ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(新潮クレスト・ブックス、原著2013年)を読む。
19世紀、気球に乗って旅をしようとする人たち。写真家のナダールも女優のサラ・ベルナールもいる。かれらはやはりどこかブチ切れていて、文字通り、地に足が着いていない。人間が跳躍できる以上の動きを体験してしまい、感覚もふわふわする。恋愛もふわふわしている。
それはそれとして、突然、バーンズ自身の物語へと話が移る。長年一緒に暮らした妻が急死してしまった。準備もなにもあったものではない。感覚も行動様式も、気球に乗ってしまった人間と同様であり、それまでの経験など何にもならない。周囲の言動に戸惑い、怒りを覚え、適応ができない。それを納得するための行動や努力自体が目的を失い、無意味なものになる。
バーンズの独白とも自己分析とも言えるような語りは怖ろしい。悲しみとは何なのか。報酬を求めての心の動きか、虚栄か。もうやめてくれと言いたくなるような言葉が次々に提示される。
「わたしはあなたより高くから落ちた。内臓の飛び散り具合を見てごらんなさい」
もちろんこれは皮肉やアフォリズムを集めたものではない。あらゆる罠と共存しながら絞り出した作家の言葉である。
解説によれば、『Pulse』も『終わりの感覚』も、この体験の最中に書かれたものであった。それゆえの迫力だったのか。
●参照
ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(2011年)
ジュリアン・バーンズ『Pulse』(2011年)
ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(1984年)