回廊を下り左手のえびす宮を望む。備中一宮・吉備津神社には実に多くの境内社が存在する。
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若山宮の石鳥居を見上げてから右に曲がり御釜殿に到着した。私は鳴釜神事に関する説明を読み「温羅の首(頭蓋骨)が埋まっているとされる場所か…」と呟いた。
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
鳴釜神事とは神饌を炊く際の釜の鳴り方で「吉凶」を占うというものである。それは温羅を供養する意味合いを兼ねる。大昔吉備国を治めていた温羅一族(製鉄技術を吉備にもたらした渡来系の豪族)と大和政権(大吉備津彦の軍勢)との間で何度も武力衝突が起こり、ついに大和側が勝利する。双方の戦死者は相当な数に上ったと思われるが、敗軍の将の仕置と晒しがいかに残酷であったかは現代人にも想像はつく。
しかし吉備国を速やかに統治することは困難を極め、温羅を慕っていた豪族や民の怒りを鎮めるために温羅を神として祀ることが得策と判断したのではなかろうか。政治とは結局妥協の産物だから。吉備津神社の社号標と注連柱は勝者側の末裔とされる犬養毅の揮毫で大正十年(1921)に建立された。
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若山宮の石鳥居を見上げてから右に曲がり御釜殿に到着した。私は鳴釜神事に関する説明を読み「温羅の首(頭蓋骨)が埋まっているとされる場所か…」と呟いた。
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鳴釜神事とは神饌を炊く際の釜の鳴り方で「吉凶」を占うというものである。それは温羅を供養する意味合いを兼ねる。大昔吉備国を治めていた温羅一族(製鉄技術を吉備にもたらした渡来系の豪族)と大和政権(大吉備津彦の軍勢)との間で何度も武力衝突が起こり、ついに大和側が勝利する。双方の戦死者は相当な数に上ったと思われるが、敗軍の将の仕置と晒しがいかに残酷であったかは現代人にも想像はつく。
しかし吉備国を速やかに統治することは困難を極め、温羅を慕っていた豪族や民の怒りを鎮めるために温羅を神として祀ることが得策と判断したのではなかろうか。政治とは結局妥協の産物だから。吉備津神社の社号標と注連柱は勝者側の末裔とされる犬養毅の揮毫で大正十年(1921)に建立された。
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