草津市西草津1丁目の久照山円教寺前の道を南東へ進む。JR東海道本線(琵琶湖線)西一踏切の中央から北方を望む。天井川(廃川となった草津川)の川床を掘り抜いたトンネルが計6つ見える。
この内右から2本が旧国鉄の東海道本線トンネルで現在は使用されていない。ドーム型のトンネル入り口は赤煉瓦造りである(明治中期の築造)。この西側の頑丈な4本のトンネルをJRの車両が通過している。
踏切を渡ると住所は草津1丁目(道の北側)および2丁目(道の南側)に変わる。お堂から木村種苗店の前を通って本陣の角を曲がり北上する。
予定より1時間以上遅れて文化13年(1816)に造られた追分道標前に到着した。真っ直ぐ行けば中山道、右(東の方向)へ曲がれば東海道である。草津川隧道(草津マンポ)は明治19年(1886)3月20日に完成したトンネルで、今も草津市民に利用されている。
草津市民センターに入り地元の婦人らと歓談しお茶をご馳走になった。「本陣をご覧になりましたか」と問われた私は「まだなんですよ。楽しみは最後に取っておこうと思いまして。これからちょっと東の町を散策してきます」と言った。女性陣は旅人の行き先がピンと来たようで何も言わなくなった。
この内右から2本が旧国鉄の東海道本線トンネルで現在は使用されていない。ドーム型のトンネル入り口は赤煉瓦造りである(明治中期の築造)。この西側の頑丈な4本のトンネルをJRの車両が通過している。
踏切を渡ると住所は草津1丁目(道の北側)および2丁目(道の南側)に変わる。お堂から木村種苗店の前を通って本陣の角を曲がり北上する。
予定より1時間以上遅れて文化13年(1816)に造られた追分道標前に到着した。真っ直ぐ行けば中山道、右(東の方向)へ曲がれば東海道である。草津川隧道(草津マンポ)は明治19年(1886)3月20日に完成したトンネルで、今も草津市民に利用されている。
草津市民センターに入り地元の婦人らと歓談しお茶をご馳走になった。「本陣をご覧になりましたか」と問われた私は「まだなんですよ。楽しみは最後に取っておこうと思いまして。これからちょっと東の町を散策してきます」と言った。女性陣は旅人の行き先がピンと来たようで何も言わなくなった。
草津市木川町の団地を通り抜けていると、ついに冷たいものが天から落ちてきた。私は「こりゃいかんわ」と言って早足になった。
木川村きのかわむら
北山田村の東に位置し、北端を草津川が西流する。村名は草津川の異称木川にちなむとされ、本郷と出屋敷・新田の三集落からなる。中世には木川庄として推移
『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25(平凡社)』
出屋敷とか新田(しんでん)とは荒地を開拓したという意味である。天井川に隣接する新田地区は過去何度も台風水害を被っている。私は大正6年(1917)創建といわれる明治神社に参拝した。
広い道路を横断して東へ急ぐ。雨は更に激しく降り出した。帽子を被っているのがせめてもの救いである。びしょ濡れになって真宗大谷派・喜龍山笠堂寺に至る。
もともとこの寺は北村(現橋岡町)にあったが、大正の初め頃に新田地区に移築されている。
木川村きのかわむら
北山田村の東に位置し、北端を草津川が西流する。村名は草津川の異称木川にちなむとされ、本郷と出屋敷・新田の三集落からなる。中世には木川庄として推移
『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25(平凡社)』
出屋敷とか新田(しんでん)とは荒地を開拓したという意味である。天井川に隣接する新田地区は過去何度も台風水害を被っている。私は大正6年(1917)創建といわれる明治神社に参拝した。
広い道路を横断して東へ急ぐ。雨は更に激しく降り出した。帽子を被っているのがせめてもの救いである。びしょ濡れになって真宗大谷派・喜龍山笠堂寺に至る。
もともとこの寺は北村(現橋岡町)にあったが、大正の初め頃に新田地区に移築されている。