飛田新地の大門跡から最も遠い位置にひっそりと建つ慰霊碑。私は暗闇の中で静かに手を合わせて様々な運命について思いを馳せた。
慰霊碑・慈母観音(無縁仏)の由来について
以前は、高野山のお寺付近に無縁仏として慰霊碑があり数回おまいりを
致しておりましたが、数年ご無沙汰していましたところの所在が
不明となってしまいました。
慰霊碑は、いろいろな事情により飛田遊郭で働き、居住をしていた
多くの男、女(遊女)の方々が様々な事情や世間の風評で
遊郭外に移住することもままならず亡くなられた霊が安らかなれと
願い建てられたものです。
また慈母観音は地域に貢献されながらも、身内にも見取られないまま
亡くなられた多くの遊女たちの霊を供養し、彼女たちの苦労を決して
無駄にしないように、地域が一丸となって奉って行きたいと思い、合わせて
地元であります西成区山王三丁目に建てたものです。
ここに安らかに眠って頂きたいと心よりお祈り致します。
飛田社会福祉協議会 平成二十年八月吉日
歩行者の少ない通りに出たまでは良かったが、自分がどこに居るのか判らなくなってしまい、とある料亭の玄関先を訪ねた。眼鏡をかけた遣り手婆が暇そうに腰掛けていたので冷やかし(登楼する意思もないのに料亭の前を何度も通り過ぎる無粋な男)ではないことを伝え太子への戻り方を訊いた。
少し笑みを浮かべた彼女は「ビジネスホテルへ帰るんか」と言って頗る簡潔に道を教えてくれた。婆さんの話では新地で方向感覚を失う旅人は結構いるみたいだった。熟女通り(北)を西へ歩いて突き当たりを右折。彼女の説明通り「祇園寿し」という店があり胸を撫で下ろした。
慰霊碑・慈母観音(無縁仏)の由来について
以前は、高野山のお寺付近に無縁仏として慰霊碑があり数回おまいりを
致しておりましたが、数年ご無沙汰していましたところの所在が
不明となってしまいました。
慰霊碑は、いろいろな事情により飛田遊郭で働き、居住をしていた
多くの男、女(遊女)の方々が様々な事情や世間の風評で
遊郭外に移住することもままならず亡くなられた霊が安らかなれと
願い建てられたものです。
また慈母観音は地域に貢献されながらも、身内にも見取られないまま
亡くなられた多くの遊女たちの霊を供養し、彼女たちの苦労を決して
無駄にしないように、地域が一丸となって奉って行きたいと思い、合わせて
地元であります西成区山王三丁目に建てたものです。
ここに安らかに眠って頂きたいと心よりお祈り致します。
飛田社会福祉協議会 平成二十年八月吉日
歩行者の少ない通りに出たまでは良かったが、自分がどこに居るのか判らなくなってしまい、とある料亭の玄関先を訪ねた。眼鏡をかけた遣り手婆が暇そうに腰掛けていたので冷やかし(登楼する意思もないのに料亭の前を何度も通り過ぎる無粋な男)ではないことを伝え太子への戻り方を訊いた。
少し笑みを浮かべた彼女は「ビジネスホテルへ帰るんか」と言って頗る簡潔に道を教えてくれた。婆さんの話では新地で方向感覚を失う旅人は結構いるみたいだった。熟女通り(北)を西へ歩いて突き当たりを右折。彼女の説明通り「祇園寿し」という店があり胸を撫で下ろした。
大阪市西成区山王3丁目5-25にある料亭・鯛よし百番。現在は予約制で鍋料理などを食べさせる店となっているため、撮影しても大丈夫だ。大正期の建築といわれる元遊廓は昼間見るのとは随分印象が異なる。暗闇に浮かび上がる姿は実際よりも大きく見えるのだ。
鯛よし百番は平成11年に国の登録有形文化財に指定された。料亭の斜向かい(南西の一角)には遊里絡みの石碑が建ち並ぶ。フラッシュを焚いた時に「飛田(遊郭)新地料理組合の歴史」というタイトルだけは確認できた。
明治四十五年一月十六日午前一時ごろに難波新地(南の大火)の
火災が発生。十一時間以上炎上し一帯を焼き尽くした。
その後、府下東成郡天王寺村大字天王寺東松田西松田の一部
原っぱ同然だった二万坪に通称「飛田遊郭」が
大阪府告示一〇七号貸座敷免許地として指定される。
大正七年には、飛田の一部で一六〇件~二〇〇件一戸当たり娼妓数十名
余りの店が営業開始(つまり、失業した貸座敷業者の救済)の目的
飛田遊郭を経営者は阪南土地会社であったが、大阪土地建物会社が
対等条件で合併し飛田遊郭の家屋賃経営を引き継いでいた。
大正七年前後に新たに開発された飛田は戦中に大きな被害を受け、
戦後は赤線として復興が進められる。
貸座敷はお客さんの宿泊は認められていたが
しかし、昭和三十三年『売春防止法』によって飛田は大きな転機を迎え
その後、当時の新地組合長・協同組合理事長・帳場長の三者により
会議を重ね、料理組合として誕生。
鯛よし百番は平成11年に国の登録有形文化財に指定された。料亭の斜向かい(南西の一角)には遊里絡みの石碑が建ち並ぶ。フラッシュを焚いた時に「飛田(遊郭)新地料理組合の歴史」というタイトルだけは確認できた。
明治四十五年一月十六日午前一時ごろに難波新地(南の大火)の
火災が発生。十一時間以上炎上し一帯を焼き尽くした。
その後、府下東成郡天王寺村大字天王寺東松田西松田の一部
原っぱ同然だった二万坪に通称「飛田遊郭」が
大阪府告示一〇七号貸座敷免許地として指定される。
大正七年には、飛田の一部で一六〇件~二〇〇件一戸当たり娼妓数十名
余りの店が営業開始(つまり、失業した貸座敷業者の救済)の目的
飛田遊郭を経営者は阪南土地会社であったが、大阪土地建物会社が
対等条件で合併し飛田遊郭の家屋賃経営を引き継いでいた。
大正七年前後に新たに開発された飛田は戦中に大きな被害を受け、
戦後は赤線として復興が進められる。
貸座敷はお客さんの宿泊は認められていたが
しかし、昭和三十三年『売春防止法』によって飛田は大きな転機を迎え
その後、当時の新地組合長・協同組合理事長・帳場長の三者により
会議を重ね、料理組合として誕生。
自家製餃子を冷凍庫に入れて数日置いた。カチカチである。トレイにぎゅうぎゅう詰めにしたので一枚板のようになってしまった。後から思うとこれは失敗だった。一つずつ少し離して冷凍にかける小技が、仕上がりの美しさにつながることを知った。
生の餃子を焼く条件との違いは加水量のみである。通常熱したフライパンに油をなじませ12~14個並べてお湯を70~80cc張り蓋をして蒸し焼きにするのだが、冷凍品では倍量の湯を入れる。当然水分蒸発に要する時間は延びる、その間に肉の中まで火が入るという計算だ。
バチバチという音がフライパンから聞こえてきたら(水分がほとんどなくなった状態なので)、蓋を取り胡麻油を少量加えて火を強めて表面をパリッとさせる。試食した感想について述べよう。
生と比較した場合、ニラなどの香りは若干弱まっている。こういうのが好きな人にはおすすめの焼き方かもしれない。私の結論としては十分許せる範囲だ。ミンチの安い時に買って作り置きしておくのがベストかな。
生の餃子を焼く条件との違いは加水量のみである。通常熱したフライパンに油をなじませ12~14個並べてお湯を70~80cc張り蓋をして蒸し焼きにするのだが、冷凍品では倍量の湯を入れる。当然水分蒸発に要する時間は延びる、その間に肉の中まで火が入るという計算だ。
バチバチという音がフライパンから聞こえてきたら(水分がほとんどなくなった状態なので)、蓋を取り胡麻油を少量加えて火を強めて表面をパリッとさせる。試食した感想について述べよう。
生と比較した場合、ニラなどの香りは若干弱まっている。こういうのが好きな人にはおすすめの焼き方かもしれない。私の結論としては十分許せる範囲だ。ミンチの安い時に買って作り置きしておくのがベストかな。