寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島風お好み焼き

2006年12月03日 | 外食

久々に店でお好み焼きを食うことになってしまった。地元の人間はマンガを読みながら「肉・玉・そばダブル」とか「エビ・肉・玉・チャンポン」という風に注文する。チャンポンとは【うどん+そば】のこと。

私は「肉・玉・(野菜ダブル)・イカ天」にした。広島風は刻みキャベツの蒸し焼きをクレープと玉子の薄焼きで挟み込んだ粗末な食い物だ。キャベツの水分をジワジワと飛ばして甘味を引き出す。この時間を計ってみたところ10分だった。味の面では関西風に完敗だが、ヘルシーという一点では若干こっちに分があるか(笑)。

店によってはメジャーになったあのソースをたっぷり塗って、更に魔法の結晶をこれでもかと振りかけるから気が抜けない。ソースには充分すぎる旨味調味料が仕込まれている。私はこの愚行を何度も直前に止めさせたことがある。

皿で食う客は猫舌か、二度と来ないであろう旅人のどっちかだ。鉄板の前でコテをうまく使えないようでは店の者に小馬鹿にされる。

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どうなる?日本人の“食”

2006年12月03日 | 日記
サンデー・ジャポンで飽食の陰に隠れた食材自給率の低さを報じていた。インタビューでは教養のありそうな50前後の婦人が「(日本人は)足るを知るってことばを忘れている」と自嘲気味に語っていた。耳の痛い話だ、と思った。

番組は次に“もしも輸入がなくなったら…”というテーマに移り、小麦粉・大豆が不足するとめん類・味噌汁も頻繁には口にできなくなくなると予想していた。私は飢えを知らぬ世代であるが、「物を粗末にするな」と祖父から口酸っぱく教えられたものだ。

‥いま、意見は「言う」、「述べる」、「主張する」ものであって、「する」ものではない。言う意見とする意見とでは「意見」そのものの意味するところもかなりちがうが、前者は、ということは、いま一般にいう意見は、多分に公言の色を帯びて言い、後者は特定の個人、相手に対してするという大きなちがいがある。いまの、言う意見はオピニオンである。たった一人の思うところにすぎなくても、それは尊重されている。むかしの、する意見はオピニオンにはちがいないが、ほとんど相手への訓し、戒め、忠告だ‥明治以降、次第にオピニオンが自由になってもなおしばらく、意見は言うものより、するものだった。戦後、アメリカ流の自由と民主主義が移植されるに至って意見は急速にするものではなくなった。年長者や経験者がそれだけの理由で重んじられる世の中でもなくなったから、その傾向に拍車がかかった。少し、それが行き過ぎた観もある。自信あるおとなはもっと意見を「する」べきである‥

これは京須偕充さん(1942年東京神田生まれ)の『とっておきの東京ことば(文春新書)』からの一節である。まともなことを言う人はまだいる。この本が売れている理由はいろいろあると思う(笑)。

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