Sightsong

自縄自縛日記

イリヤ・カバコフ『世界図鑑』

2008-03-02 23:59:51 | 北アジア・中央アジア

東京新聞の懸賞でチケットが当って、世田谷美術館で、イリヤ・カバコフ『世界図鑑』展を観てきた。砧公園は、梅が綺麗だったので、下にシートを広げておにぎりを食べた。


券、「オーシャと友だち」、「巨人たちの長い一日」

カバコフの作品を実際に観たのは、1997年の「ポンピドー・コレクション展」(東京都現代美術館)に出展された、「自分の部屋から宇宙へと飛び去った男」というインスタレーション以来だ。(その後パリを訪れたときも、ポンピドーは運悪く建替え中だった。) ずっと気になる存在で、『イリヤ・カバコフの芸術』(沼野充義編著、五柳書院、1999年)などで触れようとはしていたが、展示には足を運べずじまいだった。だから、特にどんな中身かも確かめず悦び勇んで行ったわけだが、肩透かし半分、満足半分というところだ。


「自分の部屋から宇宙へと飛び去った男」

今回展示されているのは、カバコフが生活の糧として描いていた絵本の挿画である。ロシア・アヴァンギャルドを例にあげるまでもなく、ソヴィエトの現代美術作家たちには不遇の時代が長く続いた(それどころか、命の危険さえあった)。カバコフは大学でもたまたまイラストを専攻していて、生活上も「食うや食わずやの芸術家」ではなく、絵本の挿画が安住の地でもあったようだ。ただ、雪解けとともに膨大なテキストとインスタレーションという、もうひとつの世界が西側に見出され、いまに至っている。

面白いのは、作品=過去と見なす性癖が、カバコフの臆病な性格と相まって、世界や文脈ごとひっくるめて提示するというあり方が、インスタレーションにも絵本にも共通しているように感じられることだ。そして、それを読み替えれば、匿名性や普遍性ではなく、個人性、かけがえのなさということになる。

「だから私に言えるのは、ある種のシュルレアリストにとって煙草のパイプが普遍的イメージだとすれば、私のゴミに保証されているのはただひとつだけ―――それが実際に存在した、ということだけなんだ。」(カバコフ自身の発言、前出『イリヤ・カバコフの芸術』)

絵本の挿画のなかでは、「巨人たちの長い一日」が特にユーモラスだった。巨人たちの一日は人間の一年にあたり、ある月は寝たり、ある月はサーカスを観たりといった具合。職業的な挿画からは少し逸脱し、力が入っているのは「オーシャと友だち」。それというのも、ユダヤ人であることを隠してきたカバコフが、自分の出自を意識して描いた物語だったからだ。


『イリヤ・カバコフの芸術』(沼野充義編著、五柳書院、1999年) 今回再読して、ウラジーミル・タラソフがカバコフに何度も協力していたことを知った


美術館では、小学生以上を対象に、マトリョーシカのグリーティングカードを作ろうというワークショップを開いていた(息子の作品)。


沖縄「集団自決」問題(12) 『証言 沖縄「集団自決」』

2008-03-01 23:00:43 | 沖縄

沖縄タイムスの連載をまとめなおした、謝花直美『証言 沖縄「集団自決」 ―――慶良間諸島で何が起きたか』(岩波新書、2008年)を読む。あまりにも危険で、誤っている教科書検定を機に、これまで語ってこなかった多くの方々(サバルタン)が語り始めたのは、恐ろしい犠牲を理不尽に負わされた「自分史」を否定されたこと、それから同じことが将来起こりうるという確信、によるものだろう。

この「語る」ということが如何につらいことなのかについては、当然ながら、想像することしかできない。ただ、当事者の百万分の一に過ぎないかもしれないが、受苦の思いを共有することが義務に近いものだろうとおもう。本書も、やはり読み続けるのはつらいものがある。

教科書検定で「集団自決」の日本軍強制が消されたことについては、多くの当事者たちが、はっきりとその罪を口にする。

「「どこから、自分たちは、こんな大事な命、自分たちで(絶つなんて)・・・・・・、考えても考えられない。軍が強制したんですよ。消されたのは間違っている」」

「「周囲を見ると、親子そろっているのはわずかしかいない。親が手にかけたものの、最後まではできない。首に傷を残したまま生きている子どもたちもいた」。
 親にいったん手にかけられた子どもたちの心に、どんな傷が残ったのか。」

「「「集団自決」の体験は、いつも頭の中にある。300人余の人たちが亡くなっているわけですから。だから、できるだけ時間をかけて忘れよう、忘れようとして努力してきた。でも、またこのようなことが起こって・・・・・・」。」

「「戦後、沖縄ではたくさんの政党ができ、複数の新聞が発刊された。戦前とは違い、次第に批判能力というのが培われてきた」。しかし、高校歴史教科書の「集団自決」記述の軍強制の削除、南京大虐殺や日本軍「慰安婦」問題など、歴史を歪曲しようとする動きに対して疑問を持つ。「これまで大いに意見を言い、日本の戦争政策を批判し合ってきたはずだ。その中から何が生まれたのかと思うと非常に疑問だ」と言う。」

「母親は死に物狂いだった。なたを男の前に差し出しながら歩いたが、誰も応えようとはしなかった。住民は米軍に捕まったら残酷な殺され方をすると信じ込まされていた。母親の姿は特別ではなく、住民の姿そのものだった。」

こういった生の声、おそらくは痛い思いをしながらしぼり出されたであろう声に耳を傾け、かたや現与党やメディアの報道を―――教科書検定でも、イージス艦の犯罪でも―――みると、絶望的なほど距離があることは確かだ。