軽蔑
1963年/フランス
ジャン=リュック・ゴダールの‘悪意’
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
フランスの映画監督ジャック・ロジエが1963年に制作した2つの短編ドキュメンタリー映画『バルドー/ゴダール』『パパラッツィ』はブリジット・バルドーがこの『軽蔑』に出演していた時の彼女の様子を撮ったものである。ジャック・ロジエの‘問題提起’に関しては既述に委ねるとして、この『軽蔑』を改めて観てみるとジャック・ロジエとジャン=リュック・ゴダールの映像に対する姿勢は極めてよく似ている。
今更言うまでもないがジャン=リュック・ゴダールは映画監督デビュー前から映像に対して極めて懐疑的な姿勢を取り続けており、映像を信じていない映画監督というパラッドクスの葛藤の中で、同様のテーマを共有しているジャック・ロジエがなかなか作品を発表できない状況を考えると今日に至るまで作品を発表し続けていられるという奇跡の恩恵に浴している。
『軽蔑』という作品は冒頭からラウール・クタールが撮影しているシーンから始まり、予め観客にこの作品の物語にのめり込ませないように暗に促した後、女優のカミーユ・ジャヴァルと脚本家のポール・ジャヴァルの同じ言葉が繰り返されるだけの睦言から、フランス人のポール・ジャヴァルがアメリカ人の映画プロデューサーのジェレミー・プロコシュをフランチェスカ・ヴァニーニが通訳することで観客は同じことを2度聞かされることになり、ジェレミー・プロコシュはフリッツ・ラングが撮影した、出演者が‘ブロンズ像’ばかりの『オデュッセイア』のラッシュを見て激怒して、カミーユはポールを軽蔑する理由を言わないまま交通事故で死んでしまい、ようやくフリッツ・ラングが俳優を使って『オデュッセイア』を撮り始めた時にこの作品は終わってしまう。『軽蔑』という作品の‘つまらなさ’は映画スターを揃えて、ヒロインが裸になって、事故で死んで、ついでに作品の中でクラシカルな仰々しい音楽を流しておけば、俳優が‘ブロンズ像’でもダイアローグに全く意味が無くても‘悲劇’ぽく見えるというゴダールの確信犯としての‘悪意’によるものなのであり、これはジャック・ロジエの‘ヴァカンス(空虚)’な物語と通じる。
宇多田、過熱報道に「あとは見る人の判断」(サンケイスポーツ) - goo ニュース
宇多田ヒカルが来年から活動を休止するということと、Utada名義による2枚の
アルバムがレコード会社が期待していたほど売れなかった、特にリプリーズ・レコード
所属のフィリピン人のシャリース(Charice)の大ブレークを見て、宇多田ヒカルが
所属しているアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループは事実上、彼女に
“三行半”を突きつけたということだと思う。もう付き合うつもりがないのだろうから、
本人の意志を無視してでも、少しでも元を取り戻すためにCDが一番売れる時を勘案
するならば『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』と“パッケージ”で売ること
が宣伝費も節約できるのだから願ったり叶ったりであろう。