小高い丘の石碑(裏面)には「明治四十三年十一月…接戦砲火相交…」という文字が見え陸軍大演習の模様について記してあるようだった。私は頂まで行き「龍蹤(りゅうしょう)表彰之碑」を拝んだ。
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夏目漱石の『こころ』には主人公の父親が明治天皇崩御の報を聞いて落胆する場面が出て来るが、高度経済成長期に生まれた私(が高校生の時)には理解に苦しむ点が多々あったのも事実だ。『続備後物語 / 村上正名』の第6話の中に「閑話休題 明治天皇崩御 菊かおる明治は終わる」という段落があるので紹介しようと思う。明治の世を生きた人にしか語ることのできない貴重な話だ。
「明治天皇を拝もうと、朝早くから自転車を飛ばして岡山に行ったものです。当時自転車を持っている者は少なく、私のは神戸から買った外車だったので‐中古だったのですが‐。そうだったですね。あれは明治四十一年十一月の中ごろでしたか、岡山県下で陸軍大演習があり、大本営が岡山の後楽園に置かれ、広島の五師団も参加して、福山の四十一連隊や広島十一連隊も軍機を持って吉備平野で実戦そのままの演習が行われました。終わった十七日に岡山練兵場で観兵式があり、それを見に行ったものです。」
明治天皇さんがお通りになるというので、道のほとりに土下座して待ちました。そのときの私らの感じは、陛下が前を馬でお通りになったが、それより前に十一連隊の軍旗が通り、その旗手が家の近所の藤井洋二という人だったので、なつかしく洋さんが通りようるなーと、それをよう見ました。軍旗は弾丸で破れていました。陛下が通られたときは、頭を上げている者は一人もありません。それでゴットゴット馬が通り、しばらくして頭をあげて見ました。いや拝みました。明治天皇さんを拝むのに、わざわざ福山から自転車で飛ばして、夜の明けぬうちから行ったのに、まあそうしたことでした。
今ごろは私も戦後遺族代表で福山へ今上陛下が来られた時に、医師会館でお迎えしましたが、しばらく苦しかろうががまんしてくれるようーというおことばがありまして、前をお通りになるのを顔を上げて見ましたが、明治と昭和では、時代が変わったものですなー
明治生まれの藤井宗市さん(明治二十六年生まれ)の話は続きます。明治生まれの人々のイメージに描かれる明治大帝は神格化の存在で、菊かおる明治節は明治のよき時代を回想するよすがとなっています。
「お百度参りもしました。町内からも夜中参りで、明治天皇の病気平ゆ(癒)を祈ったものです。学校でも氏神様へ生徒を連れていきました」
明治生まれの人々は異口同音に、明治四十五年七月の思い出を語られます。
明治四十五年七月三十日午前零時四十分明治は終わりました。夜が白みかけるころ、号外の鈴は全国津々浦々にこの悲しみを伝えました。
ほとんどの家は門戸を閉ざし、弔旗を掲げ、歌舞音曲は一切停止し、学校も授業をやめ、「自習たりとも黙読すべし」と声をひそめて喪に服したのです。
昔は福山にも確かに愛国者がいたのであるが、今はどうだろうか。嬉しげに自国の悪口ばかり言う(成りすまし以下の)垢が顎を上げている。まことに嘆かわしい限りである。眠巣に期待した連中もこれと同等の屑である。私は高い所から吉備平野を望み弁当を持参しなかったことを後悔したのだった。

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夏目漱石の『こころ』には主人公の父親が明治天皇崩御の報を聞いて落胆する場面が出て来るが、高度経済成長期に生まれた私(が高校生の時)には理解に苦しむ点が多々あったのも事実だ。『続備後物語 / 村上正名』の第6話の中に「閑話休題 明治天皇崩御 菊かおる明治は終わる」という段落があるので紹介しようと思う。明治の世を生きた人にしか語ることのできない貴重な話だ。
「明治天皇を拝もうと、朝早くから自転車を飛ばして岡山に行ったものです。当時自転車を持っている者は少なく、私のは神戸から買った外車だったので‐中古だったのですが‐。そうだったですね。あれは明治四十一年十一月の中ごろでしたか、岡山県下で陸軍大演習があり、大本営が岡山の後楽園に置かれ、広島の五師団も参加して、福山の四十一連隊や広島十一連隊も軍機を持って吉備平野で実戦そのままの演習が行われました。終わった十七日に岡山練兵場で観兵式があり、それを見に行ったものです。」
明治天皇さんがお通りになるというので、道のほとりに土下座して待ちました。そのときの私らの感じは、陛下が前を馬でお通りになったが、それより前に十一連隊の軍旗が通り、その旗手が家の近所の藤井洋二という人だったので、なつかしく洋さんが通りようるなーと、それをよう見ました。軍旗は弾丸で破れていました。陛下が通られたときは、頭を上げている者は一人もありません。それでゴットゴット馬が通り、しばらくして頭をあげて見ました。いや拝みました。明治天皇さんを拝むのに、わざわざ福山から自転車で飛ばして、夜の明けぬうちから行ったのに、まあそうしたことでした。
今ごろは私も戦後遺族代表で福山へ今上陛下が来られた時に、医師会館でお迎えしましたが、しばらく苦しかろうががまんしてくれるようーというおことばがありまして、前をお通りになるのを顔を上げて見ましたが、明治と昭和では、時代が変わったものですなー
明治生まれの藤井宗市さん(明治二十六年生まれ)の話は続きます。明治生まれの人々のイメージに描かれる明治大帝は神格化の存在で、菊かおる明治節は明治のよき時代を回想するよすがとなっています。
「お百度参りもしました。町内からも夜中参りで、明治天皇の病気平ゆ(癒)を祈ったものです。学校でも氏神様へ生徒を連れていきました」
明治生まれの人々は異口同音に、明治四十五年七月の思い出を語られます。
明治四十五年七月三十日午前零時四十分明治は終わりました。夜が白みかけるころ、号外の鈴は全国津々浦々にこの悲しみを伝えました。
ほとんどの家は門戸を閉ざし、弔旗を掲げ、歌舞音曲は一切停止し、学校も授業をやめ、「自習たりとも黙読すべし」と声をひそめて喪に服したのです。
昔は福山にも確かに愛国者がいたのであるが、今はどうだろうか。嬉しげに自国の悪口ばかり言う(成りすまし以下の)垢が顎を上げている。まことに嘆かわしい限りである。眠巣に期待した連中もこれと同等の屑である。私は高い所から吉備平野を望み弁当を持参しなかったことを後悔したのだった。
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