代島治彦『三里塚のイカロス』(2017年)を、イメージフォーラムで2回続けて観た。
このドキュメンタリーでは、空港予定地が三里塚に突然決められ、農民が震えるほどの怒りを覚え、反対に立ち上がるところから追ってはいる。それを思い出し、生生しく語る農民運動家も、映画の主な登場人物のひとりである。しかし、それ以外に焦点が当てられる人々は、外部から反対運動に身を投じ、三里塚にやってきた者ばかりだ。
かれらは主に新左翼であった。ブントのML派の女性たちは、大学を中退して、三里塚の農民の息子と結婚する。第四インターの者たちは、第一次強制代執行(1971年)に地下の要塞を掘ったときのことを語る。「この穴はベトナムに通じている」と呟きながら作業をしていたということであり、それはベトナム戦争の戦略に倣ったというだけではなく、大義に共鳴していたことを如実に示すものだった。第四インターはまた、プロレタリア青年同盟など他のセクトとともに成田空港の管制塔に突入し破壊する(1978年)。
すべては大義ゆえなのだった。かれらは通常の社会生活を投げ棄て現場に駆けつける。しかしそれは運動の組織的な指令による動きではなく、個人の考えや感情があってのことだった。したがって、かれらは、自分自身の人生を振り返り、なぜこのような運動や行動をしたのか、それがどのような意味を持ち、いまどう評価されるべきなのかを、驚くほど明快にすがすがしく語る。
一方、空港公団の担当者として、農民への立ち退き工作を進めてきた者が登場する。個々の農民の実態について語ることはできず、ただ可哀想だったと口にする程度である。しかし、かれの家が中核派によって爆破され、火傷を負った愛犬が死んだときのことを想い出すときに、かれは突然嗚咽する。農民や運動家とは対照的に、組織の決定によって動き、大義など一顧もできなかったに違いない。そのかれが人間らしい感情を溢れ出させるのは、大きな権力に蹂躙された多くの人に対してではなく、愛犬に対してであった。この映画が、組織というものの性質をとらえたおそろしい瞬間であった。
戸村一作反対同盟委員長が亡くなり(1979年)、その後、空港の条件付き容認かどうかなどを巡り、反対同盟は熱田派と北原派とに分裂する(1983年)。権力と組織による弾圧の結果は、社会の破壊と人間関係の分断に他ならなかった。そして、あまりにもおぞましい内ゲバの時代がやってくる。理想がいつの間にか抽象へと化けてしまい、幅広い理想を共有していたはずの仲間を殺害するに至る、これはあさま山荘事件(1972年)で既に見えていた現象ではなかったか。公団職員宅破壊事件や内ゲバには中核派が関わっていた。その中核派で三里塚の責任者を25年間も務めた者は、運動の個人史についてはやはり明快に語るものの、組織としての責任を問われると一転して曖昧になる。驚いたことに、代島監督は、最後に、それは組織の失敗だけでなく責任者の失敗でもあると詰めるのだ。氏の姿の映像もぶれる。
この映画は、組織・権力と個人との関係を垣間見せるだけでなく、運動と理念の抽象化・先鋭化が個人の存在を揺るがしてしまってきたことを露わに示しているものだ。見事である。小川プロの三里塚シリーズを観るならば、この映画もあわせて観なければならないだろう。
写真は北井一夫さんによる(『過激派』)。機動隊の車の金属板を手で剥がそうとしている写真など、まさに個人と大きなものとの不幸な接点のようにみえる。そして山崎比呂志さんのドラミングもまた素晴らしい。
クラウドファンディングにも参加したので、エンドロールに名前が入っていた。
●三里塚
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
宇沢弘文『「成田」とは何か』(1992年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
福田克彦『映画作りとむらへの道』(1973年)
小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)