『けーし風』第87号(2015.7、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した(2015/7/25、神保町区民館)。参加者は8人。
とはいえ、当日に新宿の「模索舎」で入手したので、まだじっくり読んではいない。
主に以下のような話題。
○本誌記事「ゲート前の人びと」では、キャンプシュワブ前に座り込む人にインタビューを行っている。比較的最近、個人的な取り組みをはじめた方もいて、とても興味深い。
○『沖縄うりずんの雨』を撮ったジャン・ユンカーマン氏は、ゲート前で歌い踊る人たちを目にして、「本土」との違いに愕然としたという。それは、ごく短期で終わるわけではない運動にあって、持続のために、現場で発明されたものであっただろう。そのことは、ともすれば悲壮に集中する「本土」の運動、そしてそういった従来のものとは異なる最近の運動を軽薄として批判する傾向と、大きな違いがある。
○しかし、個々の運動に相互に違和感があったり、知らないことがあったとしても、あとで学び修正すればよいだけのことである。「本土」には、「小異」ばかりを問題とする傾向がある。このことは「オール沖縄」と対照的ではないか。
○沖縄の運動において重要なことは「可視化」である。矛盾や暴力があらわに視えてしまう沖縄と、日常生活に埋没する東京との違いは大きい。東京における運動の高まりは、問題が多くの人に視えてきたからでもあるだろう。
○高江を撮った三上智恵『標的の村』(2012年)に対する違和感には、「テレビ的」な絵作りがあった。もともとテレビドキュメンタリーとして制作されたものでもあったからである。
○ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』では、1995年の女児レイプ事件の犯人たる3人の米兵が取材されている。そのひとりはカメラに向かって証言を行っている(残るふたりのうち、ひとりはアメリカで再度レイプ事件を起こし自殺、もうひとりは取材拒否)。これは、貧困生活にある若者を兵士にしていく構造(日米問わず)への批判でもあるに違いない。しかし、高里鈴代氏(「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表)は、この取材に対して、「背景には米軍の強大な軍事力があり、米兵の行動をゆがめている。そうした構造的な問題を考えさせる優れた映画だが、米兵の性犯罪に遭った女性の中には、彼の映像を見ることに耐えられない人もいるはず。私は証言映像は不要だったと思う。」と批判している(2015/7/20、朝日新聞)。
○新城郁夫氏は、『越境広場』創刊0号に共鳴し、マイノリティを一括りにして多様性を覆い隠すことの暴力を批判する。(わたしは、マイノリティを「外部」として設定し、彼らに<憑依>することでその真意を代弁するつもりになる言説(<マイノリティ憑依>)を思い出した。>> 植民地文化学会・フォーラム「内なる植民地(再び)」における岡和田晃氏の発言)(参照:崎山多美講演会「シマコトバでカチャーシー」)
○沖縄の運動においてヤマトンチュが多いことに否定的な声がある。沖縄独立論、米軍基地の県外移設論・本土移設論とも関連する。翁長知事の公約は、仲井眞前知事のブレーン時代から変わらず、「県外移設」であり、「本土移設」ではない。このあたりの曖昧さに注目すべきである。一方で、「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動(略称=引き取る行動・大阪)」という運動が登場してきている。
○松島泰勝氏の主張するポイントは、当初は「自治」であった。また、島袋純氏は、「自治」の観点から研究を進め、「島ぐるみ会議」への参加と軌を一にして独立論への距離を縮めたように見える。(参照:島袋純さん講演会「"アイデンティティ"をめぐる戦い―沖縄知事選とその後の展望―」)
○1960年代後半、金武湾のCTS阻止闘争があった(新崎盛暉氏の連載)。琉球政府の屋良主席は推進側であった。このことは、現在の沖縄へのUSJ・カジノ誘致と重ね合わせて考える必要があるのではないか。
終わった後、中華料理店で懇親会(店の名前を忘れた)。
●紹介された本・映画・集会等
高橋哲哉『沖縄の米軍基地―「県外移設」を考える』(集英社新書)
『越境広場』創刊0号
村上陽子『出来事の残響―原爆文学と沖縄文学』(インパクト出版)
新藤健一・編著『沖縄「辺野古の海」は、いま』(七つ森書館)
琉球新報社・新垣毅『沖縄の自己決定権』(高文研)
「ふぇみん」No.3090(浦島悦子「ジュゴンの里に暮らす」)
ジャン・ユンカーマン『沖縄うりずんの雨』
三上智恵『戦場ぬ止み』
2015/7/26 「沖縄と結ぶ杉並集会」(松本剛、安次富浩)
2015/7/26 「戦争法案反対!国会包囲行動」
2015/8/25 アジア記者クラブ8月定例会「朝鮮から「戦後70年」を問い直す 「140年戦争」という視座から」