平成7年(1995)に完成した溜川排水機場を川の左岸(玉島3丁目9)から望む。溜川は干拓地(低地)を浸水から守るために造られた悪水溜り(遊水地)である。山から流れて来る水や排水をここに一時的に溜め、干潮時に水門を開けて海に排出する。ゆえに台風接近による増水時には排水機場の役割が特に重要になるのだ。
排水機場のそばに設置された「郷土しおり」には玉島新田造成以降の歴史が簡潔にまとめられている。町歩きの際にはぜひ目を通しておきたい一文だ。
郷土しおり
玉島港は、17世紀後半、備中松山藩主水谷氏の新田開発に伴い、藩の外港として整備が図られ、北前船が寄港し、高瀬船が行き交う物資の集散地として栄えた。
港周辺には白壁の蔵や問屋が立ち並び、山陽の小浪華(なにわ)ともいわれ備中一の産業港として発展し、文人墨客の出入りも盛んで、経済・文化の両面で繁栄した港町であった。
排水機場およびゲート操作室の建物は、往時を忍び、港町の面影をイメージした白壁の蔵屋敷風とし、玉島のシンボルとして人々に親しまれるよう景観の配慮がなされている。
排水機場の向かい辺りに位置する「大正蔵」。この蔵が出来た頃、川岸は荷揚げで相当に賑わっていたものと推測する。現在の玉島港はのどかそのもので旅人が一服するには最適の場所だった。
排水機場のそばに設置された「郷土しおり」には玉島新田造成以降の歴史が簡潔にまとめられている。町歩きの際にはぜひ目を通しておきたい一文だ。
郷土しおり
玉島港は、17世紀後半、備中松山藩主水谷氏の新田開発に伴い、藩の外港として整備が図られ、北前船が寄港し、高瀬船が行き交う物資の集散地として栄えた。
港周辺には白壁の蔵や問屋が立ち並び、山陽の小浪華(なにわ)ともいわれ備中一の産業港として発展し、文人墨客の出入りも盛んで、経済・文化の両面で繁栄した港町であった。
排水機場およびゲート操作室の建物は、往時を忍び、港町の面影をイメージした白壁の蔵屋敷風とし、玉島のシンボルとして人々に親しまれるよう景観の配慮がなされている。
排水機場の向かい辺りに位置する「大正蔵」。この蔵が出来た頃、川岸は荷揚げで相当に賑わっていたものと推測する。現在の玉島港はのどかそのもので旅人が一服するには最適の場所だった。