Sightsong

自縄自縛日記

ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』

2017-10-29 22:57:50 | 思想・文学

ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(新潮社、原著1979年)を読む。

ヨーロッパにおいて、17世紀の初頭までは、性に対する社会的な態度は明け透けなものであったという。やがて、それは隠され囁かれる対象となってゆく。

そのことは、権力による抑圧ということを単に意味するものではない。性の側は、新たな発見と増殖を繰り返していった。フーコーがこのきっかけとして挙げる装置が、キリスト教のもとでの告白である。実際に信者が告白したのかどうかは本質的な問題ではない。この装置によって、性は倒錯や変態的なものを含め新たな関係を無限に見出し、それまでにはなかったノード間を結び付け、新たなものでありながら本能そのものとして成長していった。まさに「知への意志」である。

すなわち、これは、上からの権力に抗し拒否する下のダイナミクスなどではない。このとき権力に上も下もなく、別の権力関係の創出に他ならないのだった。これは人間の認識領域も、あるいは医学的な領域も拡張した。もとの人間は変わらずとも、人間が依って立つ世界は大きく変貌したということである。

ここからの展開はきわめてフーコー的だ。性の無数のノードがつながった今、もはや生か死かが問題となるわけではない。性という「死を賭してもよい」ほどのものが、死そのものにとってかわる。これが意味することはなにかといえば、生権力であり、生政治である。

フーコーは言う。

「しかし生を引き受けることを務めとした権力は、持続的で調整作用をもち矯正的に働くメカニズムを必要とするはずだ。もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となるのだ。このような権力は、殺戮者としてのその輝きにおいて姿を見せるよりは、資格を定め、測定し、評価し、上下関係に配分する作業をしなければならぬ。」

性という欲望装置が近代になり内部化され、本能と権力の中にビルトインされてしまった。さてこの思考は、第2巻以降どう展開していくか。

●ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『言説の領界』(1971年)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
二コラ・フィリベール『かつて、ノルマンディーで』


長沢哲+齋藤徹@東北沢OTOOTO

2017-10-29 09:48:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

東北沢のOTOOTOにおいて、長沢哲・齋藤徹デュオ(2017/10/28)。雨の中なのにハコが満員になった。

Tetsu Nagasawa 長沢哲 (ds)
Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)

まずは多数のドラムやシンバルの配置に驚かされたのだが、確かにそこから発せられる音は、楽器ひとつひとつの役割を定め集中しながらも、複数ということによって鮮やかに彩られたものとなった。

マレットの丸さと、近づいては離れるコントラバスとが間合いをはかりあうようなはじまり。長沢さんがハイハットを少し鳴らすと、それがまるで外部からの刺激のようになり音楽が動き始めた。次第に激しくなるふたりの音は、ときに、周波数の綺麗な山を破裂させるブラシと弦でもあった。長沢さんはドラムを和楽器の鼓のようにも鳴らし、コントラバスがその音の集約をまたダイヴァーシファイさせた。

長沢さんが演奏を小休止させ、サウンドが次の章に入った。マレットとシンバルの残響を何層にも重ね合わせた、大気的な音。齋藤さんは哀しみの曲を奏で始め、ドラムスの響きに刻みを入れてゆく。ブラシでの強度あるパルス、齋藤さんの口笛によって吹き込む風。齋藤さんのノイズとカズーのような音を発する笛、それに対して長沢さんはマレットにより執拗なパターンを繰り返す。お互いの音のシフトに次ぐシフト、しかし、そのふたりの音が独立に動くのではなく大きく重なる時間があきらかにあった。最後に、齋藤さんが、両手を何度も握り、振り、コントラバスから肉体への回帰をみせた。

セカンドセットは、齋藤徹さん復活を確信させられるものだった。これがテツさんだと思ってしまう、実に魅力的な倍音とノイズ。全開に向けて覚悟を決めたかのような演奏。その大きな河の流れに向かい、長沢さんは、シンバルとマレットでのドラムの残響を細やかに丁寧に合わせていった。ふたりの強度が上がりもして、そのときには、長沢さんはささらのような束を手にした。

激しい演奏で齋藤さんはちょっと疲れたのだろうか、コントラバスの後ろでしばしインターミッション。そして指に小さなパーカッションを4つ付けて、別の鳴り物も握り、力強く「歌」を奏でた。マレットがそれにシンクロした。やがて齋藤さんはパーカッション指輪を次々に投げ捨てるのだが、それまでの素晴らしい過程を祝うように、長沢さんがシンバルを鳴らしたのが印象的だった。

豊かに発散した音をまた取り戻し、糸をよりあわせるように収斂させてゆく齋藤さん、一方、それにより生まれる静かさを励起させる長沢さん。収斂させるだけでなく、その際にまわりのさまざまなフラグメンツを巻き込んでゆくような齋藤さん、スティールパンの鮮やかな金属音を想起させる音を発する長沢さん。そしてカーテンのように吊るされたベルの綺麗な鳴りと、齋藤さんの足踏みによって、演奏が収束した。

終わってから、齋藤徹さんの誕生日のお祝いがあった。愉しかった。

Nikon P7800

●齋藤徹
翠川敬基+齋藤徹+喜多直毅@in F(2017年)
齋藤徹ワークショップ特別ゲスト編 vol.1 ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+佐草夏美@いずるば(2017年)
齋藤徹+喜多直毅@巣鴨レソノサウンド(2017年)
齋藤徹@バーバー富士(2017年)
齋藤徹+今井和雄@稲毛Candy(2017年)
齋藤徹 plays JAZZ@横濱エアジン(JazzTokyo)(2017年)
齋藤徹ワークショップ「寄港」第ゼロ回@いずるば(2017年)
りら@七針(2017年)
広瀬淳二+今井和雄+齋藤徹+ジャック・ディミエール@Ftarri(2016年)
齋藤徹『TRAVESSIA』(2016年)
齋藤徹の世界・還暦記念コントラバスリサイタル@永福町ソノリウム(2016年)
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)
齋藤徹・バッハ無伴奏チェロ組曲@横濱エアジン(2016年)
うたをさがして@ギャラリー悠玄(2015年) 
齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi(2015年)
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹『Contrabass Solo at ORT』(2010年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
齋藤徹+今井和雄+ミシェル・ドネダ『Orbit 1』(2006年)
明田川荘之+齋藤徹『LIFE TIME』(2005年)
ミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹+今井和雄+沢井一恵『Une Chance Pour L'Ombre』(2003年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ+チョン・チュルギ+坪井紀子+ザイ・クーニン『ペイガン・ヒム』(1999年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)
ジョゼフ・ジャーマン 


写実(リアル)のゆくえ@姫路市立美術館

2017-10-29 08:59:30 | アート・映画

所用で姫路に泊まったついでに、喫茶店Komuffeeで名物のアーモンドバタートースト、前夜のバーSpooky Angelと、そのマスターに勧められた重絆でのランチ、もちろん姫路城。さらについでに、姫路市立美術館で「写実(リアル)のゆくえ」展。

高橋由一の鮭を観るか、という程度の気持ちだったのだが、これが面白かった。

石川寅治が19世紀と20世紀の端境期に描いた「浜辺に立つ少女たち」はぎょっとさせられた。サイズの合わない着物を着た少女7人ほどが、まぶしいのか微笑みともしかめっ面とも言えない表情で、画家に向かって立っている。それは自我をどこに持っていくか悩む個人も社会も体現しているようだった。

岸田劉生のグロテスクさ、靉光の異物感にもあらためて感じるところが多かった。そして中原實や長谷川燐二郎の奇妙なモダン感覚、木下晋の鉛筆画の不思議さ。