かつて早戸峠の頂は赤坂村と金江村の村境線であった(※頂から南側を藁江峠という)。現在は赤坂町早戸と金江町藁江を分けている。峠道(農免道路)の北側には石碑が3つ並ぶ。
右が茶摂待碑移転記念碑、中央と左が永代茶接待碑(大正と文政)、農免道路が完成して景観や道幅などが大きく変わったことは『福山市金江町誌(平成四年)』に詳しく書かれている。

藁江峠の永代茶摂待碑
昭和四三年着工、四七年に完成した藁江峠を越える農免道路沿いに建っている。工事により藁江峠を五m近く掘り下げるため現在地に移転された。茶摂待碑移転記念碑に記されている。
裏 福山市制施行六十周年記念竜王総合開発工事のため茶摂待碑休石をこの地に移転す。昭和五十一年三月吉日 世話人 村上昌三
江戸時代後半、沼隈半島西部に住む人々は、福山城下へ通う最短距離として、藁江峠の往来を主要道路としていた。長い坂道を歩いて旅する人々は、夏は苦痛の季節で、汗をかきながら峠を越えて行く人々の姿を見かねた藤江村の富豪山路氏は、文化十四年(一八一七)より、旧暦六・七月に限り、ここで茶の接待をはじめた。

休み石の後ろに建つ碑には、次のように記されている。
表 文政一四丁丑年初
永代六月七月茶摂待
当村辻堂下田壱畝壱歩 高壱斗三升四合
砂下田 壱畝十弐歩 高九升八合
畑 五畝十三歩 高四斗三升五合
台石 発願主 藤江村 岡本内松兵衛
…前記の土地の収入を茶の接待碑にあて、接待労務には小作人が当たっていたようである。明治の中頃より岡本山路家は没落の運命をたどり、経費の支出が不可能になった。茶接待にあてていた田は松兵衛の子孫や、小作人の土地となり、茶も出されなくなった。

一時途絶えていた茶接待を復活しようと考えた前田両蔵は、松永町山本国次郎に交渉し、国庫債券五百円の利息をもって必要経費に充当することになった。この石碑(債券利子時代の茶接待)には次のように刻んである。
表 永代茶摂待
寄附者 松永町 山本国次郎
横 大正十二年七月十日金江村之建
国庫債券 五百円也
世話人 金江村下河内 前田両蔵
この接待により昭和三年まで、田中の一老人が茶接待に当たっていたが、その後青年団員が毎日一人宛交代で接待に出ていた。
…接待時間は朝八時過ぎから夕方四時頃までで、一日数十人位に接待していたが、時に演習や訓練で兵隊が二百人も通って湯・水が不足するようなこともあった。当番は茶わかし日誌を記入した。
茶の接待は第二次大戦中に一時中止したが、戦後また復活し、昭和三〇年頃まで地元青年団・少年団の労働奉仕が続いた。素朴で心あたたまる習慣に今も郷愁をもつ者が多い。著者もその一人である。道の幅員も広がり若者達の車が次々と走っていくのを見ると、時代の波がひしひしと感じられる。

私は持参したペットボトルの茶をグビグビと飲み干した。難所越えの充実感をしばし味わい峠道の南側へ移動する。斜向かいの斜面にお堂があることに気付いたのだ。


お堂の奥に祀られていたのは大きな石だった(御神体?)。お堂の名前はなかったが、平成二十三年六月吉日と刻まれた碑が入口付近に建っている。

お堂の裏手に位置する福山市西部斎場(金江町藁江字茶臼山604‐2)まで足を延ばす。火葬が粛々と執り行われているようで駐車場にはかなりの数の車があった。握り飯を頬張りながら農免道路に向かう私は黒いスーツを着た複数の運転手とすれ違った。
右が茶摂待碑移転記念碑、中央と左が永代茶接待碑(大正と文政)、農免道路が完成して景観や道幅などが大きく変わったことは『福山市金江町誌(平成四年)』に詳しく書かれている。

藁江峠の永代茶摂待碑
昭和四三年着工、四七年に完成した藁江峠を越える農免道路沿いに建っている。工事により藁江峠を五m近く掘り下げるため現在地に移転された。茶摂待碑移転記念碑に記されている。
裏 福山市制施行六十周年記念竜王総合開発工事のため茶摂待碑休石をこの地に移転す。昭和五十一年三月吉日 世話人 村上昌三
江戸時代後半、沼隈半島西部に住む人々は、福山城下へ通う最短距離として、藁江峠の往来を主要道路としていた。長い坂道を歩いて旅する人々は、夏は苦痛の季節で、汗をかきながら峠を越えて行く人々の姿を見かねた藤江村の富豪山路氏は、文化十四年(一八一七)より、旧暦六・七月に限り、ここで茶の接待をはじめた。

休み石の後ろに建つ碑には、次のように記されている。
表 文政一四丁丑年初
永代六月七月茶摂待
当村辻堂下田壱畝壱歩 高壱斗三升四合
砂下田 壱畝十弐歩 高九升八合
畑 五畝十三歩 高四斗三升五合
台石 発願主 藤江村 岡本内松兵衛
…前記の土地の収入を茶の接待碑にあて、接待労務には小作人が当たっていたようである。明治の中頃より岡本山路家は没落の運命をたどり、経費の支出が不可能になった。茶接待にあてていた田は松兵衛の子孫や、小作人の土地となり、茶も出されなくなった。

一時途絶えていた茶接待を復活しようと考えた前田両蔵は、松永町山本国次郎に交渉し、国庫債券五百円の利息をもって必要経費に充当することになった。この石碑(債券利子時代の茶接待)には次のように刻んである。
表 永代茶摂待
寄附者 松永町 山本国次郎
横 大正十二年七月十日金江村之建
国庫債券 五百円也
世話人 金江村下河内 前田両蔵
この接待により昭和三年まで、田中の一老人が茶接待に当たっていたが、その後青年団員が毎日一人宛交代で接待に出ていた。
…接待時間は朝八時過ぎから夕方四時頃までで、一日数十人位に接待していたが、時に演習や訓練で兵隊が二百人も通って湯・水が不足するようなこともあった。当番は茶わかし日誌を記入した。
茶の接待は第二次大戦中に一時中止したが、戦後また復活し、昭和三〇年頃まで地元青年団・少年団の労働奉仕が続いた。素朴で心あたたまる習慣に今も郷愁をもつ者が多い。著者もその一人である。道の幅員も広がり若者達の車が次々と走っていくのを見ると、時代の波がひしひしと感じられる。

私は持参したペットボトルの茶をグビグビと飲み干した。難所越えの充実感をしばし味わい峠道の南側へ移動する。斜向かいの斜面にお堂があることに気付いたのだ。


お堂の奥に祀られていたのは大きな石だった(御神体?)。お堂の名前はなかったが、平成二十三年六月吉日と刻まれた碑が入口付近に建っている。

お堂の裏手に位置する福山市西部斎場(金江町藁江字茶臼山604‐2)まで足を延ばす。火葬が粛々と執り行われているようで駐車場にはかなりの数の車があった。握り飯を頬張りながら農免道路に向かう私は黒いスーツを着た複数の運転手とすれ違った。
