寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山市北区惣爪・明治天皇惣爪御野立所(その3)

2014年03月11日 | 
小高い丘の石碑(裏面)には「明治四十三年十一月…接戦砲火相交…」という文字が見え陸軍大演習の模様について記してあるようだった。私は頂まで行き「龍蹤(りゅうしょう)表彰之碑」を拝んだ。

龍蹤表彰之碑

夏目漱石の『こころ』には主人公の父親が明治天皇崩御の報を聞いて落胆する場面が出て来るが、高度経済成長期に生まれた私(が高校生の時)には理解に苦しむ点が多々あったのも事実だ。『続備後物語 / 村上正名』の第6話の中に「閑話休題 明治天皇崩御 菊かおる明治は終わる」という段落があるので紹介しようと思う。明治の世を生きた人にしか語ることのできない貴重な話だ。

 「明治天皇を拝もうと、朝早くから自転車を飛ばして岡山に行ったものです。当時自転車を持っている者は少なく、私のは神戸から買った外車だったので‐中古だったのですが‐。そうだったですね。あれは明治四十一年十一月の中ごろでしたか、岡山県下で陸軍大演習があり、大本営が岡山の後楽園に置かれ、広島の五師団も参加して、福山の四十一連隊や広島十一連隊も軍機を持って吉備平野で実戦そのままの演習が行われました。終わった十七日に岡山練兵場で観兵式があり、それを見に行ったものです。」
 明治天皇さんがお通りになるというので、道のほとりに土下座して待ちました。そのときの私らの感じは、陛下が前を馬でお通りになったが、それより前に十一連隊の軍旗が通り、その旗手が家の近所の藤井洋二という人だったので、なつかしく洋さんが通りようるなーと、それをよう見ました。軍旗は弾丸で破れていました。陛下が通られたときは、頭を上げている者は一人もありません。それでゴットゴット馬が通り、しばらくして頭をあげて見ました。いや拝みました。明治天皇さんを拝むのに、わざわざ福山から自転車で飛ばして、夜の明けぬうちから行ったのに、まあそうしたことでした。
 今ごろは私も戦後遺族代表で福山へ今上陛下が来られた時に、医師会館でお迎えしましたが、しばらく苦しかろうががまんしてくれるようーというおことばがありまして、前をお通りになるのを顔を上げて見ましたが、明治と昭和では、時代が変わったものですなー
 明治生まれの藤井宗市さん(明治二十六年生まれ)の話は続きます。明治生まれの人々のイメージに描かれる明治大帝は神格化の存在で、菊かおる明治節は明治のよき時代を回想するよすがとなっています。
 「お百度参りもしました。町内からも夜中参りで、明治天皇の病気平ゆ(癒)を祈ったものです。学校でも氏神様へ生徒を連れていきました」
 明治生まれの人々は異口同音に、明治四十五年七月の思い出を語られます。
 明治四十五年七月三十日午前零時四十分明治は終わりました。夜が白みかけるころ、号外の鈴は全国津々浦々にこの悲しみを伝えました。
 ほとんどの家は門戸を閉ざし、弔旗を掲げ、歌舞音曲は一切停止し、学校も授業をやめ、「自習たりとも黙読すべし」と声をひそめて喪に服したのです。

昔は福山にも確かに愛国者がいたのであるが、今はどうだろうか。嬉しげに自国の悪口ばかり言う(成りすまし以下の)垢が顎を上げている。まことに嘆かわしい限りである。眠巣に期待した連中もこれと同等の屑である。私は高い所から吉備平野を望み弁当を持参しなかったことを後悔したのだった。

丘の上から吉備平野を望む

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備後国沼隈郡山北村の獄門場跡

2014年03月11日 | 郷土史
私が熊野神社(愛宕大権現)に寄ったのは『備陽六郡志』に記載された獄門場の跡を辿る目的もあった。神社境内を抜けた背後(食品会社の北側)の道がどうやら該当しそうであった。

獄門塲
愛宕の脇より早戸へ越所に芝原あり、是を獄門塲といふ。福嶋以前より當村に足立庄兵衛とて、福優なるもの有。其弟九郎兵衛、力量人に勝れ、角力を好、醉狂し、親兄を手こめにし、自他の百姓共を打擲し、人を殺害する事、度々に及けれは、止事を不得して訴たり。勝成公被聞召、左様の溢もの捨置へからす、其村において獄門に掛へし、去なから心をあらたむれは却而柔和になるものなり、左あらは助置て角力に可召遣、能々申聞ヨ、納得せさるにおひては刑罸に行へしと被仰付。捕手の者多ク被遣けれとも、輙、捕事不能。漸に召捕、御意之趣申渡しけれハ□て九郎兵衛ほとのものなれとも、命か惜さに今にては猫の様になりたりと噂せられん事、何ほとか口惜かるへし。前々より我かまゝをせよ、角力取に召遣んとの事ならは難有と御請可申上、今より心を改よ、命を助け、めし遣んとの事、片腹いたき事也。所詮はやく刎首られよといひけれは、是非なく此処へ梟首せられしとなり。

食品会社の背後の道

熊野神社鳥居前の道

とりあえず神社の石鳥居前の道を南へ向かいホテルを過ぎた先で右折し丘越えに入る。地形図福山近傍(大日本帝國陸地測量部・大正五年製版)にある宮ノ峠(みやのたお)と同じかは自信がないが、赤坂町大字早戸へ抜ける道の一つだ。

坂道

山北倶楽部

立派な石組が両側にある坂を上り切った所に山北倶楽部が建っており、すぐ近く(少し奥まった位置)にお堂が見えた。

お堂

お堂内部

中を確認すると小さな石仏の類が上段に祀られていた。かつては休憩所として使用されていたのかもしれない。私はお堂の横から太陽家具の方を望み、獄門場は河手川南側(江戸期は芦原だったと思われる)の細い道筋にあったのであろうと目星をつけた。

検地

古地図2

水野勝成公の時代、藩の御仕置場は城下東西(外れ)に置かれていたが、改心を頑なに拒んだ罪人は芦田川左岸近くの斬罪場(おそらく前地)で刑を執行され、首は出身地の山北村に送られ峠道の途中に晒されたのであろう。歴史書が藩主の慈悲深い一面も伝えている点を見落とすべきではない。私は角さんの得意のポーズをして町境へと急いだ。

お堂の横から家具屋を望む

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続備後物語 / 村上正名(昭和四十九年)

2014年03月11日 | 書籍
南海トラフ大地震発生を想定した自主防災訓練が今週土曜日に行われる。福山市民も漸く津波に関して注意を払うようになってきた感じだが、過去の災害の歴史認識はまだまだ不十分である。続備後物語には明治17年(1884)8月25日~26日の巨大台風接近(岡山県南部を直撃)による高潮が干拓地を襲ったことがまとめられている。大正8年の大水害の件と一緒に読む価値がある。

ある資料(文献名が判明せず)には明治期最大級の台風(中心気圧960hPa)が九州西岸に上陸し、九州から東北地方まで被害が広がり、特に瀬戸内海を中心に高潮が起こり、死者1,992名、倒壊家屋4万3,894戸、大小船舶の沈没620隻などを数えた、とある。高潮発生の原因は満潮と台風通過が重なったためではないだろうか。本書には新涯西土手決壊(六五間)の記述がある。

 …「明治十七年八月二十五日八月二十五日大風雨、夜十一時ごろから二時にかけて大津波が起こり、芸備沿岸各地の家屋を流出し、人畜を毀(き)傷し、田畑を陥没し、みぞうの惨事を呈す」(沼隈郡誌)とあり「記録のよるべきなく、当時の被害統計を掲載し得ざるを遺憾とす」と書かれています。
 時代を遠ざかるほど、こうした記録、記憶は忘れられてゆきます。ところが、うれしいことに最近、福山市新涯町に住まれる橋本源一郎さんが「郷土のむかし話」という著書を送ってくださいました。「歴史として記録に残らない、多くの口から耳に伝えられてきた昔話が、老齢者が次第次第に世を去られるにしたがい永久に消滅するのを惜しく、そのままにするにしのびず」と、多くの聞き書きを収録されています。本当に、私たち民衆の歩みや心の動きは、記録として伝えられることが少なく、時代とともに埋もれてしまうのです。悲惨だった災害も、年とともに忘れられ「忘れたころに天災がくる」と嘆かれるのです。
 「郷土のむかし話」に、今はなくなられた藤井のおばあさんの話として、明治十七年の津波のことがあり、どんなにひどいものであったかを知ることが出来ます。
 わたしは、ちょうど十六歳でした。津波の夜、父がふと目をさまして、母に、「コウ(妹の名)が小便しているぞ」と申しました。みんなが目をさましてみますと、コウの小便ではなく、みんなの片身がぬれていて、潮水が床まできていました。
 「助けてくれ」と叫びましたが、外はまっ暗で、だれもきてくれません。隣の新庄屋へ、海水の流れる中をようやくたどり着き、屋根に登りました。次第に水位は増しましたが、ワラ屋根だったので浮き、屋根の上で夜を明かし、翌朝舟がきて助けてもらいました。
 とあります。新涯のあたりは全戸浸水したようです。…ある老婆の話…大津波で堤防が切れて半年ばかり修理も出来ず、潮が出たりはいったりして庭木の間でボラがはねていたこともかかれています。
 松永町誌を見ても、機織新開の堤防が切れ、すべての塩田に砂や小石が流れ込み、田畑の被害は全町にわたっています。内海沿岸の埋め立て地は防波堤が決壊し、湾港ふ頭も破壊され、ただ一つ鞆の玉津島の波戸だけ助かったと記されています。人畜被害、家財の流出は限りなく、人々は路頭に迷って他国に流れる人も多く、船はほとんどこわされて漁民は生計の道を断たれたと、松永町誌は続けていますが、「郷土のむかし話」は、これを裏付けてくれます。
 お年寄りの話は、早く収録しておきたいものです。

著者は旧制の福山誠之館中学OB。中学校で彼から歴史を教わった私の母は「先生は草戸千軒の話ばかりしとったなあ」と苦笑まじりに当時を回想してくれた。

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