懐かしい友人から電話がかかって来た。用件は非常につまらないものであった。
「福山駅前の釣人像はもう移転したのか?」
「工事は終了したよ。7月の初っ端だったかな」
「ふーん。ちょっと確認するから切るわ。じゃまた後でな」
私はおかしなことを聞く奴だと思って首をひねった。5分後私たちは話を再開した。
「さんすてに電話したら、お姉さんが全く同じことを言ったわ。お前の言う通りだった」
「何でそんなことを聞いたんだ」
「気を悪くしたのなら謝るよ。実はな。釣人像がまだ移転していないと書いたのがいるんだ」
「ほー。暑さで頭がどうにかなったのかよ。駅前に立てば一目瞭然だろが」
「どうやら在来線のホームから下を見て変わっていないと思ったらしい。クロちゃんは(笑)」
「クロ?どこのどいつだよ」
「裏〇業写真帖のカマ〇マンだ。知ってるだろ。ガキになんとか宣言させて大ヒンシュクをかう地区の…」
「もう説明せんでええ。わかったから」
「ダーじゃなくてパーだよな」
「パッパラクロに改名する前に老眼鏡をかけた方がいいんじゃないか」
「確かに。脳は無理としても視力の方は矯正できる。田舎から久々に出て来てチョンポしたということか」
「凶の垢大学でホラ吹き学を専攻したのかはしらんが、何か悪意を感じるな」
「その日はわざわざ没落市へ向かったみたいだが」
「また没落市マンセーネタで二日か三日引っ張るんだろ」
「相も変わらず下品な写真だけで…」
「文章力がないからな。若い頃に古典を読んでいないからあんな風になる。典型的な知ったか世代だ」
「他人の受け売りしかできねえ。で都合が悪くなると周りや環境の所為にする(笑)」
「それじゃーブーメラン眠巣と同じよ」
「まったくだ(笑)」
市中心部のことを書く際にはそれなりに準備して裏をきっちりとる必要がある。それが物書きとしての最低限のルールだ。田舎に住んでいるというハンディは決して言い訳にならないのだ。
「福山駅前の釣人像はもう移転したのか?」
「工事は終了したよ。7月の初っ端だったかな」
「ふーん。ちょっと確認するから切るわ。じゃまた後でな」
私はおかしなことを聞く奴だと思って首をひねった。5分後私たちは話を再開した。
「さんすてに電話したら、お姉さんが全く同じことを言ったわ。お前の言う通りだった」
「何でそんなことを聞いたんだ」
「気を悪くしたのなら謝るよ。実はな。釣人像がまだ移転していないと書いたのがいるんだ」
「ほー。暑さで頭がどうにかなったのかよ。駅前に立てば一目瞭然だろが」
「どうやら在来線のホームから下を見て変わっていないと思ったらしい。クロちゃんは(笑)」
「クロ?どこのどいつだよ」
「裏〇業写真帖のカマ〇マンだ。知ってるだろ。ガキになんとか宣言させて大ヒンシュクをかう地区の…」
「もう説明せんでええ。わかったから」
「ダーじゃなくてパーだよな」
「パッパラクロに改名する前に老眼鏡をかけた方がいいんじゃないか」
「確かに。脳は無理としても視力の方は矯正できる。田舎から久々に出て来てチョンポしたということか」
「凶の垢大学でホラ吹き学を専攻したのかはしらんが、何か悪意を感じるな」
「その日はわざわざ没落市へ向かったみたいだが」
「また没落市マンセーネタで二日か三日引っ張るんだろ」
「相も変わらず下品な写真だけで…」
「文章力がないからな。若い頃に古典を読んでいないからあんな風になる。典型的な知ったか世代だ」
「他人の受け売りしかできねえ。で都合が悪くなると周りや環境の所為にする(笑)」
「それじゃーブーメラン眠巣と同じよ」
「まったくだ(笑)」
市中心部のことを書く際にはそれなりに準備して裏をきっちりとる必要がある。それが物書きとしての最低限のルールだ。田舎に住んでいるというハンディは決して言い訳にならないのだ。
武田食料品店(玉島阿賀崎1095)の壁に「お寺めぐり」の地図が貼り付けてある。この坂道を登って行けば目的地に着くようだ。
少し先の排水ダクトにはご丁寧に「東向山本覚寺成就院従是五十M 補陀山円通寺従是〇・五KM」と書いてある。本覚寺は円通寺参道脇にあった。
本覚寺の由緒を要約しておこう。昔島の西山に柏の霊木があり村人の篤い信仰を集めていたが、枯れてしまった。慈覚大師(円仁)が唐へ渡る途中この山に登り枯木から十一面観音像を作って祀ったのが本覚寺の始まりである(柏島の地名はこうして生まれた)。
源平水島合戦以降廃寺となっていたのが再興されたのを機に、かつて慈覚大師が十一面観音像に備える水(阿伽)を汲んだ場所を阿伽崎と呼ぶようになり、後に阿賀崎に転じた(参考文献「商家繁盛中備の魁」)。なお本覚寺の堂宇は近年再建された。
少し先の排水ダクトにはご丁寧に「東向山本覚寺成就院従是五十M 補陀山円通寺従是〇・五KM」と書いてある。本覚寺は円通寺参道脇にあった。
本覚寺の由緒を要約しておこう。昔島の西山に柏の霊木があり村人の篤い信仰を集めていたが、枯れてしまった。慈覚大師(円仁)が唐へ渡る途中この山に登り枯木から十一面観音像を作って祀ったのが本覚寺の始まりである(柏島の地名はこうして生まれた)。
源平水島合戦以降廃寺となっていたのが再興されたのを機に、かつて慈覚大師が十一面観音像に備える水(阿伽)を汲んだ場所を阿伽崎と呼ぶようになり、後に阿賀崎に転じた(参考文献「商家繁盛中備の魁」)。なお本覚寺の堂宇は近年再建された。
イトーヨーカドー福山店の近くでヒマワリを観賞しながら4年前のことを振り返った。麻生さんが衆議院を解散した時私は非常に憂鬱であった。「めちゃくちゃな世の中になるだろう」と予想したからだが、不安はすぐに現実になった。
政権交代から半年も経たないうちにあれほど多用された国民目線、民意、事業仕分、政治主導といった言葉が色あせていき今や全くの死語である。また眠巣などは辞書から永久に消したい、汚らしい単語の一つだ。
昨日の某テレビ番組で人相の悪い(記者上がりの)評論家が参院選での「護憲勢力の獲得議席」に注目と講釈を垂れていたのには笑いすら出なかった。この程度の知能で飯が喰えるのだから随分と生ぬるい業界である。有権者の賢明な選択にイチャモンをつけることしか能がない連中は今晩がお通夜だろう(笑)
政権交代から半年も経たないうちにあれほど多用された国民目線、民意、事業仕分、政治主導といった言葉が色あせていき今や全くの死語である。また眠巣などは辞書から永久に消したい、汚らしい単語の一つだ。
昨日の某テレビ番組で人相の悪い(記者上がりの)評論家が参院選での「護憲勢力の獲得議席」に注目と講釈を垂れていたのには笑いすら出なかった。この程度の知能で飯が喰えるのだから随分と生ぬるい業界である。有権者の賢明な選択にイチャモンをつけることしか能がない連中は今晩がお通夜だろう(笑)
玉島港の近くで少しくつろぎ新港橋南詰まで戻った。橋はその名の通り旧橋(港橋)よりも下流、溜川排水機場の西側に建設されている。
橋を渡り再び玉島中央町1丁目に入る。新港橋北交差点(信号機付き)の大きな建物が中国銀行玉島支店だ。
交差点から西へ約40mの地点に玉島新町郵便局(玉島中央町1丁目22‐11)があるが、かつてこの辺りが新町と呼ばれていたことを今に伝えている。新港橋北交差点よりもう一本北側の通りが新町通りで古い町並みが残る。新町通りは江戸期の潮止堤防上に築かれた町で後に問屋街として栄えた。
私は玉島と福山との共通点(広大な干拓地と港が発展の原動力となったこと)をはっきりと見い出した。そして福山市・国道2号線・千間土手(深津の干拓を進めるために築かれた堤防跡)北側が平成に入って急速に変貌を遂げた点をぜひ玉島の人に見てもらいたいと思ったのである。
橋を渡り再び玉島中央町1丁目に入る。新港橋北交差点(信号機付き)の大きな建物が中国銀行玉島支店だ。
交差点から西へ約40mの地点に玉島新町郵便局(玉島中央町1丁目22‐11)があるが、かつてこの辺りが新町と呼ばれていたことを今に伝えている。新港橋北交差点よりもう一本北側の通りが新町通りで古い町並みが残る。新町通りは江戸期の潮止堤防上に築かれた町で後に問屋街として栄えた。
私は玉島と福山との共通点(広大な干拓地と港が発展の原動力となったこと)をはっきりと見い出した。そして福山市・国道2号線・千間土手(深津の干拓を進めるために築かれた堤防跡)北側が平成に入って急速に変貌を遂げた点をぜひ玉島の人に見てもらいたいと思ったのである。
平成7年(1995)に完成した溜川排水機場を川の左岸(玉島3丁目9)から望む。溜川は干拓地(低地)を浸水から守るために造られた悪水溜り(遊水地)である。山から流れて来る水や排水をここに一時的に溜め、干潮時に水門を開けて海に排出する。ゆえに台風接近による増水時には排水機場の役割が特に重要になるのだ。
排水機場のそばに設置された「郷土しおり」には玉島新田造成以降の歴史が簡潔にまとめられている。町歩きの際にはぜひ目を通しておきたい一文だ。
郷土しおり
玉島港は、17世紀後半、備中松山藩主水谷氏の新田開発に伴い、藩の外港として整備が図られ、北前船が寄港し、高瀬船が行き交う物資の集散地として栄えた。
港周辺には白壁の蔵や問屋が立ち並び、山陽の小浪華(なにわ)ともいわれ備中一の産業港として発展し、文人墨客の出入りも盛んで、経済・文化の両面で繁栄した港町であった。
排水機場およびゲート操作室の建物は、往時を忍び、港町の面影をイメージした白壁の蔵屋敷風とし、玉島のシンボルとして人々に親しまれるよう景観の配慮がなされている。
排水機場の向かい辺りに位置する「大正蔵」。この蔵が出来た頃、川岸は荷揚げで相当に賑わっていたものと推測する。現在の玉島港はのどかそのもので旅人が一服するには最適の場所だった。
排水機場のそばに設置された「郷土しおり」には玉島新田造成以降の歴史が簡潔にまとめられている。町歩きの際にはぜひ目を通しておきたい一文だ。
郷土しおり
玉島港は、17世紀後半、備中松山藩主水谷氏の新田開発に伴い、藩の外港として整備が図られ、北前船が寄港し、高瀬船が行き交う物資の集散地として栄えた。
港周辺には白壁の蔵や問屋が立ち並び、山陽の小浪華(なにわ)ともいわれ備中一の産業港として発展し、文人墨客の出入りも盛んで、経済・文化の両面で繁栄した港町であった。
排水機場およびゲート操作室の建物は、往時を忍び、港町の面影をイメージした白壁の蔵屋敷風とし、玉島のシンボルとして人々に親しまれるよう景観の配慮がなされている。
排水機場の向かい辺りに位置する「大正蔵」。この蔵が出来た頃、川岸は荷揚げで相当に賑わっていたものと推測する。現在の玉島港はのどかそのもので旅人が一服するには最適の場所だった。
朝早く玉島に着いたのでほとんどの店はまだ開いていなかった。おたやん食堂は関西のお好み焼きを提供する店だが、秋から玉島おでんを出すことでも有名である。
夏の(冷やし)おでんがあってもいいと思うのは私だけであろうか。地酒ハイボールのような爽やかなアルコール飲料と抱き合わせで売り込みをかけると面白いと思う。町および商店街の活性化に美味しい料理は必要不可欠なのだから。
通町商店街の中ほどから路地を南に少し入った所に江戸長という割烹旅館(玉島2丁目7‐5 廃業)があった。凝った塀の造りなどからして元料亭(昭和初期創業)と思われる。通りに戻り東へ進む途中、懐かしい提灯の文字を見かけた。
今では洋傘の修理が主のようだが、提灯作りの伝統がこうして守られていることは嬉しいものだ。私は洋傘店前から引き返して溜川沿いに出た。
夏の(冷やし)おでんがあってもいいと思うのは私だけであろうか。地酒ハイボールのような爽やかなアルコール飲料と抱き合わせで売り込みをかけると面白いと思う。町および商店街の活性化に美味しい料理は必要不可欠なのだから。
通町商店街の中ほどから路地を南に少し入った所に江戸長という割烹旅館(玉島2丁目7‐5 廃業)があった。凝った塀の造りなどからして元料亭(昭和初期創業)と思われる。通りに戻り東へ進む途中、懐かしい提灯の文字を見かけた。
今では洋傘の修理が主のようだが、提灯作りの伝統がこうして守られていることは嬉しいものだ。私は洋傘店前から引き返して溜川沿いに出た。