国立新美術館に足を運び、「チューリヒ美術館展」を観る。
何しろ近代美術の美味しいところ。好きな画家ばかりだ。眼福、こういうものは観るべきですよ。
セザンヌによるサント・ヴィクトワール山の塗り残し。爆笑必至のピカソの裸婦。確かに音楽的なカンディンスキー。神がかりとしか思えないクレーの手仕事。未来派へのつながりを予感させるセガンティーニ。ジャコメッティの極限的な切り詰めは暗黒舞踏。
国立新美術館に足を運び、「チューリヒ美術館展」を観る。
何しろ近代美術の美味しいところ。好きな画家ばかりだ。眼福、こういうものは観るべきですよ。
セザンヌによるサント・ヴィクトワール山の塗り残し。爆笑必至のピカソの裸婦。確かに音楽的なカンディンスキー。神がかりとしか思えないクレーの手仕事。未来派へのつながりを予感させるセガンティーニ。ジャコメッティの極限的な切り詰めは暗黒舞踏。
ナターリヤ・ソコローワ『旅に出る時ほほえみを』(サンリオSF文庫、原著1965年)を読む。
ヨーロッパのある国。主人公の「人間」は、優秀な科学者として国家予算を与えられ、「怪獣」を開発していた。その「怪獣」は、地底を自在に移動でき、人工知能を有していた。それだけでなく、威力の大きな爆弾が装備されているのだった。当然、政府はそれを軍事兵器として使おうと画策する。エリート主義の権力者は、独裁を強めていく。権力者にとって「人間」もエリート仲間であったが、知的に権力の横暴を許すことができない「人間」は、権力に背く。「人間」はとらえられるが、その前に、「怪獣」の軍事利用の芽を摘むことに成功する。
かれは「忘却の刑」に処される。死刑にでもすれば、かれが権力に抗う者たちの英雄として記憶されてしまう。それを嫌った権力は、すべての記録から名前と存在を抹消する。「人間」が、本当に名前を持たない人間と化してしまうのだった。かれは国外に追放され、権力が嫌う東方、すなわち、ソ連の方へと歩いてゆく。
これは、ソ連においてヨーロッパ資本主義を批判した作品の形を取っている。しかし、本質的には、個人の声を封殺する全体主義の恐ろしさを描いたものとなっており、すなわち、批判はソ連自体に向けられたもののように読むことができる。
その意味で、作品としての深さや成熟度はさほどではないものの、イスマイル・カダレ『夢宮殿』(アルバニア、1981年)、ストルガツキー兄弟『滅びの都』(ソ連、1975年)、ミラン・クンデラ『冗談』(チェコ、1967年)などを想起させられる。あるいは、卑劣な小人物の独裁者を描いたものという点で、テンギズ・アブラゼ『懺悔』(グルジア、1984年)という映画をも思い出してしまう。もっと言うと、いまの日本と比べざるを得ない。
ルイ・ヘイズ『Dreamin' of Cannonball』(TCB、2001年)を聴く。
Louis Hayes (ds)
Vincent Herring (as)
Jeremy Pelt (tp)
Rick Germanson (p)
Vincent Archer (b)
何しろ、最近の『Return of the Jazz Communicators』に驚いたばかりである。「大」が付くヴェテランだが、叩きっぷりは健在で、少し前の吹き込みも聴きたくなって探し出したのだ。
名義は「キャノンボール・レガシー・バンド」。ヘイズはキャノンボール・アダレイのグループで、凄まじい風圧のドラミングを展開していた(たとえば、この映像)。この盤でも、旋風、嵐、風圧。しかも、「Dat Dere」、「Work Song」、「Del Sasser」といった、キャノンボールお馴染みの曲。これはたまらない。
煽られるフロントはヴィンセント・ハーリングとジェレミー・ペルト。もう、ふたりとも、まったくケレン味がなくてヘイズと同様に痛快なのである。ペルトは当時25歳くらいか。この後、体格もプレイもさらに堂々とした路線を突き進むことになる。
ジェレミー・ペルト、2014年6月、SMOKE(NY)
●参照
ルイ・ヘイズ『Return of the Jazz Communicators』
ルイ・ヘイズ『The Real Thing』
マルグリュー・ミラー逝去、チャーネット・モフェット『Acoustic Trio』を聴く
フレディ・ハバード『Without a Song: Live in Europe 1969』
ジェレミー・ペルト@SMOKE
ジェレミー・ペルト『Men of Honor』
アーシュラ・K・ル・グィン『マラフレナ』(上・下、サンリオSF文庫、原著1979年)を読む。
物語は、19世紀前半におけるヨーロッパの架空の小国を舞台としている。
フランス革命(1789年)、ナポレオン戦争(1803-15年)を経て、ウィーン体制が構築された後の時代。この小国は大公国ゆえ、オーストリア帝国の間接支配下にあった(そのことを象徴することとして、メッテルニヒ外相の名前が幾度となく登場する)。議会も有名無実化していた。
主人公のイターレは、そのような政治と社会に憤りを覚え、田舎の大きな荘園を捨て、首都に出て反政府活動を行う。かれの名前はやがて広く知られることとなり、危険人物として投獄される。数年後、廃人のようになり出獄。やがて、隣国でのフランス7月革命(1830年)が起こり、次第にウィーン体制は崩壊へと向かう。イターレも首都には居られなくなり、また、田舎の荘園へと戻る。再出発を心に秘めて。
イターレが情熱を注ぎ、大きな犠牲を払って行ってきたことは、何だったのか。まったくの無駄ではなかったのか。そのような、イターレ自身の内省や苦しみが綴られ、読む者も苦しさを覚えないではいられない。また、「わたしは何をしているのだろうか、何者なのだろうか」と、自己の確立に苦しみ、傷を負うのは、イターレだけではない。しかし、作者ル・グィンの登場人物たちに対する愛情が、この作品を、ただの若者の失敗物語でない傑作にしている。
当時の政治情勢だけでなく、荘園地主の権力や、人びとを縛っていた因習なども描かれている。歴史小説と呼ぶべきか、SFと呼ぶべきかわからないが、とても面白く読んだ。