立木神社前交差点から南へ行くと立木橋(※この南詰辺りにかつて黒門が存在していた)があるが、私はこれより西に架かる赤い立木大橋を渡り立木神社(草津4丁目1‐3)境内に入った。
樹齢400年ともいわれるウラジロガシの巨木は残念なことに平成21年12月に枯れたらしい。私は東海道と中山道の分岐点にあった道標の前に移動した。草津マンポの前の追分道標には文化13年(※1816)の銘が入っているが、これはその前身と考えられる。
街道の左手には…立木神社が鎮座する。神護景雲元年(767)の創建と伝えられ、武甕槌命を祀る。境内の手水場の脇には、滋賀県で最古とされる道標が建つ。…
『近江東海道を歩く / 八杉淳(サンライズ出版 2010年)』
石造道標には「みぎハたうかいとういせミち ひだりは中せんたうをた加みち」という文字が刻まれている。草津市指定文化財である道標が造られたのは延宝8年(1680)、今から330年ほど前の話で徳川綱吉が第5代将軍になった年に当たる。立木神社では鹿が神の使いとされ凛々しいブロンズ像が設置されていた。
樹齢400年ともいわれるウラジロガシの巨木は残念なことに平成21年12月に枯れたらしい。私は東海道と中山道の分岐点にあった道標の前に移動した。草津マンポの前の追分道標には文化13年(※1816)の銘が入っているが、これはその前身と考えられる。
街道の左手には…立木神社が鎮座する。神護景雲元年(767)の創建と伝えられ、武甕槌命を祀る。境内の手水場の脇には、滋賀県で最古とされる道標が建つ。…
『近江東海道を歩く / 八杉淳(サンライズ出版 2010年)』
石造道標には「みぎハたうかいとういせミち ひだりは中せんたうをた加みち」という文字が刻まれている。草津市指定文化財である道標が造られたのは延宝8年(1680)、今から330年ほど前の話で徳川綱吉が第5代将軍になった年に当たる。立木神社では鹿が神の使いとされ凛々しいブロンズ像が設置されていた。
旧東海道沿いに建つ道灌蔵。明治7年(1874)創業の太田酒造株式会社(草津3丁目10‐37)は清酒道潅を造っていることで有名である。創業者の先祖は江戸城を築いた武将・太田道灌といくらか関係があるようだ。清酒の他にワイン、焼酎、ブランデーなども手がけている。
酒蔵の向かいが川魚などを扱う鮮魚店・魚昌(うおしょう 草津3丁目9‐25)、氷屋が近くにあるのも頷ける。
通りを南西に歩いていくと浄土宗・正定寺(草津3丁目11-39)と真宗仏光派・養専寺(草津3丁目11‐27)がある。料亭・魚虎楼の説明通り、寺は通りからはかなり奥まったところ(除地のため)に位置していた。
滋賀県道141号山田草津線を横断する。私の目の前を流れているのが伯母川である。
酒蔵の向かいが川魚などを扱う鮮魚店・魚昌(うおしょう 草津3丁目9‐25)、氷屋が近くにあるのも頷ける。
通りを南西に歩いていくと浄土宗・正定寺(草津3丁目11-39)と真宗仏光派・養専寺(草津3丁目11‐27)がある。料亭・魚虎楼の説明通り、寺は通りからはかなり奥まったところ(除地のため)に位置していた。
滋賀県道141号山田草津線を横断する。私の目の前を流れているのが伯母川である。
浄土真宗本願寺派・館定山浄教寺(草津2丁目9-3)の伝道掲示板には歌人・甲斐和里子(かいわりこ)の句が貼られてあった。
賀春
御仏を 呼ぶ わが声は
みほとけの われを喚びます
みこゑなりけり 2012.はる
参詣を済ませて本陣小路を通り旧東海道に出て南西に進む。左手に大きなマンション・プリマヴィラ本陣が建っている。
辻を通過すると昭和4年(1929)創業のBAR BER 堀江(草津3丁目9-16)がある。この並びにはひと昔前の風が吹いているようだった。
草津宿の古刹・浄土宗・布薩山常善寺(草津3丁目9-7)を望む。境内通り抜け禁止の看板の後ろに京屋氷製麺(草津3丁目10-44)のバンが止まっているが、店はちょうど石柱の向かい辺りに位置していた。
賀春
御仏を 呼ぶ わが声は
みほとけの われを喚びます
みこゑなりけり 2012.はる
参詣を済ませて本陣小路を通り旧東海道に出て南西に進む。左手に大きなマンション・プリマヴィラ本陣が建っている。
辻を通過すると昭和4年(1929)創業のBAR BER 堀江(草津3丁目9-16)がある。この並びにはひと昔前の風が吹いているようだった。
草津宿の古刹・浄土宗・布薩山常善寺(草津3丁目9-7)を望む。境内通り抜け禁止の看板の後ろに京屋氷製麺(草津3丁目10-44)のバンが止まっているが、店はちょうど石柱の向かい辺りに位置していた。
私の印象に残っている赤壁の建物は3つある。敦賀市の銭湯、福井市と福知山市の旧色街にあった妓楼(らしきもの)でどれも非常に目立っていた。ここは料亭で別ジャンルとなるが、私が生きている間は決して忘れないであろう。玄関まで引き返して「人と時が織りなす歴史の小路」という一文に目を通した。
人と時が織りなす歴史の小路
江戸時代(天保十二年)、東海道五十三次の草津宿には、本陣二軒、脇本陣二軒さらには旅籠屋七十二軒が軒を連ね、その賑わいは中山道の分岐と相まって活況を呈していた。
中略
これらの本陣とともに、魚虎楼は、旅籠「双葉屋」として営まれ、明治初年に「双葉館魚虎楼」と名を改め、現在まで時の流れを眺め続けてきたのである。この辺りが通称「双葉町」と呼ばれたのも、当楼との関わりの深さの由縁であろう。
時代の移り変りとともに、町並みも変貌を遂げたが、当時の面影を残すものに「筋違い道」がある。当楼玄関前も道筋の交差が若干ずれており、これは城下町の筋違いと同様のもので、見通しを悪くして警備の配慮がなされたものであろう。またこの辺りは寺院が街道筋より一筋裏に有り、全国でも天井川として有名な草津川から眺めると、寺院が一直線に並んでいることがよく判る。これは江戸時代に課税のできる町屋を表通りに並べ、寺院等は「除地」といって課税の対象から外されていたため、裏通りに置かれた名残りである。
このように、この小路には、時の流れととの時々の人々が織りなす「時代」があり、あなたは、「今」その中に佇んでいる。
草津の宿 魚虎楼
巷では創業ウン百年などとアゴを上げて自慢する店が多い中、このように歴史を交えて控えめに自己主張するやり方を初めて見て、一期一会を大切にする料亭のプライドとセンスに感服した。無料でこれだけ勉強させてもらって「ありがたい」と心から思う。
この日、料亭では法事の昼食を出したようである。坊さんや関係者を送り出す美人女将と目が合ったので軽く会釈だけはしておいた。
草津宿見どころ食べ処(草津市観光物産協会作成)には、美しい庭園と座敷の写真が載っている。本陣料理の伝統をこれからも長く伝えていってもらいたい。料亭の前から鐘楼が見えたので寺に寄ってから帰路につくことにした。
人と時が織りなす歴史の小路
江戸時代(天保十二年)、東海道五十三次の草津宿には、本陣二軒、脇本陣二軒さらには旅籠屋七十二軒が軒を連ね、その賑わいは中山道の分岐と相まって活況を呈していた。
中略
これらの本陣とともに、魚虎楼は、旅籠「双葉屋」として営まれ、明治初年に「双葉館魚虎楼」と名を改め、現在まで時の流れを眺め続けてきたのである。この辺りが通称「双葉町」と呼ばれたのも、当楼との関わりの深さの由縁であろう。
時代の移り変りとともに、町並みも変貌を遂げたが、当時の面影を残すものに「筋違い道」がある。当楼玄関前も道筋の交差が若干ずれており、これは城下町の筋違いと同様のもので、見通しを悪くして警備の配慮がなされたものであろう。またこの辺りは寺院が街道筋より一筋裏に有り、全国でも天井川として有名な草津川から眺めると、寺院が一直線に並んでいることがよく判る。これは江戸時代に課税のできる町屋を表通りに並べ、寺院等は「除地」といって課税の対象から外されていたため、裏通りに置かれた名残りである。
このように、この小路には、時の流れととの時々の人々が織りなす「時代」があり、あなたは、「今」その中に佇んでいる。
草津の宿 魚虎楼
巷では創業ウン百年などとアゴを上げて自慢する店が多い中、このように歴史を交えて控えめに自己主張するやり方を初めて見て、一期一会を大切にする料亭のプライドとセンスに感服した。無料でこれだけ勉強させてもらって「ありがたい」と心から思う。
この日、料亭では法事の昼食を出したようである。坊さんや関係者を送り出す美人女将と目が合ったので軽く会釈だけはしておいた。
草津宿見どころ食べ処(草津市観光物産協会作成)には、美しい庭園と座敷の写真が載っている。本陣料理の伝統をこれからも長く伝えていってもらいたい。料亭の前から鐘楼が見えたので寺に寄ってから帰路につくことにした。
私は草津市の料亭・魚虎楼(草津2丁目12‐3)玄関前に立ち、この建物が登録有形文化財であることを知った。モニュメントには文化庁の銘があり第25‐0255~0257と番号まで明記されている。
双葉館魚虎楼ふたばかんうおとらろう本館・奥座敷・塀
昭和11年(1936)頃建築
本館は、2階に80畳敷の大広間をもつ木造2階建の入母屋造桟瓦葺の建物です。通りに面する北側は、竪板張りと赤い内法壁で、料亭らしく仕上げられています。塀も同様の竪板張りと赤い壁で仕上げ、隅切り長方形の窓を開けるなど、上品で洒落た雰囲気が醸し出されています。
奥座敷は本館の東側の建物で、邸内では本館とともに庭園に面しています。1、2階とも庭園側に縁と庇を巡らせ、大広間は折上格天井とすると、丁寧に仕上げられた建物です。
草津市教育委員会
文化財として登録されたのは平成20年(2008)3月21日とまだ日は浅い。料亭の名前は魚屋を営んでいた初代・遠藤寅吉氏が料亭に転業した歴史にちなむ。私は赤い壁と塀を見つめて過去の旅先での情景がいくつかよみがえって来た。
双葉館魚虎楼ふたばかんうおとらろう本館・奥座敷・塀
昭和11年(1936)頃建築
本館は、2階に80畳敷の大広間をもつ木造2階建の入母屋造桟瓦葺の建物です。通りに面する北側は、竪板張りと赤い内法壁で、料亭らしく仕上げられています。塀も同様の竪板張りと赤い壁で仕上げ、隅切り長方形の窓を開けるなど、上品で洒落た雰囲気が醸し出されています。
奥座敷は本館の東側の建物で、邸内では本館とともに庭園に面しています。1、2階とも庭園側に縁と庇を巡らせ、大広間は折上格天井とすると、丁寧に仕上げられた建物です。
草津市教育委員会
文化財として登録されたのは平成20年(2008)3月21日とまだ日は浅い。料亭の名前は魚屋を営んでいた初代・遠藤寅吉氏が料亭に転業した歴史にちなむ。私は赤い壁と塀を見つめて過去の旅先での情景がいくつかよみがえって来た。
草津宿田中七左衛門本陣を出て旧東海道を南に進む。冒頭の画像左手中央に見えるのが近江茶を扱う吉川芳樹堂。脇本陣を務めた旧藤屋與左衛門家である。虫籠窓のある建物は築300年。こういうのが通りにさりげなく存在するのが草津のすごい(=良い)所だ。お茶屋の斜向かい辺りには和ろうそくとお香の店・大喜(草津2丁目5‐11)がある。
続いて目に入るのが草津市観光物産館脇本陣(草津2丁目7-30)で脇本陣・仙台屋茂八家跡に1997年に建てられた。そば等が食べられ、土産物販売コーナーもある。
草津宿の魅力は何と言っても古い建物と新しい建物の調和であろう。福山市にも神辺本陣(旧深安郡神辺町)があり古い町並みが残っているが、知名度はイマイチである。観光客を呼び込むためには何が必要なのか、関係者はここへ(自費で)来て学べばいい。私が感じ入ったのは、さり気ないおもてなしの心である。
備後地方で「昔の名前で出ています」を連呼する田舎町が旅人にそっぽを向かれつつあるのは、やはり暑苦しさを感じさせるからだと思う(笑)。一歩引くという草津市民の賢さと余裕を見習いたいものだ。
続いて目に入るのが草津市観光物産館脇本陣(草津2丁目7-30)で脇本陣・仙台屋茂八家跡に1997年に建てられた。そば等が食べられ、土産物販売コーナーもある。
草津宿の魅力は何と言っても古い建物と新しい建物の調和であろう。福山市にも神辺本陣(旧深安郡神辺町)があり古い町並みが残っているが、知名度はイマイチである。観光客を呼び込むためには何が必要なのか、関係者はここへ(自費で)来て学べばいい。私が感じ入ったのは、さり気ないおもてなしの心である。
備後地方で「昔の名前で出ています」を連呼する田舎町が旅人にそっぽを向かれつつあるのは、やはり暑苦しさを感じさせるからだと思う(笑)。一歩引くという草津市民の賢さと余裕を見習いたいものだ。
材木商を営んでいた田中七左衛門本陣の立派な庭に建つ明治天皇草津行在所(あんざいしょ)碑。本陣が高貴な身分の人の宿泊所として利用された証である。
時代は変わり入館料を払えば私のような者でも立ち入ることができる。更に本陣内で武家の衣装をまとい殿様、姫様気分を味わうこともできるようだ。
展示の中で最も印象に残ったのが上段雪隠(じょうだんせっちん)である。畳敷きの部屋に大と小が備え付けられているのだが、放出物は木箱に取っていたという説明を読んで驚いた。私はてっきり下には甕(かめ)があるものとばかり思っていた。
さて現代の雪隠は非常にお洒落できれいに掃除されていた。本陣の見学を終えた頃には雨はほぼ上がっていた。最寄り駅はJR草津駅だが、偏屈な私はあえて楽なコースを選択するのを避けたのである。
時代は変わり入館料を払えば私のような者でも立ち入ることができる。更に本陣内で武家の衣装をまとい殿様、姫様気分を味わうこともできるようだ。
展示の中で最も印象に残ったのが上段雪隠(じょうだんせっちん)である。畳敷きの部屋に大と小が備え付けられているのだが、放出物は木箱に取っていたという説明を読んで驚いた。私はてっきり下には甕(かめ)があるものとばかり思っていた。
さて現代の雪隠は非常にお洒落できれいに掃除されていた。本陣の見学を終えた頃には雨はほぼ上がっていた。最寄り駅はJR草津駅だが、偏屈な私はあえて楽なコースを選択するのを避けたのである。