消防庫の上に建立された石碑の裏には「昭和十年三月十日 済美同窓會建之」の文字があった。表には「済美校址」と刻まれている。
私は碑の周辺が「済美高等小学校跡地では?」と推測した。『赤坂村史(昭和四十二年)』より学校沿革を引用させてもらう。
済美中学校の前身は済美高等小学校である、明治三十年四月瀬戸津之郷二ヶ村組合創立にて当初瀬戸村大字山北、光満寺精舎を校舎に充て修業年限二ヶ年として開設せらる、…
明治三十一年四月修業年限三ヶ年となる、三十二年九月瀬戸村大字山北四十一番地宮の峠に新築移転した修業年限を四ヶ年と更に延長せられた。
同年校舎狭隘のため、光満寺庫裡に分教場を置く、…
明治三十五年赤坂村新に加れり三ヶ村組合となる。
明治三十九年山北熊野神社拝殿を第二分教室として授業なす、四十年校舎を増築なす依って二文教場を廃止なす
明治四十一年義務教育年延長に伴い修業年限二ヶ年に改めれる。
大正四年修業を三ヶ年に延長する、大正六年瓦葺二階建の校舎を増築した。
大正九年に済美実業女学校を併設した、更に昭和四年には済美実業高等女学校を設置した、之より曩大正十三年瀬戸村分離し赤坂津之郷二ヶ村組合となった。
昭和十年現在地に新築移転した、学校の敷地校庭は両村の境界線上にて約半方は赤坂分であり、半方は津之郷の地である、瓦葺二階建木造中央に玄関附一五教室、威容堂々たるもので校庭は、一、二二七坪、旧沼隈郡内最大の校庭であった。
瀬戸中学校は昭和二十四年廃止となり、即済美中学校瀬戸分校となった。
昭和三十一年十月両村福山合併により福山市立済美中学校と改称した。
附記 瀬戸分校の本校統合は昭和三十二年四月であった。
参考までに地形図福山近傍(大日本帝國陸地測量部・大正五年製版)より山北の熊野神社周辺を拡大しておく。神社のすぐ北側に文のマークがあるのがお分かりになると思う。
高等小学校は現在の瀬戸町山北子ども広場周辺に建っていたのではないだろうか。熊野神社拝殿や近隣の寺の庫裡が一時的にではあるが、分教場として使われていたことは興味深い。
子ども広場の下(草村の中)には大正期作の小さな石仏が並んでいた。赤坂町の市立済美中学校の原点は何と瀬戸町山北であったのだ。
私は碑の周辺が「済美高等小学校跡地では?」と推測した。『赤坂村史(昭和四十二年)』より学校沿革を引用させてもらう。
済美中学校の前身は済美高等小学校である、明治三十年四月瀬戸津之郷二ヶ村組合創立にて当初瀬戸村大字山北、光満寺精舎を校舎に充て修業年限二ヶ年として開設せらる、…
明治三十一年四月修業年限三ヶ年となる、三十二年九月瀬戸村大字山北四十一番地宮の峠に新築移転した修業年限を四ヶ年と更に延長せられた。
同年校舎狭隘のため、光満寺庫裡に分教場を置く、…
明治三十五年赤坂村新に加れり三ヶ村組合となる。
明治三十九年山北熊野神社拝殿を第二分教室として授業なす、四十年校舎を増築なす依って二文教場を廃止なす
明治四十一年義務教育年延長に伴い修業年限二ヶ年に改めれる。
大正四年修業を三ヶ年に延長する、大正六年瓦葺二階建の校舎を増築した。
大正九年に済美実業女学校を併設した、更に昭和四年には済美実業高等女学校を設置した、之より曩大正十三年瀬戸村分離し赤坂津之郷二ヶ村組合となった。
昭和十年現在地に新築移転した、学校の敷地校庭は両村の境界線上にて約半方は赤坂分であり、半方は津之郷の地である、瓦葺二階建木造中央に玄関附一五教室、威容堂々たるもので校庭は、一、二二七坪、旧沼隈郡内最大の校庭であった。
瀬戸中学校は昭和二十四年廃止となり、即済美中学校瀬戸分校となった。
昭和三十一年十月両村福山合併により福山市立済美中学校と改称した。
附記 瀬戸分校の本校統合は昭和三十二年四月であった。
参考までに地形図福山近傍(大日本帝國陸地測量部・大正五年製版)より山北の熊野神社周辺を拡大しておく。神社のすぐ北側に文のマークがあるのがお分かりになると思う。
高等小学校は現在の瀬戸町山北子ども広場周辺に建っていたのではないだろうか。熊野神社拝殿や近隣の寺の庫裡が一時的にではあるが、分教場として使われていたことは興味深い。
子ども広場の下(草村の中)には大正期作の小さな石仏が並んでいた。赤坂町の市立済美中学校の原点は何と瀬戸町山北であったのだ。