寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島県福山市鞆町の初夏の風物詩・鯛網(たいあみ)

2012年05月15日 | 郷土史
鞆の浦の観光鯛網漁はばら祭りと並んで福山市の大きなイベントである。5月20日(日)までは毎日、そして26日(土)27(日)は特別に開催される。鯛網の歴史は相当古いことが「鞆今昔物語 / 表精おもてまさし(非売品 昭和四十九年)」に詳しく書かれてある。

鞆漁業小史

 備陽六郡志の編輯者は〝宝永八年(一七一一)の年、鞆の津一帯には二百隻の漁船がいた〟……と記述されていた。これを今日(昭和四十八)の実情に照らし合せると、御幸町(原村)の海岸と旧鞆町の原、江の浦の海岸、平町では元平村であった焚場、西の浜、平全区に亘って小さな漁船が、或は鞆港の浜辺に蝟集し、或は諸々に散在していたものと想像されるのである。

 …鞆の宝永八年は、福山城においてはこの年を一四年遡る年に水野家が断絶して居り、そのあと一一年間を松平家が治め、ようやく昨年のこと、下野の宇都宮から転封されて来た安(ママ)部正邦公(阿部家の初代殿様)の時代に入ったばかりの年代であった。
 この時、鞆では福山藩の外港として物資の集散を一手に引受けた観があり、富商大阪屋平左衛門を筆頭に、約二〇軒あまりの問屋筋が鞆港の周辺にひかえ、積荷の揚げおろしに多くの仲士たちは雑踏を極め、また一方では保命酒の中村生玉堂の店先も、鞆名産をあがのう人々で繁昌し、ほか積荷の順番を待つ船頭、舟子たちが海上生活の精進落しをこの際とばかりに有磯町にしけ込んで居たので、鞆女郎で有名な有磯町も大いに繁昌し、二百隻の漁船がセッセと運んで来る魚も殆んどが鞆町内で捌けて仕舞うほどの盛況ぶりで、残りは福山城下町へ生簀船で運ばれた……という。

 …宝永年間の鞆漁業者たちが操作した一本釣り漁業は、春四、五月ともなれば鱚きすや目張めばるを、地曳網では鰈かれい、鯛たい、鰆さわら、青箭魚さごしなどが、相当量も捕獲された。夏から秋、初冬にかけての一本釣りは、河豚ふぐ、鯔ぼら、穴子あなご、こち、鮃ひらめなどで漁獲量を増し、地曳網はそれらの外に鰕えび、蛸たこ、鱧はも、蟹かに、虎魚おこぜなどを加え沢山の魚が幼稚な釣具や網船ながら生計を維持するだけの収入はあった模様である。

 今日、唐船とうせんという地名が走島に残っているのは、当時の名残りであってその昔、唐船千軒と言われ、繁華を極めていたのが一夜の大地震と大津波のために人々は死滅し、無人の島になりその状態が約二百年も続いた。福山城を築いた水野勝成公は、入城三年ののち領内を巡視して無人の走島を知り早速、鞆の要害下の札所に高札を掲げた。たまたま讃岐の琴平宮に参詣しての帰路、鞆に立ち寄った沼隈郡、常石の住人、村上志摩守しまのかみの長男、太郎兵衛は、高札の趣意が「永住の者に島を与える」とあるのを見て早速福山城に名乗り出た。
 その結果、走島の他に属島として、宇治島、袴島、鍛冶島を下賜されたので家臣を四ヶ族引連れ、第二の走島開拓に乗り出したのであった。それは元和九年(一六二三)三月のことで、昭和四十八年を遡る三五〇年の昔に当る。太郎兵衛の子孫は走島の庄屋として代々、太才治を名乗った。島に移住して八八年を経過する宝永八年(一七一一)に福山藩に提出した差出帖には次のような報告書の内容が記載されている。
 二八軒、一四七人、牛九頭、船八隻、「山三合海六合田畑一合の村」……と言うのがそれである。これを見ると、八八年間に二三戸しか増えていない勘定になる。次に安永四年(一七七五)三月には、城主阿部正倫公(四代目)あてに村上太才治から「先祖覚書」なるものを長い報告書で差出している。その一節には「水野家初代より島を賜わり、長いあいだ無税であったが水野家断絶ののち、岡山藩より多額の課税を申付けられ、田畑のない走島としては困窮し、止むなく鯛網で鯛をすくい、山の松葉をかき集めて塩浜に売り出し、ようやく渡世致し候」と結んでいる。
 村上家が走島に移住して一五〇年後に至って、七代目太才治の代に始(ママ)めて鯛網の事績が登場している。…その当時豊後水道から瀬戸内海に入りこんだ鯛の群れが、陽暦の四月始めから約一ヶ月のあいだ、走島や仙酔島周辺の浅瀬に産卵のため接近していた模様である。
 村上家七代の太才治は、納税対策として産卵期の鯛に目をつけ、地曳鯛網なるものを考案した。それが備後の鯛網漁業のはじまりである。その後、弘化、嘉永のころ村上家十二代の庄屋太郎兵衛が浅瀬に寄りつかなくなった鯛を捕獲するため、地曳鯛網に種々の改良を加え、沖鯛網と後代で呼ばれた、「しばり網」を考案して、備後灘、燧灘を泳遊する鯛取りに大いに成果を上げた。…
 その鯛網事業には多額の資金と大勢の人手を必要とした。明治に入り走島庄屋の家運衰退のあとを引継いだのが鞆平の漁業者たちであった。まだ平村と言われた明治二〇年(一八八七)ごろ平漁業の実力者、本瓦清兵衛、藤本清助、表政七ら併せて一一軒の鯛の網元が発足し、一軒一船団として六〇人余りの舟子を必要としたので平全体では(寄島の阿倉と尾道周辺から人寄せる)七百人余りの総勢でもって広島県、岡山県、香川県に囲まれた水域で、春先四月に鯛取りのため、船戦ふないくさのような鯛網が展開され、時には漁業権確保のため、別章で記すような海上での一大乱斗…が引起されたのであった。…

福山藩初代藩主・水野勝成公の行った(鞆港防衛を念頭に置いた)漁業振興策は高く評価してよいだろう。結局無人島の尖閣問題と根っこは同じなのだ。伝統の鯛網漁が確立されるまでには様々な開拓者の苦難があったことを一市民として語り継いでいきたいと思う。

福山市鞆町周辺地図(鯛網のちらしより)

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国指定史跡・草津宿本陣を見学(その2)

2012年05月14日 | 
中庭の小さな生簀状の御用水(方形の石組みに堀の水を引き宿泊者の汚れた足などを洗った)を見て入館料を払いパンフレットを貰う。

草津宿本陣の御用水(ここに外堀の水を引き入れた)

草津宿本陣の入館券

草津宿本陣のパンフレット

大福帳を覘いていると江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚を起こす。当時の風俗を理解する上で非常に重要な品々が展示されており、時代劇フリーク以外でも十分楽しめるはずだ。

湯沸屋形と呼ばれる竈(かまど)が蔵の近くにある。昔はここで湯を沸かして桶に汲んで湯舟まで運んでいたという。本陣の間取りは公式ホームページで詳しく紹介されているので、そちらを見て欲しい。

草津本陣の間取り図(パンフレット)

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国指定史跡・草津宿本陣を見学(その1)

2012年05月13日 | 
草津宿本陣門前に「細川越中守宿」と書かれた宿札が掲げられていた。これは肥後国熊本藩主の宿泊を意味する。本陣に入りビニール傘を置こうとして「草津忘れな傘」というタイトルが目に入った。

㈱ナルディック(追分町)の協力で草津の観光施設に設置された「草津忘れな傘(善意の傘のおもてなし)」

聞くところによると鉄製の門扉などを手がける会社ナルディックの協力で草津の観光施設に傘立てを設置し善意で傘を貸しているのだ。タイトルは「勿忘草(わすれなぐさ)」とかけてあって、使用後は何箇所かある設置場所に返却するよう求めている。傘を忘れて突然の雨に打たれる私のような旅人を救う取り組みはすばらしいと思う。

昭和15年頃の草津宿本陣表構え


昭和15年(1940)頃に撮影された本陣の写真に注目して欲しい。敷地の南端に堀(小川)があることがわかる。これはJR西一踏切からのびる道筋で現在は暗渠化されているものと思われる。小川小路の名称はこの堀にちなむ。

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あぶたま丼は手軽で旨い

2012年05月13日 | 家飯
刻んだ油揚げを割下で煮て玉子でとじてご飯にかけたものがあぶたま丼。京都近辺では衣笠丼と言う。近畿圏で根強い人気があるのは安さ以上に美味しいからだろう。

濃い目の出汁を吸い込んだ揚げにトロトロの玉子が絡むといくらでも食べられそうだ。私は親子丼と同じくらいよく作る。今回は横着をして行平鍋を使用したが、見栄えがイマイチだった(通常は丼鍋で作る)

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滋賀県草津市の円融寺前で土砂降りに遭う

2012年05月12日 | 
旭橋南詰の住所は草津市草津1丁目7である。堤を下り旧東海道に戻った私は時計を見た。1時間後にはこの町を出発しなければならない。

滋賀県草津市草津1丁目(東海道)から旭橋へと続く道

宿場町の寺院を全て回るのは到底無理だ。近場だけも見ておこうと思い路地を南に進む最中、この日に3度目となる通り雨に遭った。

日蓮宗・法性山円融寺

まずい事に土砂降りである。日蓮宗・法性山円融寺前に建つ経塔の髭文字がかすんで見えた。

国史跡草津宿本陣とは反対側に少し路地を入ると正面に円融寺がある。門前に「南無妙法蓮華経」と刻まれた経塔が建つ。天和年間(1681~1684)に京都の町人八幡屋長右衛門が建立したもので、江戸時代には草津宿の江戸側の入口に建っていたものである。

『近江東海道を歩く / 八杉 淳(サンライズ出版 2010年)』

浄土宗・宝樹山真願寺

老婆の如く腰を曲げて浄土宗・宝樹山真願寺の方へ急ぐ私の背後からゆっくりと車が接近する音が聞こえた。振り返ると白い軽自動車が止まり窓が開いた。

初老の男性はビニル傘を後部座席から取り出して「これをどうぞ使って下さい」と言った。温かい差し入れを有難く頂戴して車を見送り小川小路を抜けて本陣前に到着した。

草津宿本陣入口に建つ石柱

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爽やかな苦みが印象的な蕗(ふき)の煮物

2012年05月12日 | 家飯
野生種と比べると栽培種の蕗(ふき)の苦みは少ない。蕗は塩で板ずりしてから熱湯の中に放り込み手早く茹でる。そして冷水にとって皮を剥く。

出汁に淡口醤油と味醂を加えて蕗を煮る。佃煮ではないので加熱時間は短め。自然冷却の間に味はしみ込む。所謂漬け込みの技法である。

爽やかな味わいの蕗にはほのかに苦みが残っている。山菜から完全にアクを抜いてしまったのでは意味はない。アクも味を構成する一つの要素なのだから。

蕗(ふき)の煮物

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滋賀県草津市の旭橋から旧草津川(廃川)を望む

2012年05月11日 | 
うばがもちや本店を出て国道1号を南下。大路三丁目交差点を右折し滋賀県道143号下笠大路井線に入る。コスモスアカデミーを過ぎて草津税務署の横を通り天井川の堤を上った。

旧草津川の堤を上る

旭橋の下を流れていた旧草津川は平地化されて川べりの道にはサイクルロードという愛称がついている。暴れ川を廃川にしてしまう人間の執念にはつくづく感心する。

滋賀県草津市大路2丁目4側から見た旭橋

しかし、人間の力には限界があるということを肝に銘じておかなければなるまい。過信が大災害発生時には命取りになるのだ。旅人は川の跡を眺めながら自然の破壊力について考えていた。

旭橋より旧草津川(廃川)を望む

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ヤブカを一発で仕留めて満足顔になった

2012年05月11日 | 日記
耳元でプーン、プーンという不快な音がし額に黒い物体が近づいては悪さをする、まだ5月上旬というのに。市街地をヤブカが飛んでいるということは気温が高い証拠だろう。ヒョロヒョロ攻撃してくる害虫を一発で叩き潰してにっこりした私だが、その活動期間が年々長くなっていることに一抹の不安を覚えた。

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滋賀県草津市大路のお菓子処うばがもちや本店

2012年05月10日 | 
交通量の多い国道1号線の草津川隧道を通り抜ける。大路三丁目交差点そして草津駅口交差点を過ぎて辻第3ビルに近づくとうばがもちや本店(もともとは瓢泉堂の場所で営業していた)が見える。

うばがもちや本店(草津市大路2丁目13‐19)

私が歩いたルート(東新地→国道1号→草津川隧道→国道1号→うばがもちや):草津宿見どころ食べ処の地図を使用

旅の記念にどうしても草津名物を食べておきたくて私は東新地から歩いて来たのである。6個入りを買い求めて女性従業員に「隣の飲食店で食べてもいいか」と尋ねると「どうぞ」と言った。

うばがもち(6個入り230円)

宿場そば本店に菓子を持って移動し鯖寿司を注文する。私は先にうばがもちをペロリと平らげた。いい年をした男が子どものように喜んで食べているのを見て店員が微笑んでいた。南草津駅を出てほとんど休息もとらず4時間以上歩き詰めだった者には最高のご馳走であった。江戸時代の旅人も同じ気持ちを抱いたのかもしれない。

うばがもちの由来
『うばがもち』は永禄年間(一五五八~一五六九)に生まれた。近江源氏佐々木義賢は時の信長に滅ぼされたが、そのなかに三歳になる曽孫もいた。義賢は臨終の際、乳母〝福井との〟に後事を託す。郷里草津に戻った〝との〟は、餅をつくっては売り、養育の資とした。そして誰いうことなくついた餅の名前が「姥(乳母)が餅」-。

永禄年間より数えて四百有余年の時を超え、いつの時代にも忘れられない味わいが、このお菓子の歴史を築き、今もなお草津名物として脈々と息づいています。また、風雅で独特の姿は往時、乳母が幼君に奉じた乳房を表したものでございます。これらの伝統を生かしながら、常に味に磨きをかけるべく努力を重ねています。餅の原料として、地元草津産のもち米を使い、餡は厳選した小豆を使用し、餡と餅の絶妙な調和を大切にして調製いたしております。

お菓子処うばがもちや

鯖寿司(3貫380円)

運ばれてきた鯖寿司はしっかりとした味付けで胃にしみ渡った。糖と酢の補給で元気を取り戻した私はもうひと踏ん張りすることにした。

私が食事をした宿場そば本店(草津市大路2丁目13‐19)、隣がうばがもちや(南洋軒が両店を経営している)

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ワラビのアク抜き

2012年05月10日 | 食材
重曹は油落としや膨らし粉の他に、山菜のアク抜き剤としても使われる。素人がワラビのえぐみを取るにはやはり重曹が便利だろう。

水洗いしたワラビの全体にうっすらと重曹を塗す。ワラビを鍋に移して熱湯を回しかけて自然に冷ますだけである。7時間もすればアクはほとんど抜けている(はず)。アクを含んだ水は赤褐色となる(冒頭の画像)

一つ気をつけなければならないのは重曹の添加量だ。たくさん使うとワラビがトロトロになってしまう。私は過去数回失敗して今のアク抜き法に辿り着いた。

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滋賀県草津市の草津川隧道(国道1号)

2012年05月09日 | 
東新地を後にし、草津一丁目交差点から国道1号線を北北東に進む。数え切れぬほどの自動車が猛スピードで私を追い抜いて行く。

国道1号の草津一丁目交差点

長谷川製材の前を通過すると古めかしいトンネルが現れる。こちらの草津川隧道は昭和11年(1936)3月に竣工したもので自転車・歩行者は通行禁止である。

国道1号の草津川隧道(草津1丁目側より撮影)

足が棒になっていた男は危険を冒してトンネル内に入った(決して真似をしないように!)。薄暗い中を恐る恐る進みながらゴツゴツした造りであることは分かった。

私の地元に深津隧道というのがあるが、あれの旧式と思ってもらえればいい。トンネルのほぼ中央を境にして町名が草津一丁目から大路二丁目に変わる。

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春野菜のスパゲッティ

2012年05月09日 | 家飯
ぺペロンチーノの応用編。ニンニクオイルにタカノツメの辛味を移しアンチョビペーストと一緒にゆで野菜を炒める。パスタのゆで汁をお玉一杯程度加えてソースは完成。

湯切したパスタを先のソースと和えコショウ、粉チーズを振る。あっさり肉なし麺はお腹にスイスイ入る。ニンニクを適量使う(あくまでも香りづけであまり仰山入れない)のが最大のポイント。

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滋賀県草津市の東新地跡を通過する(その3)

2012年05月08日 | 
円窓が印象的な日本家屋を過ぎた辺りがごみ置場である。その看板から旧東新地は東元町と呼ばれていることを悟る。通りが不自然に広いのは昔桜並木でもあったのだろうか(実際遊里に桜はつきものだった)

旧東新地のメインストリートに設けられたごみ置場

国道1号線に向かっていると左手に小さな祠があった。東元町(東新地)出世地蔵・水子地蔵の由緒書にはこう記されていた。

出世地蔵・水子地蔵を祀るお堂

東元町(東新地)出世地蔵・水子地蔵
 今から九十年程前、現在の国道一号線を敷設する工事の際土の中から二体のお地蔵さまが出てこられました。
 「出世地蔵」は当時、歓楽街として繁盛していた東新地の皆さんが祭ったもので、遊女が年季奉公から一日でも早く抜け出せるよう祈願したのが始まりと考えられます。
 また「水子地蔵」は安産や不幸にもこの世に生を授かることができなかった子供の供養を願う人たちが祭ったものです。
 現在は東元町町内会の「守り本尊」として皆に拝められています。

そして由緒書の上には大正13年(1924)8月吉日に東新地・東樓の主が奉納した御籤の額が掲げられていた。正確には籤という字は使われておらず、門(もんがまえ)に亀(かめの旧字体)で、これで「くじ」と読む。お堂の外に打ち付けられた町内会住宅地略図(平成13年4月現在)を参考にすれば東樓は煙草屋の近くにあったことになる。

出世地蔵・水子地蔵の由緒

私は地蔵に手を合わせ願い叶わず旅立った者達の冥福を祈り「自分の思い通りにはならぬのが人生か…」と囁いた。

東新地の出世地蔵・水子地蔵(草津市草津1丁目17番辺り)

私が歩いたルート(追分→東海道→東新地→国道1号):草津宿見どころ食べ処の地図を使用

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現地取材は基本中の基本

2012年05月08日 | 日記
私が現地取材(旅など)を行ってから文章にまとめるまでにかなりの間があることが多い。急ぎ過ぎて間違いを犯すことを避ける目的もあるし、少し冷却期間を置いた方がより現実が見えてくるからだ。

「あったことをない(=隠蔽)」とか「なかったことをあった(=捏造)」と伝えるのは物書き(人間としても)失格だ。つい最近桜が開花していないのに、あたかもきれいに咲いているかのような記事を紙面に載せた間抜けな事件があった。

スピード(=旬の話題)以上に大切にしなければならないのは自分の目で確かめた上で正確に記すことである。基本を忘れたプロ(実際は四流程度)が増えている現実に読み手は呆れ顔だろう(笑)

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滋賀県草津市の東新地跡を通過する(その2)

2012年05月07日 | 
草津市の東新地は天台宗・神宮寺のすぐ南に位置し小川と国道1号で仕切られたような形である。神宮寺は明治の神仏分離令によって立木神社境内より移築された古刹として知られる。

神宮寺山号を記した扁額 本尊は十一面観音(秘仏)

 草津町遊廓は滋賀県草津町に在つて、東海道本線草津駅で下車する。草津は昔から中仙道と東海道との追分として繁華な宿場だつた。今の遊廓は云ふ迄も無く此の宿場の飯盛女が発達したもので今でも中々花街は盛つて居る。…貸座敷は現在は十軒程あつて、娼妓は約三十人程居る。店は陰店を張つて居て、居稼ぎ制、遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は一時間遊びが一円二三十銭、一泊は台無しで四五円程度である。

『全国遊廓案内』

東新地の転業旅館?

雀荘から少し進むと転業旅館と思われる建物がある。そしてその蓮向かいには煙草屋(クリーニング店)と格子戸の家が仲良く並んでいる。

東新地の煙草屋

新地のメインストリート中央辺りの日本家屋が非常に趣き深く強い存在感を示している。悟りの窓を眺めた旅人は同様のものが大津市の色街にあったことを思い出した。

東新地の日本家屋(円窓が印象的)

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