Sightsong

自縄自縛日記

<フェンス>という風景

2009-08-14 07:00:00 | 沖縄

宜野湾市の佐喜真美術館は、普天間基地を一部返還させて造られている。地図上では、普天間基地の中にあるように見える。凹の字のように入り込んだ土地の周囲には比較的新しいフェンスがあり、やがて古いフェンスと接続する。

美術館の屋上から覗き込むと、真下にフェンスがある。その先が普天間基地だが、昔からの墓も見える。フェンスの綻びの横に、宜野湾市による看板が掲げられていた。このように書かれている。

米軍のフェンスが損壊される行為が続くと、今後の市民広場の利用ができなくなることもあります。

中二階で振り返る顔は何か。そしてフェンスが風景化したとき、権力は最大化する。

普天間代替というウソの看板を掲げている辺野古には、フェンスではなく、鉄条網があった。『ホテル・ハイビスカス』(中江裕司、2002年)は、これをあからさまに所与の風景として描いた。新作『さんかく山のマジルー/真夏の夜の夢』は観ていないが、何を隠蔽し書き換えようとしているのだろう。

風景を異物として意識上に浮上させるだけでは足りないという、仲里淳の発言があった(『インパクション』163号、「沖縄―何が始まっているのか」、インパクト出版会)。

― 基地のフェンスやその向こうが見えているからといって、実の視線や意識がボーダーを超えることとはならない。日常や身体にどれだけの<暴力>が浸透しているかを意識上に持ってこなければ、内実のない観念に終ってしまう。


普天間基地(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号


普天間のフェンス(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号


普天間のフェンス(2009年) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号


辺野古、キャンプ・シュワーブの鉄条網(2007年) Pentax LX、FA★24mmF2.0、Provia 400X、DP


高江、「H地区」ゲート(2007年) Pentax LX、24mm★F2.0、Provia400X、DP

参照
『インパクション』 沖縄―何が始まっているのか
高江・辺野古訪問記(1) 高江
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘


オオタニワタリ

2009-08-14 01:03:55 | 環境・自然

ロイター記事に登場した。

樹や石に着生するシダ植物、オオタニワタリ。腐植土のベッドを作り、ひだひだの葉を伸ばしている様にはとても惹かれる。沖縄では珍しくもないのだろうと思っていたら、実は絶滅危惧種であった。沖縄本島に多いのはシマオオタニワタリで、葉の裏にある胞子が縁までの中ほどまでの幅しかないことが特徴だという。

なぜ「谷渡り」なのかといえば、「この植物が谷を渡るように分布するため」という由来らしいが、いまひとつ納得できない。(>> リンク

2009年、宜野湾市・佐喜真美術館近く


宜野湾、佐喜真美術館近くのオオタニワタリ Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ

2007年、今帰仁村・備瀬


フクギに着生したオオタニワタリ Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


フクギに着生したオオタニワタリ Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ


表からみた胞子部分の拡大(フクギに着生したオオタニワタリ) Leica M4、Carl Zeiss Biogon ZM 35mmF2、Tri-X、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

2006年、東村・新川川


東村、新川川のオオタニワタリ Leica M4、Pentax 43mm/f1.9、TMAX400、Gekko(2号)

参照
沖縄県今帰仁村・備瀬のオオタニワタリ
沖縄県東村・新川川のオオタニワタリ
科学映像館の熱帯林の映像


糸満のイノー、大度海岸

2009-08-13 00:34:20 | 環境・自然

今朝の日経・温暖化特集に登場した。白髪が目立っていてどうも・・・。

沖縄県糸満市大度海岸は、本島の南端に近いところにある。琉球石灰岩の断崖になっている場所が多い(沖縄戦を想起せざるを得ないところだ)。この大度海岸は断崖が海に直接接しているのではなく、イノーの干潟である。珊瑚礁で出来ており、リーフより陸側が干潮時には潮溜りになるわけだ。

イノーということばは沖縄のものであり、「礁湖」、「礁池」などに置き換えられる。良い説明が、吉嶺全二『サンゴの海と「赤土汚染」公害』(沖縄県教育文化資料センター 環境・公害教育研究委員会編『環境読本 消えゆく沖縄の山・川・海』に所収)にあった。ちょっと長いが引用する。

大潮の干潮時にはヒシ(※干瀬、リーフ)まで歩いていけるので舟はなくとも漁をすることができる。このような地形や景観は日本国内では鹿児島県の奄美大島から沖縄県下の島々が連なった約1000キロメートルにおよぶ琉球列島あるいは、南西諸島と呼ばれている島々だけにみられる。
 もっと南の島々やオーストラリアのグレートバリヤリーフなどでは、ヒシは渚から50~100キロメートルも離れたところにあるので大潮の干潮時でも歩いて行くことはできない。
 ヒシは、冬の季節風や夏の台風などによる大波を打ち砕いて、ヒシの内側を波静かにする。そこを方言ではイノーという。共通語では礁湖とか礁池とかいうが、南太平洋の環礁になったラグーンを訳した言葉であろうから沖縄のイノーを表すにはしっくりこない。

イノーは凸凹のある珊瑚礁で揺籃のようで、干満差の大きい干潟だから、多様性のある生き物たちがたくさんいる。干潟とは言え、三番瀬や盤洲干潟のような東京湾のそれとは様相が異なっていることを観察できて嬉しかった。

那覇在住の24wackyさんに案内いただき、「みん宿ヤポネシア」で準備させていただいてから歩いて向かった。宿泊もしていないのに、「ヤポネシア」の人たちはとても親切にしてくれた。素敵なところで、平和運動にも関わっておられて、今度はぜひ泊まりたいと思った。庭にはアセロラの木があった。那覇で買って食べたアセロラも、糸満産だった。


「ヤポネシア」のアセロラ 直後に水没したデジカメで撮影


イノー Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ


イノー Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ

ヘリトリアオリガイ(ジシクン)という二枚貝がびっちり群れを作っていた。タンパク質の糸を出して岩に食いついている。


ヘリトリアオリガイ(ジシクン) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ

じろじろ観察していると、突然黒い物体が現れて仰天する。ニセクロナマコ(ウマヌタニー)というナマコだった。先っぽのぎざぎざは触手で、ここから砂と共に有機物を取り込んでいる。しかし、同じクロナマコ科のクロナマコもいるようだが、なぜこちらは「贋」なのだろう。


ニセクロナマコ(ウマヌタニー) Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ

ある潮溜りには、血管のような線がたくさんあった。よく見ると、貝が動き回った跡なのだった。


貝の跡 Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ

またある潮溜りには、アマモのような植物があった。ジュゴンが食べるリュウキュウスガモ(ザンクサ)と同じだとすると海藻ではなく海草だ。


海草 FUJI GW680III、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC、2号フィルタ

植物には見慣れない形のものが多くあった。たとえば、コロッケのような、たわしのような形のもの。ガラガラという紅藻だった。また、きくらげのような形の白い海藻は、ウスユキウチワというものだった。下の写真では、ウデフリクモヒトデ(ガラサーダク)の周りで「のほほん」としている。


ウデフリクモヒトデ(ガラサーダク)とウスユキウチワ 直後に水没したデジカメで撮影

腕が長いヒトデは、他にも、ワモンクモヒトデという奴がいた。腕がひとつちぎれているが、再生できるのだろうか。


ワモンクモヒトデ 直後に水没したデジカメで撮影

ウニはあちこちに隠れている。ナガウニ(ウナー)だ。やんばるの東村にいるウニを食べたことがあるが、これが食用になるのかどうかわからない。


ナガウニ(ウナー) 直後に水没したデジカメで撮影

異形で吃驚した生き物は、ケブカガニだ。毛蟹どころではない。文字通り毛深だ。カモフラージュにはいいのかもしれないが、異形なので結構目立つ。


ケブカガニ 直後に水没したデジカメで撮影

ギンポというひょうきんな奴もいて、穴影からこちらを見ている。


ギンポ 直後に水没したデジカメで撮影

ゴカイの糞らしきもの(たぶん)。これは東京湾の「モンブラン」と同じだ。


ゴカイの糞 直後に水没したデジカメで撮影

もちろんこれだけではなく、魚、貝もあちこちでちょろちょろしている。カニは今回あまり目立たなかった。何日も通って観察したいところだ。

なお、イノーの生き物たちについては、『沖縄のサンゴ礁を楽しむ 磯の生き物』(屋比久壮実、アクアコーラル企画、2004年)によって確認した。「ヤポネシア」に置いてあって、便利なので帰る前に那覇で入手した。

●三番瀬
三番瀬を巡る混沌と不安 『地域環境の再生と円卓会議』
三番瀬の海苔
三番瀬は新知事のもとどうなるか、塩浜の護岸はどうなるか
三番瀬(5) 『海辺再生』
猫実川河口
三番瀬(4) 子どもと塩づくり
三番瀬(3) 何だか不公平なブックレット
三番瀬(2) 観察会
三番瀬(1) 観察会
『青べか物語』は面白い

●東京湾の他の干潟
盤洲干潟 (千葉県木更津市)
○盤洲干潟の写真集 平野耕作『キサラヅ―共生限界:1998-2002』
江戸川放水路の泥干潟 (千葉県市川市)
新浜湖干潟(行徳・野鳥保護区)

●泡瀬干潟(沖縄)
泡瀬干潟の埋立に関する報道
泡瀬干潟の埋め立てを止めさせるための署名
泡瀬干潟における犯罪的な蛮行は続く 小屋敷琢己『<干潟の思想>という可能性』を読む
またここでも公然の暴力が・・・泡瀬干潟が土で埋められる
救え沖縄・泡瀬干潟とサンゴ礁の海 小橋川共男写真展

●その他
加藤真『日本の渚』(良書!)
『海辺の環境学』 海辺の人為(人の手を加えることについて)
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
理系的にすっきり 本川達雄『サンゴとサンゴ礁のはなし』(良書!)


『チャイナ・ガールの1世紀』 流行と社会とのシンクロ

2009-08-11 22:00:00 | 中国・台湾

インターネット新聞JanJanに、李子雲+陳恵芬+成平『チャイナ・ガールの1世紀 女性たちの写真が語るもうひとつの中国史』(三元社、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『チャイナ・ガールの1世紀 女性たちの写真が語るもうひとつの中国史』

 本書を読み始めたとき、中国という激変した社会の様子が、ファッションにも反映されるのだろうという興味があった。それは浅薄な理解にすぎなかった。社会がファッションを要請し、ファッションは社会をときに追い越し、それを歴史として振り返ってみればシンクロしているのだ。

 はじまりは上海だった。アヘン戦争などを経て、<帝国>という異物との接点であり続けた魔都である。いびつな力はいびつな流行を生み、駆動した。それがいずれは、新興国家・中国のいびつな発展という内部的な力によって駆動されることとなった。文化大革命もそのひとつだ。本書によってクロノロジカルな変貌を眺めていると、ファッションというものの怪物性さえ見えてくる。

 纏足というしきたりがあった。孫文により、1912年、法令で禁止される。本書では、「“足”の解放」について、1歩を踏み出し難い世界への1歩だったとする。そして女性は“足”で立ち、外に飛び出し、新しい人生を広げた。この生活の変化が、都市の商業文化に影響し、社会が時代美女を創造し始める。何とも素敵な解説だ。

 1930年代になり、カレンダー広告は、女学生をヒロインとするものからモダン奥様に眼を向ける。消費社会の進展が要請した姿であった。明らかに購買能力があり、成熟したイメージが新商品に沿ったものだったからだ。その後、左翼・職業婦人・勤勉・質素といったイメージの変貌を経て、文革期には勇ましさが主流を占めるようになる。

 だからといって、上からの統制のためにファッションが変えられたとばかりは言えず、女性たちは緊張せずに自らを主張し、優美さを工夫したりもしている。つまり、政治社会からの1方向性ではないのだ。

 マスメディアがキャリアウーマンのことである「女強人」を宣伝したころ、化粧は攻撃的な雰囲気を漂わせ、肩パッドもそれを引き立てている。このあたりは、80年代日本のトレンディドラマに代表されるイメージとシンクロするようで、ここに至ってのクロスボーダーぶりは興味深いものだ。

 現代はどうか。グローバリゼーションも懐古趣味も交じり、アイデンティティの探求ぶりがそこには読み取れるのだという。現代の北京や上海の街頭風景の写真を見ると、日本を含めた他国と似ているようであり、独自なようでもあり、いずれにしてもファッショナブルで格好良い。現在進行形であるから、視線はもはや双方向で多方向に交錯している。

 静かに興奮させられる面白さだ。


金城功『ケービンの跡を歩く』

2009-08-11 02:12:19 | 沖縄

宜野湾市立博物館で、その界隈で掘り出された軽便鉄道(ケービン)の台座を目にしてから、ちょっとノスタルジックな気分での興味が湧いた。那覇空港近くのゆいレール展示館にも、幅が狭いケービンのレールをはじめ、時刻表や写真を見ることができた。

金城功『ケービンの跡を歩く』(ひるぎ社、1997年)は、そのゆいれーる展示館に、参考図書として置いてあったものだ。帰りの那覇空港の売店で探したら、あっさり見つかった。著者は元・沖縄県立図書館長。退職後、かねてからの希望であったケービンの跡を辿る作業を始める。

ケービンには3路線があった。すべて起点は那覇、現在のバスターミナルのところらしい。「仲島の大石」は、ケービン当時からある。そして全て、戦争のため1945年に廃線となった。

与那原線 那覇~与那原。所要32分(自動車で26分)。1914年営業開始。
嘉手納線 那覇~嘉手納。所要77分(自動車で60分)。1922年営業開始。
糸満線 那覇~糸満。所要67分(自動車で50分)。1923年営業開始。

3路線それぞれに1章が割かれており、駅や線路跡を探して歩いたり、現地の老人に尋ねたり、といった過程が順に書かれている。最初は、「スーパー○○の裏を北西に入り、30m歩くと・・・」という書きっぷりに困惑していたが、沖縄県の道路地図を横に開いておいて読むと、俄然楽しくなった。

たとえば嘉手納線。国道58号線にぴったり重なっていたわけではなく、集落や地形に沿って右へ左へとよれ続ける。逆に、58号が、米軍の都合のいいように開発したものであることもわかってくる。米軍といえばパイプライン通り。この、なかなか返還されなかった道に沿っても、ケービンは走っていた。宜野湾の真志喜か大山あたりで今度は58号の北側に出て、ターンム畑(田芋)の中を走る。パイプライン通りから離脱して58号を跨ぐのは、まさに宜野湾市立博物館近く、米兵の住宅がちらほらありそうな界隈のようだ。歩くスピードで書いているので、風景もゆっくり見えてきて面白い。


宜野湾、方向転換をする界隈のガジュマル Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC

比喩でなく、スピードは実際に遅かった。平均時速15km/h程度だったそうで、老人から聞き取ったエピソードがいろいろと紹介されている。例えば、

○上りでは自力で進めないことがあり、乗客が降りて押した。
○坂を上るために石炭をどんどん入れ、燃えきっていない石炭を外にほおり投げた。それで、サトウキビ畑でボヤが何回もあった。
○線路脇までキビが植えられていて、学生や機関手が時々抜いてはかじりついていた。失敗して落ちた機関手もいた。
○学生がよく飛び乗ったり、停止する前に飛び降りたりした。
○那覇の波之上祭のときには、多くの人がぶら下がるようにして乗ってきた。若者たちはまともに料金を払わなかった。

本書が書かれたのはもう10年以上前。既に、道路は大きく改変されていて、線路跡も駅舎跡もほとんどが姿を消していたという。あるとしても、「溝の中」といった具合である。しかし、歴史だけにとどめておくのはいかにも勿体ない。


『縞模様のパジャマの少年』

2009-08-09 11:01:51 | ヨーロッパ

家族が出払っていることもあり、友人たちとランチを画策したら、映画を観てからにしようということになった。久しぶりの恵比寿ガーデンシネマで、『縞模様のパジャマの少年』(マーク・ハーマン、2008年)を観る。

父親はナチスの軍人。家での「昇進」お祝いのパーティーでも軍服であらわれ、悲しそうに諌める母親に、こっそりと激しく、そんなことを人前で口にしないでくれと封じる。そして少年、姉と従順な母親を含め、家族4人で郊外へと引っ越す。そこは異様な場所だった。家から外に出ることはできず、使用人のユダヤ人を奴隷以下のように扱う軍人たち。

少年は裏窓を覗き、「農場」を発見する。それは強制収容所だった。強制収用所の一画には、ユダヤ人を「処分」する場所があり、常に耐え難い臭いの煙が立ちのぼっていた。遊びに行ってはいけない場所、しかし少年は同年齢の友だちを見つけ、有刺鉄線ごしに話をするようになる。その下は、簡単に掘ることのできる柔らかい土だった。

少年がいなくなったことに母親が気付き、探しはじめたとき、父は軍人たちと「処分設備を3倍にする」計画を練っている最中だった。因果応報、ホロコーストの「しわ」は、血で汚れたおのれの、無知で純真な息子に寄せられてしまった。

メッセージ性は明確すぎるほどわかりやすい。だが、フィクションとはいえ、イノセントな子どもを劇のダシに使うのはやめてほしい。そして、夫の仕事を知った妻の取り乱しようは不自然だ(いくらなんでも、ナチス将校の妻として、何か知っていただろう?)。登場人物それぞれを典型的な鋳型に当てはめすぎた劇だという印象が強い。よく出来てはいるし、「アメリカ」「中国」「イスラエル」「北朝鮮」など、かたまりでしか物を見ない人にはぜひ足を運んで欲しいとは思ったものの。

ガーデンプレイスの中はハイソ向けなので(笑)、駅近くの韓国料理屋でスンドゥブ鍋(豆腐チゲ)を食べて、コーヒーを飲んで帰った。夜になって、なかなか子どもがいるとできない暗室作業(というほどのものではないが)をはじめたら止められなくなって、寝不足になってしまった。


小森健太朗『グルジェフの残影』を読んで、デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』を思い出した

2009-08-08 00:25:31 | ヨーロッパ

G.I.グルジェフを登場させた小説だというので、小森健太朗『グルジェフの残影』(文春文庫、2006年)を読んだ。グルジェフに加え、同時期の神秘思想家ウスペンスキーが親しみやすい人物として喋り、さらにはスターリンの影をも見え隠れさせている。まあ面白いのですらすら読んだが、最後には耐え難いほど苛々している自分がいる。

この「親しみやすさ」が曲者だ。しかも狂言回しは朴訥で素直な青年であり、独白は馬鹿正直だ。「3日でわかる何々」と、どこが違うのだろう。宣伝にあるような「スリリング」さはなく、「本格歴史ミステリ」などでは決してない。何だか、「蒙を啓く」という意味での、嫌な「啓蒙」臭が漂っているようだ。途中で、ドストエフスキーの『罪と罰』を引用している箇所があり、その文章はごく短いものだが、ほっとしてしまう。

最後に作家同士の対談がある。これがまた、作者の博識ぶりを持ち上げた内輪受けである。アホラシ!!

苛々しながら思い出したのは、デレク・ジャーマンルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの姿を映画化した『ヴィトゲンシュタイン』(1993年)だ。理系にはヴィトゲンシュタイン好きが少なくなく(多分)、自分も『論理哲学論考』に惹かれてしまったのだが、その理由はおそらく本を開けばわかろうというものだ。

しかし、そういったヴィトゲンシュタインへのまなざしは、実はことばの有機的なつながりを軽く見ていることの裏返しであるように思える。それと近い意味で、デレク・ジャーマンの『ヴィトゲンシュタイン』がなぜダメ映画なのかと言えば、ヴィトゲンシュタインのテキストを映画に移植するという過ちを犯してしまっているからだ。

脚本を書いたテリー・イーグルトンは、何とも無邪気にこう言っている。ジャーマンに不満はなかったのだろうか?

ヴィトゲンシュタインの哲学のスタイルである言葉による当てこすりやウィットや辛辣さを”現実”のシーンに持ち込んだのである。ジャーマンの脚本はまったく別の感情的な特質をもっている―奇抜で、気まぐれ、その意味でも”英国的”だ。もっとも、私の考えではその結果、感受性が失われたが、辛辣なユーモアが”お笑い”的ユーモアに置き換えられたために、視覚的およびドラマ的な面白さが大幅に増したと思う。」(『WITTGENSTEIN』、アップリンク、1994年)

●参照
G.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集


八風畑、『黒砂糖の歴史』

2009-08-07 22:20:18 | 沖縄

南城市の(知念村の、と言ったほうが場所がイメージしやすいのだが)、「八風畑」という黒糖工場、兼、カフェで昼食をとった。砂糖きび畑の中にある。砂糖釜は入口付近に見える。黒糖を自由につまむことができるようになっていた。 これで旨くないわけがないのであって、実際にピザもぜんざいも旨かった。

食後、庭から樹々が繁る山の斜面の小道を歩いた。枝葉の間から知念の海が見えた。久高島は隠れていた。庭には山羊がいた。

旅から帰って、本当は旅の前に読もうと思っていた本を読んだ。名嘉正八郎『沖縄・奄美の文献から観た黒砂糖の歴史』(ボーダーインク、2003年)という、黒糖の歴史を追ったものである。

薩摩の琉球侵攻(1609年)後、徳川幕府は鎖国に踏み出した。奄美を割譲され、出米の負担が大きくなった琉球王府は、財政が窮乏し、黒糖の専売制を実施した。つまりこの時期、日本と清国というダブルバインドのことを考えなければならないが、同時に、日本/薩摩藩-琉球王府、琉球王府-琉球農民という2段階のバインドも重要だということだ。農民にとって、「収奪者は琉球王府なのか薩摩藩なのか」という状況であった。

そして、明治維新期における薩摩の財源になったのが、奄美黒糖であり、沖縄産糖であり、密貿易であったのだと指摘されている。

黒糖樽の動きは興味深い。黒糖は中頭、島尻で生産され、樽は国頭から集めていた。国頭村奥間の人の証言によると、自然林に入ってイタジイの木(やんばるの亜熱帯林でもっとも目立つ、ブロッコリー形の木である)を切り倒し、山包丁(山ナタ)、手斧、鉋を順に使って「クリ板」を作る。この頃山原船を持っていた、首里や那覇から都落ちしていた人々が那覇に運んだ。そのような南北の動きがあったという。

明治になってからの黒糖売買に沿ったオカネの流れがいくつか示されている。例えば、鍋島初代県令の時期、黒糖100斤の大阪市場の価格は6.5円。それに対し、農家からの買取価格は当初0.92円、のちに引き上げて3.2円。流通システムが現代よりも単純であったはずだと考えると、それほどマージンは必要ない。運送費を差し引いても県は巨利を得ていたという。ほとんど、現在のコーヒー取引と同様だ。

戦後の黒糖産業の歴史については、断片的な情報があれこれと書かれてはいるものの、整理して体系的にまとめられているとは言い難い。また、単位面積あたりの収量を増加させるための努力が不充分であったとの指摘はいいとしても、自由競争を完全に是とし、自由化もやむを得ないものだったとの論調は、納得できないところだ。ちょっと前、農家の統廃合と大型化に伴う効率化という主張がもてはやされたことがあったが、今では新自由主義に絡めとられたものに見えてならない。

●参照 
コーヒー(1) 『季刊at』11号 コーヒー産業の現在
コーヒー(4) 『おいしいコーヒーの真実』


アーチー・シェップの映像『I am Jazz ... It's My Life』

2009-08-04 00:46:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

愛しのサックス吹き、アーチー・シェップの映像作品『I am Jazz ... It's My Life』(Frank Cassenti、1984年)は随分前から何度も観ている。もちろんVHSだが、たしかDVDでも再発されていたはずだ。ちょっと前の『Imagine the Sound』(1981年)にもシェップの姿がある。願わくば、70年代初頭までのインパルス時代の映像も観てみたいところだが、あるのだろうか。

冒頭からふるっている。監督は、ジャズフェスでサン・ラをつかまえようとするが居場所知れず。そこにシェップが現われ、「ジョン・カサヴェテスの登場人物のように走り寄った」。シェップは、ドン・チェリー、フィリー・ジョー・ジョーンズらとともに、サン・ラの率いる豪華バンドの一員として参加していたのだ(何それ?)。シェップは映画化をその場で快諾する。

こうなるとシェップの思い入れが溢れ出す。アフリカをルーツとして、ジャズは米国で産まれたんだよ。チャーリー・パーカーは私のバッハだし、コルトレーンはベートーヴェンだ。エリントンが現われ、フレッチャー・ヘンダーソンも・・・。そう言いながら、悪乗りというか、パーカーと呟きながら、パーカーのオリジナル曲「Billie's Bounce」を、テナーで小気味良くジャンプするパーカー・フレーズで吹きまくる。しかしどうしてもシェップのサウンドになっているのは面白い。

黒人であることや政治への意識も幾度となく吐露する。車の中では、アルチュール・ランボオの『地獄の季節』を口ずさんだりもする。そこで仰天する話。シェップの曲「Mama Rose」は、ジェームズ・ブラウンの「Papa Don't Have a Brand New Bag」からインスパイアされて生まれたのだ。自分を含め、あまり歓迎されているとは言えないだろうヴォーカルは、ブラウンのことも意識しているのだろうか?

テナーサックスによる「In a Sentimental Mood」「Billie's Bounce」、ソプラノサックスとヴォーカルによる「Mama Rose」など演奏は長く収録されている。また、ウィルバー・リトルのベースを聴けることも嬉しいところだ。

サックスを吹くシェップのアンブシュアを見ていると、口まわりを緊張させるクラシックのそれとは対極にある。息継ぎせず吹き続ける循環呼吸奏法のときは仕方ないとして、そうでなくても、ぶほぶほと動いて非常にゆるい。10年前にシェップの真下で演奏を観たとき、それどころか、涎がたれまくり(!)、私の上にほとんど雨あられであったことを思い出す。あの独特な音の秘密はいかに。

●参照 イマジン・ザ・サウンド


イレーネ・シュヴァイツァーの映像

2009-08-02 17:58:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

スイス人ピアニスト、イレーネ・シュヴァイツァー。確か10年以上前に来日して法政大学などで演奏したような記憶があるが、聴きにいかず、いまだ後悔している。彼女の映像といえば、チャールズ・ゲイル、ジョン・ゾーン、ペーター・カワルド、A.R.ペンクの絵などあまりにも貴重な記録をおさめたドキュ、『Rising Tones Cross』(Ebba Jahn、FMP、1984年)において1曲のみ演奏しているのを観ただけだ。

最近、この『Irene Schweizer』(Gitta Gsell、Intakt、2006年)を観ることができた。75分間のドキュであり、これまでのシュヴァイツァーの活動や考え方が語られている。なお、映画の冒頭で、他者が「彼女はあまり海外に出向かず、日本にも行っていない」と言ったところ、即座に隣の男に「行ってるよ」と否定されていて、来日のことを思い出した次第である。

演奏の組み合わせは凄い。まずフレッド・アンダーソン(テナーサックス)、ハミッド・ドレイク(ドラムス)との初顔あわせ、ちょっと音を合わせただけでインプロヴィゼーションに突入する。アンダーソン爺がシュヴァイツァーのメロディーに対して繰り出す早いリフレーンは大丈夫かなと思わせるが、そこは問題ない。

ルイス・モホロ(ドラムス)とのセッションもある。アパルトヘイトを避けて南アフリカからスイスにやってきたモホロは、当時「ブルーノーツ」というグループの一員だった。68年のフランス5月革命を経てもいた。そしてシュヴァイツァーはそのエキサイティングな潮流の中で活動する。映像では、最近、南アフリカでのふたりの共演がおさめられている。シュヴァイツァーが、「ここでは主役はモホロ。私のピアノの位置は端っこのカーテンの隣。それでいいの」と、苦笑しているのが面白い。

ジョエル・レアンドル(ベース)、マギー・ニコルズ(ヴォイス)との女性トリオでは、内省的というレアンドルの印象が崩れる野蛮さ。そして、演奏仲間が女性であるときには、柔軟でユーモアもあり、男性の場合とはまったく違うのだと語る。

横井一江『Intakt Records ―クリエイティヴ・ミュージックの今を伝える―』(JAZZ TOKYO、2008年)(>> リンク)によれば、シュヴァイツァーは80年代スイスにおけるレズビアン運動のシンボル的存在であったようだ。それはともかく、シュヴァイツァーは、音楽と結婚したのだ、音楽にすべてのエネルギーを捧げたのだ、と、眼にうっすらと涙をためながら語ってもいる。

演奏の圧巻は、ハン・ベニンク(ドラムス)とのデュオだ。ふたりソファに並んで、お互いに60代、フリーをやってきたねとしみじみ語るシーンがあるが、その年齢を微塵も感じさせないベニンクのヴァイタルな動きには口を開けて観てしまう。来日のたびにやってくれる、スティックの1本を口に入れてのパフォーマンス。片足も使うドラミング。真剣な遊びはICPの精神そのものだ。

なお、ボーナスとして、アンダーソン、ドレイクとのトリオ演奏、ベニンクとのデュオ演奏も収録されている。最近の記録なので映像が抜群によく、新宿ピットインの真ん前で観ている気分になる(実際には欧州での演奏)。ここでのシュヴァイツァーの演奏も、レンジが広く、早くて重く、素晴らしいと思う。ベニンクとの演奏中、セロニアス・モンクの「Monk's Dream」に移行するところなどはひとつの大きな盛り上がりだ。聴く方はもちろん嬉しくて笑ってしまう。

●参照
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演)
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(モホロ来日!)
フレッド・アンダーソンの映像『TIMELESS』
『A POWER STRONGER THAN ITSELF』を読む


平和祈念資料館、「原爆と戦争展」、宜野湾市立博物館、佐喜真美術館、壺屋焼物博物館、ゆいレール展示館

2009-08-02 08:28:13 | 沖縄

■沖縄県平和祈念資料館

これまであまり南部には足を運んだことがなく、この資料館も初めてだ。沖縄戦の状況をなるべく具体的に示そうとしている展示には好感を持つ。また、戦後の復興の様子までもカバーしている。

映像やジオラマでの展示では、高地が激しい戦場のひとつとなっていたことが示されている。宜野湾の嘉数も、西原町の運玉森(運玉義留の)もそうだった。また、ガマの一部の再現が生々しい。稲嶺県政のときに、銃を構えて立っていた日本兵が何も持たずに立っている表現に変えられ、自決強要の日本兵については壕の中からそっくり消えてしまっていた、という改竄がなされている(24wackyさんの教示)。

戦後のAサインバーや米兵向け商店の様子は、これまでモノクロ写真で見ていたのみであり興味深い。なかでも、「Made in Ryukyu」の稀少カメラ、「ニューパックス」が展示してあったのには驚いた。奥武山公園近くの「カメラのたかちよ」にも保存してあるらしいが、今回は店の前を素通り。

■「原爆と戦争展」(那覇市ぶんかてんぶす館)

道を間違って国際通りに出てしまった(笑)ときに、眼に入ったので覗いた。広島・長崎のみならず、沖縄戦の証言もパネルで多く示されている。なかでも、ともすれば日本軍のみの責任という言説が支配的になり、米軍は住民を助け出したような文脈で語られることが多いが、米軍は日本軍を上回る残酷なことをしたのだという主張が目立つものだった。

峠三吉の詩、無名の方の詩はやはり恐ろしい。

■「道具たちのゆんたく~民具が語るぎのわんの暮らし~」(宜野湾市立博物館)

小ぶりだが血が通っている、このような博物館はとても好きなのだ。東村立山と水の生活博物館も、名護博物館も同様に面白い場所だった。

この特別展では、鍋などの生活用具のほかに、クバやソテツの葉で作った民具が並べてあった。虫篭も玩具も団扇も蝿叩き(ヘークルサー=蝿殺し)も作ってしまう。子どもも実際に触って遊べる。

鍋の蓋のことを「カマンタ」(釜の蓋)と言い、似ているから「マンタ」という呼び名になったことは初めて知った。ジュゴンのあばら骨で作られた銛があった。

国道58号の北西側、大山地区ではターンム(田芋)が広く栽培されているらしい。つぶして揚げると旨い、沖縄料理でしか食べたことがない芋である。喜友名地区には、石の古いシーサーが町のあちこちにあるらしい。次回以降の楽しみになった。

常設展示も充実している(過去の展示のパンフ『宜野湾戦後のはじまり』を入手した)。入口には、宜野湾で掘り出された、ケービン(軽便鉄道)が飾ってある。レールの幅が狭いもので、那覇と嘉手納、那覇と泡瀬、那覇と糸満をつないでいたものだ。これは後で、「ゆいレール展示館」でも詳しく見ることができた。

■「沖縄戦の図」(佐喜真美術館)

佐喜真美術館を訪れるのは2回目だ。普天間基地を一部返還してもらい、フェンスを新たに食い込むように設置した場所に作られている。実際に屋上から覗き込むと、真下はフェンスと普天間であり、その中に墓もある。

宜野湾市立博物館からワンメーターだろうと思ってタクシーを拾ったら、普天間をぐるっと迂回し、沖縄国際大学横を通ったりするので意外に時間がかかった。

今回は版画展をやっていて、これもそれぞれ楽しめたが、目当てはやはり丸木伊里・俊夫妻の「沖縄戦の図」。大きな展示室の真ん中に3脚の椅子が置かれており、座ってしばし観る。

■「つぼやをみ展、さわっ展」(壺屋焼物博物館)

ここも2回目か3回目だ。壺屋焼には大きくわけて、白くすべすべした「上焼(じょうやち)」と、赤くざらざらした「荒焼(あらやち)」とがある。前者は沖縄北部の白土や赤土(国頭マージ)が、後者は南部の赤土(島尻マージ)が原料とされている。それぞれ作り方が違っていて面白い。釉薬についてもう少し知りたいところだ。

■ゆいレール展示館

息子がゆいレール車内でポスターを見つけて行きたいと主張するので、帰りに空港に行くのを早めて立ち寄った。空港から歩いて15分くらいのところ、ゆいレール本社内にある。幼児が寝てしまい、抱っこして暑い中を歩いてたどり着いたのでへとへとになった。

ゆいレールそのものについての展示はさほど多くない。ただ、パソコンでデザインを選んでいけば、最後にそのデザインのペーパークラフトがプリントアウトされる仕組になっているのは楽しい。

他の目玉は、沖縄の昔の鉄道についての展示だ。宜野湾市立博物館でも見たケービン(軽便鉄道)の地図や時刻表、レール、写真などがあった。那覇から嘉手納まで1時間40分くらい、泡瀬まで30分くらい、糸満まで1時間20分くらいで到着していたようだ(メモしなかったので適当な記憶)。

それから、南大東島にあった機関車についての展示もあった。砂糖黍を運送していたものであり、南大東島出身の内里美香が「島の機関車」で唄っていたこともあって興味があったものだ。


「琉球絵画展」、「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」、「赤嶺正則 風景画小品展」

2009-08-02 08:00:08 | 沖縄

真夏の子連れなので、炎天下をぶらぶら散歩、というわけにはいかない。海遊びのほかには、涼しい美術館や博物館にいくつか足を運んだ。他にも行きたいギャラリーがあったが、時間の余裕がなかった。

■沖縄県立博物館・美術館の博物館常設展

設立時にいろいろと揉めて、最近では「アトミック・サンシャイン」検閲事件があったハコである。巨大な建造物の中心にロビーがあり、左右に博物館と美術館が分かれている。新都心にあり、周囲はあまり魅力のないところだ。ただ、前回の訪沖時は年末年始で休み、その前は出来たばかりでオープン前、その前は首里からの移転工事中、といったわけで、随分と行きたかったところなのだ。やたら広くて疲れるので、博物館と美術館と2日間に分けて鑑賞した。

常設展は歴史、文化、考古学、自然などかなり充実している。これだけをまともに観ても足が棒になる。特に面白かったのは自然のジオラマで、やんばるの森や宮古・八重山、マングローブ域、海辺、イノーなどそれぞれ作られている。じろじろ見ると様々な生物や植物が隠れている。また琉球列島の隆起沈降の様子が把握できるギミックもあって楽しい。

ガイドブックも旧博物館時代より良いものになっている。(旧博物館には訪れることがなかったが、これだけは読んでいた。)


新ガイドブック


旧ガイドブック

■「空飛ぶ勇者たち 飛ぶを科学する」(沖縄県立博物館・美術館)

息子がポスターを見つけて行きたがったので、いの一番に入った。凧などを除いて沖縄独自の展示は少ないが、こういうのは好きである。

■「琉球絵画展」(沖縄県立博物館・美術館)

琉球王朝時代から明治期までの作品群。ほとんど知らない芸術家たちだが、やはり琉球なのだ。なかでも長嶺宗恭という画家の作品(『芭蕉の図』など)には惹かれるものがあった。また、首里城や那覇の鳥瞰図のような作品がいくつもあり、いまの様子と比べて眼で歩くことができた。

■「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)

それぞれ沖縄と深くつながった外部からの訪問者だ。ただ、今回は東松照明のドライな感覚が気分的に馴染めなかった。有名な波照間の海の写真をよく見ると、縦に引っ掻き傷がいくつもある。付きかたからしてフィルムの傷ではないだろうから、森山大道のように印画紙に一期一会の作為を施しているのだろうか?

また岡本太郎の写真など所詮シロート以下のもので、今回は展示されていなかった久高島の記録などを除いてさほどの興味はない。今回そのことを再確認することになった。石垣島で生きたまま(?)の山羊に藁をかぶせて焼く場面の記録には驚愕してしまった。

■沖縄県立博物館・美術館の美術館常設展

北川民次藤田嗣治などビッグネームの訪沖時の作品が興味深い。それを置いておくと、大嶺政寛大嶺政敏の兄)による写実や、安谷屋正義による先鋭な半・抽象に惹かれるものがあった。

■赤嶺正則 風景画小品展(那覇市ギャラリー)

予備知識なく覗いた個展だったが、サバニや民家など同じモチーフを描いた作品群は魅力的だった。透明感があり、ベルビアのような青い光は、蒸し暑いのではなく独特の感覚がある。4号キャンバスの小品が中心に揃っているのもちょうど良い。

画家がおられて、誘われるままに茶菓子をご馳走になりながら話をした。筆は固めで力が直接伝わるようなもの、絵具はマツダやホルベインが好みということだった。透明感はホルベインの所為かもしれないねとの言。沖縄のアートシーンは抽象画が多く、それは現場に時間をとられず頭の中のイメージだけで作品を完成できて、短期間での成果が得られるからだろう、という話もあった。

たくさんお菓子までいただいてしまったので、子どもたちのおやつにできた。


村井紀『南島イデオロギーの発生』

2009-08-01 13:55:56 | 沖縄

今回沖縄に行くにあたって、旅に冷や水を浴びせかけるに違いない書、村井紀『南島イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義』(岩波現代文庫、2004年)をあえて携行した。飛行機の中では子どもが騒いだりしがみついて寝たりしていたこともあるが、冷や水が痛すぎてなかなか読み進められなかったのは事実で、戻ってから読み終えた。これを読んだあとでは、「海上の道」などと無邪気に口走ることができなくなる。

問題として俎上に載せられているのは、柳田國男の晩年の説、「海上の道」だ。琉球とヤマトゥとを同祖にあると見なすこのストーリーは、日本の植民地主義と表裏の関係をなす「南島イデオロギー」に他ならないものだった。そして柳田國男の手は、植民地主義を自ら進めた者として、血で汚れていた。琉球に向けた眼は、それを忘却し、隠蔽するものだったとする。

柳田國男は官吏として、日韓併合(1910年)に相当深く関わっていた。また、日清戦争後の台湾獲得にも、山形有朋という存在にも、親族を通じてかなりの近い関係にあった。その侵略プロセスに異を唱えて離脱したのではない。たとえば日本統治下朝鮮での三・一独立運動(1919年)、関東大震災時のデマによる朝鮮人虐殺(1923年)といった占領の破綻を体験し、何事もなかったかのようにそれに眼をそむけ、政治とは関係ない南島ファンタジーを作りあげたのである。

勿論実際のところ、台湾獲得も日韓併合も、琉球処分(1879年)、さらには北海道の占領に遡る血塗られた歴史の流れにある。したがって、柳田の南島イデオロギーは、単一民族国家というイデオロギーに加担したものとして理解される。

筆者の批判は、アイヌを滅び行く存在として学術的に搾取した金田一京助にも、柳田國男のヴェクトル生成に大きな役目を果たした伊波普猷にも向けられる。伊波がいなければ柳田の「海上の道」は生まれなかったかもしれないし、その伊波の発展にはヤマトゥ出身の田島利三郎という教師の存在が大きく影響した(与那原恵『まれびとたちの沖縄』、小学館101新書、2009年)。

「さて、この「起源」の語りは、「日本」の「南北」問題という語りのうちに(実際、「南島」を論じるものは絶えず「北海道」を想起している)、「東西」の関係を消去してやまない。「西(中華・西欧)」に対する東の夷狄=日本というミゼラブルな自己意識を忘却させ、他者を消去するのが「南北」の軸なのである。」

「マレビト」による琉球侵略という、一見柳田と逆ヴェクトルにある折口信夫も、「ヤポネシア」を提唱する島尾敏雄も、琉球の存在を相対化し、同質化し、ヤマトゥのナショナリズムを強化するものだという。ここまで来ると舌鋒鋭すぎて、この攻撃自体がイデオロギッシュに感じられてくるほどだが、そのような側面は認めるべきにちがいない。

「ここで、1960年代から1990年代に復活した「南島」論と「民俗学」を見なければならない。基本的な骨格は柳田・折口を踏襲しており、これらが発見される過程も―――耐えがたき現実から「あるべき」世界に撤退したこと―――を反復している。島尾敏雄の「ヤポネシア」プランが登場するのは、1961年の「ヤポネシアの根っこ」からであるが、彼の場合、県立図書館長としての奄美行き自体がすでに「あるべき」世界への”亡命”であり、特攻体験を反復し、その濃密な愛の家庭劇『死の棘』の主人公が「妻」の「心の中」にアルカイックな女性を見いだすのは、愛による、同情に基づく、内的支配・「オリエンタリズム」(E・サイード)というほかにない。オリエンタリズムはつねに、愛情による支配の物語である。もとより「ヤポネシア」の(日本列島)の「根っこ」(奄美・沖縄)とは、「日本の源郷」・「原日本」を意味するにすぎない。日本のナショナリズムを「根っこ」から、相対化するというその主張は、実際には柳田らの「大陸」文明に対する”排他性”をも共有するように、”ナショナリズム”そのものなのである。」

●参照
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
島尾ミホさんの「アンマー」