湯広島県知事が福山市中心部を訪れることを私は先月の中旬に知った。住民発表会に参加しようと思ったのは会場が広島県福山庁舎だったことが大きい。そこが旧制の福山誠之館中学(敗戦後は新制の福山誠之館高校)跡地であることに何がしかの因縁を感じたのである。
立て看を見て庁舎の4階へエレベーターで上がり資料をもらい着席した。湯さんは午前中に明王院とリム・ふくやま(旧福山ロッツ)を視察したと語り、4組による事例発表が始まった。
私が最も関心を持ったのは、80歳を超えた貝田哲郎さんによる熊野町ふれあい広場クローバーの立ち上げと運営の裏話だった。人口減少・スーパー撤退などの苦境の中で地域住民が「身を切り(=汗・涙・血を流し)」ながら買い物の不便を解消するために奮闘する事例は非常に珍しいと思う。
「クローバーは自転車操業のような状態」だが、「ありがたい」と思えるムラ(まち)づくりを目指すと前向きに話していたのが印象に残った。聴衆は「まずは隗より始めよ」という有名な諺を思い出したに違いない、そしてそれが責任者のあるべき姿だということも。知事のまとめが終わったのが14時50分頃、私はアンケートを書いて庁舎を後にした。
立て看を見て庁舎の4階へエレベーターで上がり資料をもらい着席した。湯さんは午前中に明王院とリム・ふくやま(旧福山ロッツ)を視察したと語り、4組による事例発表が始まった。
私が最も関心を持ったのは、80歳を超えた貝田哲郎さんによる熊野町ふれあい広場クローバーの立ち上げと運営の裏話だった。人口減少・スーパー撤退などの苦境の中で地域住民が「身を切り(=汗・涙・血を流し)」ながら買い物の不便を解消するために奮闘する事例は非常に珍しいと思う。
「クローバーは自転車操業のような状態」だが、「ありがたい」と思えるムラ(まち)づくりを目指すと前向きに話していたのが印象に残った。聴衆は「まずは隗より始めよ」という有名な諺を思い出したに違いない、そしてそれが責任者のあるべき姿だということも。知事のまとめが終わったのが14時50分頃、私はアンケートを書いて庁舎を後にした。
阿伏兎(あぶと)という変わった地名は福山市沼隈町と内海町(田島)に残っている。沼隈町大字能登原の断崖に建つ磐台寺観音堂(通称:阿伏兎観音)からの眺めが、兎が伏せているように見えることから地名がついたという説もある。
阿伏兎観音と内海町(田島たしま)東端との間(狭い海峡)を阿伏兎ノ瀬戸と呼ぶ。小学校に上がる前、町内の子ども会で阿伏兎海水浴場に遊びに行ったことは良い思い出になっている。内海大橋が開通する25年位前の話だから沼隈側から内海町営渡船に乗ったのだろう。えらい大きな音を立てて船が進むのが私は恐ろしかった(笑)
阿伏兎祭・花火大会の折り込みチラシは安易に写真を使わず手作り感溢れるイラストが見事。祭開催のための資金調達はなかなか大変と聞くが、備後ソースの売り込み同様、頑張ってもらいたい。花火は沼隈町大字能登原字明神沖から打ち上げられる。花火は自分の目で見ることに意味がある、近場の人も遠方の人も8月9日(金)にぜひお出かけを。
阿伏兎観音と内海町(田島たしま)東端との間(狭い海峡)を阿伏兎ノ瀬戸と呼ぶ。小学校に上がる前、町内の子ども会で阿伏兎海水浴場に遊びに行ったことは良い思い出になっている。内海大橋が開通する25年位前の話だから沼隈側から内海町営渡船に乗ったのだろう。えらい大きな音を立てて船が進むのが私は恐ろしかった(笑)
阿伏兎祭・花火大会の折り込みチラシは安易に写真を使わず手作り感溢れるイラストが見事。祭開催のための資金調達はなかなか大変と聞くが、備後ソースの売り込み同様、頑張ってもらいたい。花火は沼隈町大字能登原字明神沖から打ち上げられる。花火は自分の目で見ることに意味がある、近場の人も遠方の人も8月9日(金)にぜひお出かけを。
井伏鱒二は平成5年(1993)7月10日に亡くなっている。没後20年の節目に明日からふくやま文学館(福山市丸之内1丁目)で特別展が開催される。
ふくやま美術館の少し北に位置する文学館には福山ゆかりの作家の原稿などが陳列してあるので私も3度ほど足を運んだ。中でも井伏の旧制福山中学校(※現・広島県立福山誠之館高校)の卒業証書(複製)は見所の一つだと思う。
井伏が母校に対してあまり良い印象を持っていなかったことは彼のエッセイを読めば明白である。私が籍を置いただけの高校で数少ないまともな(英語の)教師が「井伏は勉強があまりできず孤立していたようだ」と語りニヤッとした瞬間をはっきりと思い出すことができる。
確かに教師が発言したように優秀な学生は旧制高校(トップクラスは一高、多くは近くの六高)へ進学し帝大卒業後官吏になるか大企業に就職というコースが普通だった。教師は屈折した井伏を例に出しながらさりげなく総合選抜制度を批判した。学力の低い生徒を集め続けた結果、レジャーランド高校と揶揄されるようになったのは名門OBとしては堪えがたいことだったであろう。
垢教師の肥溜めだった高校と縁が切れた時に私は本当に清々しい表情を浮かべた、それは永久の「サヨナラ」を意味していた。言論の自由なき異常な学校で3年間を無駄にしたことが未だに悔やまれる。
ふくやま美術館の少し北に位置する文学館には福山ゆかりの作家の原稿などが陳列してあるので私も3度ほど足を運んだ。中でも井伏の旧制福山中学校(※現・広島県立福山誠之館高校)の卒業証書(複製)は見所の一つだと思う。
井伏が母校に対してあまり良い印象を持っていなかったことは彼のエッセイを読めば明白である。私が籍を置いただけの高校で数少ないまともな(英語の)教師が「井伏は勉強があまりできず孤立していたようだ」と語りニヤッとした瞬間をはっきりと思い出すことができる。
確かに教師が発言したように優秀な学生は旧制高校(トップクラスは一高、多くは近くの六高)へ進学し帝大卒業後官吏になるか大企業に就職というコースが普通だった。教師は屈折した井伏を例に出しながらさりげなく総合選抜制度を批判した。学力の低い生徒を集め続けた結果、レジャーランド高校と揶揄されるようになったのは名門OBとしては堪えがたいことだったであろう。
垢教師の肥溜めだった高校と縁が切れた時に私は本当に清々しい表情を浮かべた、それは永久の「サヨナラ」を意味していた。言論の自由なき異常な学校で3年間を無駄にしたことが未だに悔やまれる。