Sightsong

自縄自縛日記

『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』

2013-07-14 10:43:39 | 北海道

NNNドキュメント'13」枠で放送された『ルル、ラン どこに帰ろうか タンチョウ相次ぐ衝突死』(2013/6/9放送)(>> リンク)を観る。問題提起のドキュメンタリーである。

タンチョウは、北海道東部、釧路湿原近くなどに棲息する。かつては江戸で越冬し、明治期には乱獲のため絶滅しかけた鳥でもある。

そのタンチョウは、いまでは、北海道で越冬する。なぜか。昭和に入り、北海道や国は保護に大きく方向転換したからだ。そのため、給餌が地道に行われている。

一方で、タンチョウの営巣地も個体数も急増している。電車との衝突事故は後をたたない。農害もあるという。人間に馴れすぎて野生に戻れないタンチョウもいる。地元のシンボル化、観光資源化、保護といった活動が生み出した矛盾である。環境省は、棲息地を北海道全域に広げるとの解決策を示しているが、新しい場所では、その矛盾ごと引き受けることが求められてしまう。

それはそれとして、このドキュメンタリーや、Youtubeで数多くアップされている映像を観ると、やっぱり釧路湿原に行きたくなる。大学生の時分に、本多勝一『釧路湿原』を読んで以来、ずっと憧れている場所なのだ。

参考映像
「危ないよ~線路上のタンチョウ親子」(番組でも紹介)
「タンチョウ 求愛ダンス」
「タンチョウ 赤い吐息 美しき光景」
「伊福部昭 交響詩・釧路湿原」

●NNNドキュメント
『狂気の正体 連合赤軍兵士41年目の証言』(2013年)
『活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択』(2013年)
『沖縄からの手紙』(2012年)
『八ッ場 長すぎる翻弄』(2012年)
『鉄条網とアメとムチ』(2011年)、『基地の町に生きて』(2008年)
『風の民、練塀の町』(2010年)
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『毒ガスは去ったが』(1971年)、『広場の戦争展・ある「在日沖縄人」の痛恨行脚』(1979年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


塩原良和『共に生きる 多民族・多文化社会における対話』

2013-07-14 08:37:47 | 思想・文学

塩原良和『共に生きる 多民族・多文化社会における対話』(弘文堂、2012年)を読む。編集者のHさんにご紹介いただいた本。

「多民族・多文化社会」を認め標榜したところで、多くの場合には、マジョリティがマイノリティを「認めてやる」形に陥る。このパターナリズム(強い者が弱い者の利益になるよう本人の意思に反して干渉する)は、マイノリティの怒りや、異議や、予期せぬ行動や、弱者からの脱却といった事態に遭遇すると、容易にその本性をあらわす。本書において、さまざまな視点から示されているのは、そのようなマジョリティの欺瞞に他ならない。

かつて(あるいは現在も)、厳しい抑圧を受けたマイノリティは、その疵をトラウマとして抱え、常に、抑圧者がふたたびあらわれるのではないか、また抑圧されるのではないかという恐れを抱く。かたや、罪深いほど無知・無邪気なマジョリティは、なぜそこまで過去に拘るのか理解できない。そして、異議申し立てを行うマイノリティへの攻撃にさえ転じてしまう。多くの場所でみられることである。

著者は、この溝を乗り越える手段のひとつとして<対話>を挙げる。もちろん、マジョリティが自分自身を正当化し、あるいは浄化するための手段であってはならない。当たり前のことに感じられるが、それすらも、可視化をタブーとし、ひとりよがりな<善意>や<歴史>を押し付け、その逆の流れを断固として拒絶するような現状においては、ほとんど成立していない。

良書である。

ところで、著者は、序章において、かつて自分自身が民間のコンサルティング会社で働いたことを告白している。その体験を振り返り、まるで、最新の情報を必死に取り込み、古い情報を書き変え続け、当面の成果だけを追求する世界であったかのように書いている。自虐の衣をまとってはいるが、これは、非常に失礼な見方である。言うまでもないことだが、その世界においても、<知>は蓄積される。このことは、図らずも、<学>における大学というマジョリティ性が相対化されていないことを、示しているのではないか。


ウォシャウスキー姉弟『マトリックス』3部作

2013-07-14 01:02:49 | 北米

何をいまさら、ウォシャウスキー姉弟による『マトリックス』3部作をまとめて観る。もはやDVDは1枚105円、まとめて315円。

●『The Matrix』(1999年)
●『The Matrix Reloaded』(2003年)
●『The Matrix Revolutions』(2003年)

とは言っても、テレビで何度も再放送していたから、適当にあちこち観てはいる。これらの作品が与えた影響は、アクションだけでなく、香港コメディやゴジラ映画まで幅広い。

仮想空間に棲息する人間活動というテーマでいえば、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』やジョン・バーンズ『大暴風』といったSFを思い出す。

その側面については、初作の完成度がもっとも高く、平行する世界をリアルに描いている。そして、こうしてまとめて観ると、シリーズ物の例にもれず、次第に緊張感を失ってこけおどしと化していくことがよくわかる。同じ登場人物でも、個性の紹介を甘えて省き、2時間程度に詰め込もうという制約も緩いものになっているのだから、これは仕方がない。確かスラヴォイ・ジジェクがこの映画を絶賛していたが、続編のことはどう考えているのだろう。


金史良『光の中に』

2013-07-12 07:30:22 | 韓国・朝鮮

金史良の作品集『光の中に』(講談社文芸文庫、1936-42年)を読む。短編が9作品収録されており、そのいくつかは青空文庫で読むことができる。

これらの短編に登場する人物は、極限状態にあるといえるほど貧困で、祖国を占領している国に抑圧され、卑屈であったり、弱気であったり、感情過多であったり。読んでいてあまりにも辛い。

しかし、ことさらに醜い人間の姿を描きながらも、それも人間だからこそなのだろうな、と思わせるような愛情が込められているようだ。すなわち、作者自身の情が過剰であり、それが描写のすみずみにこぼれている。どちらかといえば、物語の構成がわかりやすいわけではなく、個々の特別な人びとの挙動や懐かしい風景にのみ、情の眼というレンズが向けられているような感覚だ。

金史良は朝鮮戦争に従軍し、行方不明となった。もし生き長らえていたら、どこで小説を書き続けただろうか。日本で、日本語を使った小説ということはありえない。北朝鮮か、中国か。

●参照
青空文庫の金史良


大城立裕『朝、上海に立ちつくす』

2013-07-10 07:53:52 | 中国・台湾

大城立裕『朝、上海に立ちつくす 小説東亜同文書院』(中公文庫、原著1983年)を読む。

尾崎秀樹『上海1930年』(>> リンク)には、小説の舞台となった「東亜同文書院」のことが書かれている。「日中の共存共栄」を建学の理想として1901年に設立され、中国事情に精通した実務家の養成をその目的とした。日本の外務省直下に置かれてはいたが、中国人学生もマルクス経済学者もおり、自由な空気であったという。有象無象の人材を取り込むあたりは、満鉄調査部にも似たところがあるような気がする。

主人公・知名は沖縄出身。東亜同文書院に学んだ小説家本人の投影である。同期には、日本人・織田、朝鮮人・金山、台湾人・梁らがいる。やがて敗戦前後には、梁も金山も祖国の独立などの理想を抱き、学校から失踪することになる。そのときにはすでに、中国共産党の力も無視できない状況になっている。

この物語が描こうとしているのは、大東亜共栄圏という建前と、現実とのギャップである。学校も日本軍も、中国人を蔑視し、農家から食糧を強制的に取り立てる。何かがあれば、金山をスパイ扱いさえもする。目立った横暴だけでなく、日本人を一段上の存在だとみなすことは、おのおのの無意識にも浸透していた。反戦思想・厭戦思想を憎みながら、一方では、中国人・朝鮮人とは連帯するという矛盾を抱える者もいた。

そして、敗戦後、知名は、酔いながら、旧知の中国人・范に問う。「東亜同文書院は君たち中国人にとって何であったか」と。范の返事は、「東亜同文書院は中国の敵だ」というはっきりとしたものであった。日本人だけに通用する、ひとりよがりな建前に対する答えでもあった。何だか、在日外国人あるいは差別的日本人に向けて「仲良くしよう」というメッセージを掲げながらも、中には歴史をほとんど知らないことがあるという、最近の現象にも共通する点があるようにも思える(もちろん、善意の一部をアンバランスにしているだけだと思いたい)。

知名は、先輩の荻島と話す。

「荻島は、思考をなおも詰めていくような難しい表情になり、パイプに粉煙草をつめて火をつけるまで黙った。火をつけると、一服吸ってから続けた。
「支那の社会に密着するということが、そこにはあったのだが、支那浪人という生きかたは、それをきわめて日本的な善意でゆがめてしまった、と僕は思っている」
「日本的な善意で、ゆがめて、ですか」
知名は纏めかねた。」

ところで、小説家本人が「青春体験」と位置付けているように、小説全体にはノスタルジイが溢れている。それが過剰であり、この小説を凡作にしてしまっているように思うがどうか。

●参照
大城立裕『沖縄 「風土とこころ」への旅』
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(大城立裕に言及)
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』(大城立裕の小説を「ヤマトへの距離感」として整理)
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(大城立裕との対談)
尾崎秀樹『上海1930年』(東亜同文書院に言及)


デイヴ・ホランドの映像『Jazzbaltica 2003』

2013-07-09 00:19:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイヴ・ホランドのDVD、『Jazzbaltica 2003』(2003年)を観る。このように、ホランドのライヴ映像を観るのは、スティーヴ・コールマンやケニー・ホイーラーがフロントに立った『Vortex』(1986年)以来か。

Dave Holland (b)
Robin Eubanks (tb)
Chris Potter (ss, ts)
Steve Nelson (vib, marinba)
Billy Kilson (ds)

ピアノの代わりにヴァイブやマリンバを入れると空中浮遊的になる。スティーヴ・ネルソンの宙ぶらりな演奏スタイルは、泥臭さやブルースとは遠い場所にあるようで、なかなか効果的だ。(同様に、ネルソンが参加しているラルフ・ピーターソンのグループ「フォテット」も、好みである。)

何よりも、ホランドのベースが実に個性的で魅力的。リズムを下から刻むスタイルではない。むしろ、歌手のスキャットのようにも聴こえるそれは、ステージの中央でダンスを繰り広げているようでもある。

そして、同時に、メンバーのグルーヴをゆるやかに束ね、グループ全体をオーガニック化し、生き物のように内部から駆動する。何てカッコいいんだろう。

ロビン・ユーバンクスの軽やかに歌うようなトロンボーンにも聴きいってしまう。しかし、クリス・ポッターのサックスについては、実は、何が良いのかまだわからない。

●参照
カール・ベルガー+デイヴ・ホランド+エド・ブラックウェル『Crystal Fire』
ゲイリー・トーマス『While the Gate is Open』(デイヴ・ホランド参加)
ジョン・サーマン『Unissued Sessions 1969』(デイヴ・ホランド参加)


『科学』の「沖縄の自然」特集

2013-07-07 22:29:44 | 沖縄

『科学』2013年7月号(岩波書店)が、「沖縄の自然」特集を組んでいる。

多くのテーマについて、それぞれ1~3頁ほどの解説がなされている。

順番に挙げると、

○沖縄の自然の写真(川面を漂うサガリバナの写真が見事)
○琉球弧の自然の特性(『日本の渚』 >> リンク を書いた加藤真氏、さすがの味わい)
○長寿(塩分を控え、大豆蛋白や魚介類を摂ろう)
○イリオモテヤマネコ(西表島の特性にあわせて餌の範囲が幅広くなった)
○沖縄トラフ(大陸から離れたためにサンゴ礁が発達、巨大地震は起こりにくいが過去には大津波の記録あり)
○ホタル(明滅の間隔が短いために、民謡「じんじん」のテンポが速くなったという説)
○ジュゴン伝説(過去には八重山・先島諸島に棲んでいた)
○ジュゴンの声(海草を食む音の記録)
○伝説の生き物(ワニ、キジムナー、カッパなどの伝説)
○カエル(近縁種は東南アジア地域に多いが固有種。『カエル―水辺の隣人』の著者・松井正文氏による >> リンク
○ベラ(生き延びて強くなった雌が雄に性転換し、何とその逆もある)
○口永良部島の魚(ここでも、雄から雌への逆性転換がみられる)
○マングローブ(南大東島では、大正時代にマングローブ植林がなされていた)
○森とキノコ(やんばるの森にも冬虫夏草がある)
○カラス(大きさも習性も「本土」とかなり異なる)
○ソデイカ(餌のプランクトンの移動にあわせて、水深500mから水面近くまで移動する)
○スズメダイ(サンゴ礁生物との共存)
○更新世のシカ(琉球列島にはシカがいたが絶滅)
○ウニとエビ(ウニの棘の長さによって、ウニにへばり付いて成長するエビの大きさが異なる)

といったところ。

面白いのだが、何しろ短すぎる。頁数を5倍にしてほしい。

●参照
『科学』と『現代思想』の原発特集
『科学』の有明海特集


植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』

2013-07-07 01:16:29 | 韓国・朝鮮

植民地文化学会主催のフォーラム『「在日」とは何か』に足を運んだ(2013/7/6)。

「在日」とは、在日韓国・朝鮮人のみを示すわけではない。それがこのフォーラムの問題意識のひとつでもあったようで、テーマは、在日ブラジル人、在日中国人にも及んだ。

以下、各氏の発言概要(当方の解釈に基づく、敬称略)。

■ 外村大(東京大学) 「殖民地期における在日朝鮮人の文化活動

○1920年代以降、在日コリアンが増加した。
○生活は概ね苦しく、女性や子どもも労働力となった。街角では、朝鮮服を着た子どもたちが普通に遊んでいた。定住に伴い、祖国よりも祖国らしい、自分たちの場所として認識するようになった。
○文化への希求から、慰安会や商業的な芸能の興業などが開催された。同時に、娯楽だけでなく、プロレタリア文化活動も行われた。そして、文化活動の担い手は在日コリアンにシフトしていった。
○こういったことは、朝鮮学校での芸能活動などを通じて、現在につながっている。
○目立つ存在は、舞踏の崔承喜、歌劇の�樮亀子、小説の張赫宙金史良。これらの活動は、ゆるやかなネットワークを形成していた。
○1937年の日中戦争勃発なども影響し、プロレタリア文化活動は弾圧されていく。金史良は偽装転向して朝鮮半島へ脱出し(のちに朝鮮戦争に従軍して姿を消す)、一方、張赫宙は積極的に日本の国策に協力した。

■ 西成彦(立命館大学) 「在日文学と言語戦争

○在日問題と併せて、在外日本人と棄民政策との関係も重大な問題として捉えるべき。
○在日文学は、言語の問題を抜きにしては考えられない。文学者たちは、母国語への距離感を覚えながら活動した。
李恢成が、群像新人文学賞(1969年)、芥川賞(1972年)の受賞前後に、いくつか重要な対談を行っている。後藤明生が放った「朝鮮人であるということを度外視すべき」という暴言に対しては、逆に、日本人が朝鮮で朝鮮語による文学をやっているとしたら、日本人のことなど考えずにいられるのかと応じた。
○また、大江健三郎は、李文学について、「朝鮮語と日本語というものを、二つ自分の内部に持ちながら、その二つの言語が内部で争い合っている」と、本質的な指摘を行った。また、日本語の中にロシア語や朝鮮語の響きがあるとも指摘している。
沖縄の作家たち(大城立裕、東峰夫、目取間俊)の文学活動も、在日文学と共通する課題を抱えつつ、軌を一にしている。ただし、大城立裕『カクテル・パーティー』は、家庭内の会話に琉球語がなぜか入っていないなど策略的なものでもあった。また、目取間俊『目の奥の森』は、日本語のルビという機能を使い、二言語小説として提示したものだった。
○ところで、日本語を母語としないにも関わらず日本語で文学活動を行うリービ英雄について、注目している。
小松川事件(1958年)、金嬉老事件(1968年)は、在日文学者に、人ごととは思えない衝撃を与えた。

■ 李恢成(イ・ホェソン)(コメント)

言うまでもなく、在日コリアン文学の大作家である。

○西さんのまなざしは素直で優しく、こけおどしでない。今日、このような方に逢ったことはショックだ。
○なぜ日本語で書いてきたのかと訊かれる。武器は、日本語しかなかった。朝鮮語で書ければ、書きたかった。いずれはそうするつもりだった。金日成が1960年代に「朝鮮語で文学をやれ」と発言したことにも影響された。
○自分はサハリンで生まれた。そこには朝鮮人たちがいた。その言葉、叫び声、泣き声、オーバーな表現、そういったリズムが自分の中に入っている。

■ 田嶋淳子(法政大学) 「中国系移住者の過去・現在・未来―中国系エスニック・コミュニティの40年―

○在日中国人のオールド・タイマーズについては、戦後補償問題と切り離しては考えられない。一方、ニューカマーズは、自らの意思で日本に来た人びとである。
○1970年代初頭まで、台湾出身者が全体の半分を占め、さらに福建省や江蘇省の出身者が多かった。東北地方出身者はほとんどおらず、従って、70年代の横浜中華街は水餃子がないところとして知られていた。
○ところが、最近では、東北地方(遼寧省・吉林省・黒竜江省)が非常に多くなってきた。東北地方に多い朝鮮族たちは、日本だけでなく、4人に1人は韓国で暮らしている。したがって、エスニック・アイデンティティが非常に複雑なものになっている。
○それだけではない。国籍と文化のずれが、いまや世界的規模で起きている。
○インドでは二重国籍が許可されるが、韓国では一部にとどまる。中国では許可してほしいとの請願が繰り返されている。日本でも不可。

■ アンジェロ・イシ(武蔵大学) 「在日ブラジル人の場合

○自分は日系三世ではあるが、意図的に、在日ブラジル人一世だと名乗っている。
○かつては出稼ぎが多く、ポルトガル語としても「デカセギ」が定着した。2000年代に入り、短期滞在から移住へとシフトしている。しかし、2008年のリーマン・ショックとその後の派遣切りが、その流れを大きく変えた。いまでは在日外国人の数は、3位から4位に落ちている(中国、韓国、フィリピン、ブラジルの順)。
○1908年の日本からブラジルへの移民船就航開始から100年後、2008年に、ブラジル人が多い浜松市において「ありがとう日本」イベントが開かれた。これからも住みたいというメッセージでもあった。しかしそれは、リーマン・ショックと派遣切りによって、冷たく切り捨てられてしまった。
○2011年の東日本大震災の時には、被災地にさまざまな支援を行った。同じ日本社会の一員としての活動だった。しかし、現地から寄せられた感謝は、「海外(ブラジル)からの支援に心より感謝」であった。意図が伝わっていなかった。
○日本における在日ブラジル人たちのデモ行進は、派遣切りへの反対時(2009年)にはわずかな単語の羅列であったが、サッカー・コンフェデ杯の時(2013年)にブラジルやNY、ロンドン、シドニーとも連動してのブラジル政府へのプロテストを行った際には、非常に饒舌となっていた。在外ブラジル人としての意識が高まったあらわれである。

■ 李恢成(コメント)

○自分は在日朝鮮人としての活動にはこだわったが、対象を「在日」として拡げるやり方には、まだついていけない。時代からはじき飛ばされそうになっているのかもしれないが、レンズを絞ることしかできない。「ちっちゃい所から」の発想をしていきたい。
○在日朝鮮人に関しては、政治的な言説が目につくが、民族として世界を変えていこうとする面白さはあるのか。とても少ないのではないか。

■ 内海愛子(社会学者)(コメント)

○日本の国籍取得は血統主義である(1985年までは父系のみ)。
○日本人と外国人が国際結婚した場合、その子どもは、21歳までは二重国籍であり、22歳になる際に国籍を選択できる。日本に住む多くの場合、日本国籍が取得されている。
○日本の敗戦時、日本政府は戸籍によって国籍を定めた。このことは、国家が国民をどのように支配し、あるいは排除してきたかを考える上での観点となる。
○好景気を背景に労働力のニーズが高まった際に、日本政府は、労働力が欲しいが、その一方で外国人を入れたくないとの考えにより、1990年に入管法を改正した。すなわち、海外日本人移民の子孫であれば、在留資格が得られるとするものだった。それに伴い、在日ブラジル人が急増した。

■ 外村大(コメント)

○在日ブラジル人の方々は、震災復興に際して、日の丸とブラジルの国旗を併置している。これはたとえば在日朝鮮人ではありえないことだ。すなわち、歴史の問題が大きく異なっている。
○外国人労働力の輸入に関しては、1960-70年代にも、韓国人をもういちど入れようとの動きがあった。しかし、それは強制連行の歴史を容易に想起させるものでもあり、産業界はその策を採らなかった。
○最近では多文化主義が標榜されることが多い。しかし、それは相手が管理できるマイノリティである限りにおいてではないか。

■ 西成彦(コメント)

○確かに日の丸とブラジル国旗との併置にはぎょっとさせられるものがある。
○国旗とは、要求をつきつける対象でもあった。
○南北朝鮮に対する日本人の差別と同情は、南の経済成長と北の軍備増強を経て、嫌悪と敵対応戦へと変化している。

■ 田嶋淳子(コメント)

○最近では、内蒙古や東北の朝鮮族の人びとが、大変な勢いで日本国籍を取得している。それはひとえに有用だからである。日本政府は、永住権を付与することを嫌がり、むしろ帰化を薦めている。
○一方では、中国政府は、自国民を外に出したがっている。在外中国人は、中国に戻っても、なかなか戸籍を取得できない。

■ アンジェロ・イシ(コメント)

○1990年の入管法改正は、日系人を優遇する一方で実は移民を許さないという、実にずるい方法であった。
○日系ブラジル人にとって、日の丸だけでなく、君が代にも抵抗がない。感覚的には、サッカーのホームとアウェーの双方の国家を流すようなものに近い。

■ 西成彦(コメント)

○入管法上、日系のみ優遇することは、ブラジルからは、日本が人種主義国家に見えることでもないか。

■ 内海愛子(コメント)

○日本政府は1960年代から入管法の改正に着手した。その議論において、法務省は、一貫して外国人を日本に入れないという方針を堅持してきた。
○企業は、歴史上の問題を考慮し、労働力を入れるよりも資本を海外に出すという方法を選択した。
○ところで、インドネシアやフィリピンにおける残留日本兵の子孫が、1990年入管法改正に伴い日本に出稼ぎに来るようになった。彼らが、大洗の水産加工業を支えている現状がある。

■ 李恢成(コメント)

大岡昇平『レイテ戦記』は、日本文学の最高峰ともいえる作品である。その中には、誰かに助言され、フィリピンゲリラについての章を挿入してもいる。若い人への「聖書」としてもよい。
魯迅『藤野先生』は、政治の垣根を越え、人間としての日本人を恩師として描くものであった。このような観点を共有の認識にしたい。

●参照
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」
金達寿『玄界灘』
金達寿『わがアリランの歌』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
梁石日『魂の流れゆく果て』
青空文庫の金史良
朝鮮族の交流会
朴三石『知っていますか、朝鮮学校』
枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
朴三石『教育を受ける権利と朝鮮学校』
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
荒井英郎+京極高英『朝鮮の子』
波多野澄雄『国家と歴史』
鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
野村進『コリアン世界の旅』
『世界』の「韓国併合100年」特集
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真


芝健介『ホロコースト』

2013-07-05 08:00:00 | ヨーロッパ

芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』(中公新書、2008年)を読む。

ナチスドイツによるユダヤ人大量殺戮を意味する「ホロコースト」は、ギリシャ語の「丸焼きにする」という言葉からきており、ユダヤ人たちが、自分たちが生贄にされているのだということを示すために用いはじめた。しかし現在では、ナチスの虐殺を美化するイメージがあるとして使われなくなってきており、その代わりに、ヘブライ語で「絶滅」を意味する「ショアー」が用いられている。(飯田道子『ナチスと映画』) 但し、やはり日本では現在でも一般的な用語として定着しているのは「ホロコースト」であり、本書でも、そちらが用いられている。

ホロコーストは、アドルフ・ヒトラーというカリスマの狂気によってのみ引き起こされたのか。いや、そうではない。本書によりわかることは、19世紀から保守層によって組織化された反ユダヤ主義運動が目立ってきたということだ。曰く、体制の破壊者、戦争への非協力者、戦時利得者・・・。すなわち、第一次大戦にドイツが敗れたのはユダヤ人のせいで、ドイツ民族の敵・国家の敵・非国民を容赦してはならず、ドイツはじめての共和制国家たるヴァイマル共和国も打倒すべきだ、という論理であった。

従って、ナチス登場前のドイツにおいて、既にユダヤ人を嫌悪すべき敵とみなすプロパガンダがあらわれていた。また、彼らを標的にしたテロも発生した。社会に不満を持つ保守層が、身勝手な論理や風評や噂に基づき、特定の民族集団を嫌悪し、「本来得るべきではない利益を得ている」と決めつけ、社会から排除しようとする。これはまさに、現代日本で横行するレイシズムの姿と同じではないのだろうか。

ナチスが権力を掌握すると、この動きはエスカレートする。法的に「非アーリア」(=ユダヤ人)は権利を奪われ、排斥の対象となり、二級市民の地位に貶められた。ユダヤ人たちは窮乏を極め、出国を強いられることとなった。それはゲットーへの封じ込めに移行し、やがて、働ける者は働かせるが、働けない者、障害者、精神病患者はどこかに排除する、あるいは殺すという構造になっていった。収容所での大量殺戮、すなわちホロコーストは、この流れの「最終解決」なのだった。 

知らなかったことだが、収容所は「強制収容所」と「絶滅収容所」とに分類される。アウシュビッツはその両方を兼ねていた。強制収容所では、軍事産業の労働力となり(いまも存続するメーカーもある)、働けなくなれば、処刑された。絶滅収容所は、はなから処刑を目的としており、ソビブル、トレブリンカ、マイダネクといったところがあった。

これらがアウシュビッツほど有名でないのは、敗戦より前に閉鎖し、証拠隠滅が図られたからでもあった。軍は、国際法に違反する行為、非人道的な行為について、その証拠を残さない。日本軍においても原則は同じである。従って、戦時中のさまざまな犯罪について直接的な証拠の存在ばかりが論点とされるのは、悪質な意図、あるいは、無知に基づく現象であるということができる。

ホロコーストを推進した力は何だったのか。戦後の数多くの研究においては、大きくは、ヒトラーという存在のイデオロギーを重視する「意図派」、ナチ体制の官僚組織やテクノクラートによる構造から生み出されたという「機能派」に分けられるという。

もう一つ重要な点として、当時の世論や一般住民の反応をどのように位置づけるかということが挙げられている。かつては「知らなかった」という見方が多かったものの、近年の分析によれば、実は一般市民もユダヤ人の絶滅政策をある程度は知っており、それに対して受動的な態度しかとらず、多くは沈黙したということがわかってきたという。その解釈としては、無関心、あるいは、政策・体制との暗黙の合意の二つが挙げられている。いずれにしても、レイシズム横行社会の現代日本において、無視できない観点である。 

●参照
クロード・ランズマン『ショアー』
クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』
高橋哲哉『記憶のエチカ』(『ショアー』論)
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
プリーモ・レーヴィ『休戦』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
徐京植『ディアスポラ紀行』(レーヴィに言及)
飯田道子『ナチスと映画』


飯田道子『ナチスと映画』

2013-07-04 00:01:16 | ヨーロッパ

飯田道子『ナチスと映画 ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』(中公新書、2008年)を読む。

ナチスドイツの映画利用戦略については、レニ・リーフェンシュタールの存在を抜きには語ることができない。レニが1936年のベルリン・オリンピックを撮り、まるで、人類の進歩とは、肉体と精神とがお互いに研鑽し高め合うことだ、と言わんばかりの映像に仕立て上げた『民族の祭典』と『美の祭典』は、いまの目で観ても、確かに、完成度が高い。しかし、本書を読むと、ナチスが映画を用いたプロパガンダ戦略は、レニのような傑出した存在のみによって成立していたわけではないことがわかる。

20世紀前半は、映画というモンスターが、暴れる場を急速に拡大した時代だった。第一次大戦の敗北によるドイツ帝国の崩壊、ヴァイマル共和国の発足、政治経済の壊滅、それと裏腹の文化の爛熟。そのような中で、ヒトラーもゲッベルスも、映画の虜になった。そして、権力を手に入れた彼らは、映画の持つ力を最大限に使おうとした。すなわち、意識の高揚であり、強い国家への帰属という魅力であり、ユダヤ人排斥の刷り込みであった。

ナチスが滅びたあとも、ナチスを題材とした劇映画やドキュメンタリーは作られ続けた。興味深い指摘だと思うのだが、著者は、それによるナチスのイメージは自律的な存在と化しているとする。ナチス映画が過去に遡って記憶を生み、それがさらに別の記憶を生みだすというわけだ。

ホロコースト映画は、アラン・レネ『夜と霧』(1955年)(>> リンク)を嚆矢とする。その中で、著者は、生き残った者による、生き残った者のためのエンタテインメントたるスティーヴン・スピルバーグ『シンドラーのリスト』(1993年)と、生き残った者による、死者たちの記憶たるクロード・ランズマン『ショアー』(1985年)(>> リンク)とを両極に対置する。高橋哲哉『記憶のエチカ』(1995年)(>> リンク)と同様の議論である。

著者は、『ショアー』について、ドキュメンタリーなのか、ストーリーテリングなのかわからなくなると指摘する。その揺らぎを創出する、語り手の「沈黙の時間」。それこそが、『ショアー』がドキュメンタリーであることを証明するものだと「信じるしかない」と書いている。

その、収まりの悪さは、大文字の「歴史」を突き動かすものでもある。

●参照
クロード・ランズマン『ショアー』
クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』
高橋哲哉『記憶のエチカ』(『ショアー』論)
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』


中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本』

2013-07-03 00:16:31 | 韓国・朝鮮

中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』(高文研、2013年)を読む。

1894年、日清戦争。そのきっかけとして、わたしは、朝鮮における「東学党の乱」があったと記憶していた。

本書は、その位置づけに根本的な異を唱える。すなわち、「党」というような好ましからざる集団でも、正統の権力を揺るがそうとする「乱」でもなく、本来は「東学農民戦争」と呼ばれるべき歴史である、と。そして、これは日清戦争に至るきっかけなどではなく、朝鮮侵略そのものであったのだ、と。

確かに、日本の植民地主義的な直接行動は、蝦夷地併合(1869年)や琉球侵攻(1879年)が既にあり、朝鮮に対しても、日韓併合(1910年)より前、江華島事件(1875年)があった。既に、侵略国家なのであった。

本書においては、東学農民戦争での日本の軍事行動が検証されている。農民たちの蜂起を脅威として捉えた日本政府は、相手が東学農民であれば、文字通り皆殺しにせよと命じた。これは、広島大本営(臨時首都)(>> リンク)にあった伊藤博文や、朝鮮に赴いていた井上馨の意思でもあった。当時、朝鮮が交戦国でも植民地でもないにも関わらず、である。明らかな蛮行だったと言える。(言うまでもないことだが、交戦状態にあっても許されることではない。)


広島大本営(2013年6月)

この戦争における東学農民の死者は約3万人。一方、軍事の近代化を進めていた日本軍の死者はわずかに1人。ところが、本書によれば、その1人についての靖国神社や日本政府の公式記録においては、戦死の日時も場所も改竄され、中国での最初の戦闘時とされているという。すなわち、上からの「正史」への取り込みであり、ジェノサイドという歴史を消し去った以上、そこで亡くなった死者も消さなければならなかったというわけである。

ただの過去の史実ではない。現在につながる歴史として、可視化されるべきものだ。

印象深い当時の新聞記事が紹介されている。1894年、『香川新報』は、真っ当な主張を掲載していた。

「悪人の討たるるは、討たるべきの理ありて、しかして後ちに恨みなし、討たるべからざるの愚民、或は討たれ、或は害せらる、安くんぞ、恨みを後世に残さざるを得ん、百人死すれば、千人恨み、千人斃るれば、万人恨む、嗚呼、安んぞ永く我が徳を播くに便ならんや。」


坪井潤一『空飛ぶ漁師カワウとヒトとの上手な付き合い方』

2013-07-01 22:56:00 | 環境・自然

坪井潤一『空飛ぶ漁師カワウとヒトとの上手な付き合い方 ―被害の真相とその解決策を探る―』(成山堂書店、2013年)を読む。

旧江戸川で毎朝姿を見るカワウ。凝視していると、杭の上から滑空し、両足を揃えて着水、そして唐突にちゃぽんと潜る。魚を獲っているのである。本書によると、カワウが魚を発見する能力は大変なものがあるようで、どんなに透明度が低くても着実に捕える。

そのために、カワウは、漁民から時に害鳥扱いされる。せっかく放流したアユを食べられてしまっては、怒るのも当然である。しかし、著者によれば、その見方は極端にすぎる。むしろ、カワウの存在は「川の豊かさのバロメーター」なのであり、魚や人と共存すべき存在なのだという。逆に、埋め立てや河川改修といった水環境の悪化、汚染物質の蓄積などにより、1970年代には、絶滅寸前の存在であった。

また、水産被害といっても、単にオカネに換算した数字だけを見るべきではないとする。なぜなら、たとえば直接田畑を荒らす動物とは異なり、カワウは、人間と共有する魚類資源を食べる。共存であれば、カワウが食べた魚のオカネ換算は被害額とはいえない。

そのようなわけで、著者が強調するテーマは、「如何にカワウと共存するか」。銃で撃ったり、何かで脅したり、他の魚を放流してそれを食べさせたり。なお、対策のひとつとして試行された「カワウ食い」は、大失敗に終わっている。「信じられないくらいまずい」そうだ(笑)。

興味深いことに、カワウの糞を集めて肥料やリン資源としてリサイクルするアイデアが書かれている。リン資源はともかく、糞の利用は戦前への回帰であり、効率的に集めて取り出すという方法は面白い。何しろ、森を枯死させるほどの強烈な代物である。 

仕事は、このくらい楽しみながら展開していかなければならない。

映像
>> 川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(科学映像館)
>> 「カワウの大群(舞阪港にて)」 (本書で紹介)


2010年12月、旧江戸川

●参照
川本博康『東京のカワウ 不忍池のコロニー』(科学映像館の無料配信映画)
旧江戸川のゆりかもめ、カワウ(2010年12月)
旧江戸川のカワウ(2010年12月)
旧江戸川のゆりかもめ、カワウ、ドバト(2010年2月)