片岡山と呼ばれる小高い丘の上にある楯築弥生墳丘墓。遺跡名は吉備津彦命が温羅一族を攻める際に片岡山に矢を防ぐための石の楯を造ったという伝説に因む。弥生時代後期の墳墓としては最大級ということだが、団地造成によって破壊され北東への突出部分の一部のみが復原されている。ストーンサークル(5つの立石からなる)を見るために遠方から足を運ぶ人も多いと聞く。

立石の傍に楯築神社跡地を示す石柱が建っている。片岡多計留(かたおかのたける)を祭神とする神社は明治42年(1909)に矢部の鯉喰神社に合祀され社殿は解体されたということである。大正に入って御神体とされる弧帯石(亀石)が当地に戻された。

埋葬者の棺からは膨大な量の水銀朱(大変貴重なもの)が見つかり強大な権力を持っていたことが推測される。墓の頂上では神事が執り行われていたと研究者は考える。楯築神社の氏子の間ではここが「神の宿る場所」として伝承されてきた。

現在弧帯石はストーンサークルの南側に位置する収蔵庫に保管されている。以前某テレビ番組で石の独特の文様を見た記憶がある。丘の上から吉備の中山の形状を瞼に焼き付けた私は一旦下山することにした。


立石の傍に楯築神社跡地を示す石柱が建っている。片岡多計留(かたおかのたける)を祭神とする神社は明治42年(1909)に矢部の鯉喰神社に合祀され社殿は解体されたということである。大正に入って御神体とされる弧帯石(亀石)が当地に戻された。

埋葬者の棺からは膨大な量の水銀朱(大変貴重なもの)が見つかり強大な権力を持っていたことが推測される。墓の頂上では神事が執り行われていたと研究者は考える。楯築神社の氏子の間ではここが「神の宿る場所」として伝承されてきた。

現在弧帯石はストーンサークルの南側に位置する収蔵庫に保管されている。以前某テレビ番組で石の独特の文様を見た記憶がある。丘の上から吉備の中山の形状を瞼に焼き付けた私は一旦下山することにした。

