藤井忠俊『国防婦人会 ―日の丸とカッポウ着―』(岩波新書、1985年)を読む。
「国防婦人会」(国婦)は、1932年にわずか40人で結成された。のちに割烹着に白いタスキ姿が象徴的な存在となるその集団は、出征兵士を見送る女性たちであった。しかし多くは若い独身の兵士には直接的な関係がなく、家族でも妻でも恋人でもなかった。むしろ、「母」の構造なのであった。
国婦の特徴は、無思想と庶民性。当時すでに大勢の会員を擁していた「愛国婦人会」はオカネ持ちの集団であり(献金を行うときには目立つ存在であった)、また、羽仁もと子などに代表される先進的な思想を掲げた集団は広がりを持ちえなかった。それゆえに、国婦は、陸軍にとって社会統制のための使いやすい存在となり、急成長していった。
はじめは、哀れな若者を慰撫する活動。それは根本的に、戦争を所与の前提としてとらえる発想であった。やがて、戦争のために若者を送り出す活動、そして、戦争遂行を支えるために、歪な「イエ」制度を守り、無理な節約を進め、無理な食糧増産に励むほうへと進んでいった。そして、この構造は、「隣組」という相互監視の仕組として完成した。国家管理を下から引き受けるファシズムである。
これがどれだけ恐ろしいことか。藤田省三が説いた大小無数の天皇制社会にも近いものがある。
国婦や愛婦を含めた婦人団体は、1942年に統合され、「大日本婦人会」となり、それが戦後の婦人会にも引き継がれている側面があるという。なお、1943年の大日本婦人会のスローガンは以下の通りである。
一、誓って飛行機と船に立派な戦士を捧げましょう。
二、一人残らず決戦生産の完遂に参加協力いたしましょう。
三、長袖を断ち決戦生活の実践に蹶起いたしましょう。