
●参照
石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
大宮浩一『石川文洋を旅する』
スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C