先日、「おしい!広島県 THE MOVIE」の第2弾を見た。呉市出身の俳優・河原さぶさんを副知事役に起用しておしい(≒それほど知られていない観光)名所を紹介してゆくPVである。
三原のタコ料理をさりげなく夕食のシーンに盛り込む辺りがいかにも戦略家・湯崎さんらしい。しまなみ海道と県北の神楽にもスポットライトが当てられていた。広島県とJRグループがタッグを組んだ「広島県デスティネーションキャンペーン」は好評のようで福山市の県立歴史博物館の入場者数は前年よりも大きく増えた(※8月13日の産経新聞の記事を参照)
おしい!おしくない!どっち!?広島県のリーフレットには1泊2日でめぐる「瀬戸の海満喫なら南じゃろ」コース(三原~しまなみ海道~尾道~鞆の浦)が載っている(他には西と北がある)。サイクリングと船で島や港町をのんびりと巡る旅も確かになかなかオツなものである。海無し県からの観光客にぜひともその魅力を確かめてもらいたいコースだ。
三原のタコ料理をさりげなく夕食のシーンに盛り込む辺りがいかにも戦略家・湯崎さんらしい。しまなみ海道と県北の神楽にもスポットライトが当てられていた。広島県とJRグループがタッグを組んだ「広島県デスティネーションキャンペーン」は好評のようで福山市の県立歴史博物館の入場者数は前年よりも大きく増えた(※8月13日の産経新聞の記事を参照)
おしい!おしくない!どっち!?広島県のリーフレットには1泊2日でめぐる「瀬戸の海満喫なら南じゃろ」コース(三原~しまなみ海道~尾道~鞆の浦)が載っている(他には西と北がある)。サイクリングと船で島や港町をのんびりと巡る旅も確かになかなかオツなものである。海無し県からの観光客にぜひともその魅力を確かめてもらいたいコースだ。
およそ200年の歴史を持つ吉田畳店(玉島阿賀崎1238)。9代目(父)と10代目(息子)が力を合わせて店を守る。
畳は消耗品と思っている人が多いかもしれないが、定期的に表替えをすることで畳の寿命を延ばすことができる。かつて備後畳表は福山の主要な産業の一つであった。
白神紙商店株式会社(玉島阿賀崎1241)は明治初年からこの地で営業を続ける。諸紙卸商としての屋号は室屋(むろや)である。
若き後継者は日常雑貨としての紙の可能性を模索する。このように老舗存続の鍵はより良い商品作りへの貪欲なまでの挑戦ではないだろうか。伝統を大切にしながら新たな分野を開拓することは経営の要である。私は商店前から住吉山を望み里見川の畔に出た。
畳は消耗品と思っている人が多いかもしれないが、定期的に表替えをすることで畳の寿命を延ばすことができる。かつて備後畳表は福山の主要な産業の一つであった。
白神紙商店株式会社(玉島阿賀崎1241)は明治初年からこの地で営業を続ける。諸紙卸商としての屋号は室屋(むろや)である。
若き後継者は日常雑貨としての紙の可能性を模索する。このように老舗存続の鍵はより良い商品作りへの貪欲なまでの挑戦ではないだろうか。伝統を大切にしながら新たな分野を開拓することは経営の要である。私は商店前から住吉山を望み里見川の畔に出た。
JR福山駅南口の改修工事が進んでいる。駅構内の日本旅行TiS福山支店(三之丸町30‐1)は居抜状態となっていた。
支店の大きな窓ガラスに「福山駅一部改修工事のお知らせ」の紙が貼ってあった。現在ここから東へ15mほど行った場所(仮店舗)で営業を続けているが、9月1日に新装開店の予定である。
地図を参照すると仮設塀で囲まれた部分がサンステの拡張エリアとなるようである。塀の角が透明となっており工事の進行具合を確認できる。五浦釣人像があった場所の背後に元町の天満屋が見える。新施設建造のため釣人像は西へ約15m移動したのであった。地図上で赤枠の六角形が移転した釣人像の位置、そして赤紫色の丸が仮設塀の透明部分である。工事期間は11月下旬ごろまでとの事(あくまでも予定)。
支店の大きな窓ガラスに「福山駅一部改修工事のお知らせ」の紙が貼ってあった。現在ここから東へ15mほど行った場所(仮店舗)で営業を続けているが、9月1日に新装開店の予定である。
地図を参照すると仮設塀で囲まれた部分がサンステの拡張エリアとなるようである。塀の角が透明となっており工事の進行具合を確認できる。五浦釣人像があった場所の背後に元町の天満屋が見える。新施設建造のため釣人像は西へ約15m移動したのであった。地図上で赤枠の六角形が移転した釣人像の位置、そして赤紫色の丸が仮設塀の透明部分である。工事期間は11月下旬ごろまでとの事(あくまでも予定)。
南町と呼ばれる地区まで歩いてきた。㈱中屋の近くには旧玉島魚市場があった。鱧が最高に美味しい時期だが、小売部(玉島阿賀崎980)の店先には何故か「長門ぶり」のトロ箱が積み上げられていた。
虫籠窓の御菓子司金光堂本店の先が昭和橋西詰である。漸く幸町まで戻って来た私は左へ曲がり住吉山公園下に向かった。
住吉山公園と記された石碑の上には昔住吉神社が建っていた。その後住吉神社が(玉島中央町の)羽黒神社に合祀されて境内は公園に変わった。住吉山の上には魚霊塔があるそうだ。
備中松山藩水谷氏の時代は新田開発ブームであった。干拓を進めるために柏島(住吉山)と阿弥陀島(羽黒山)の間に新町堤防が築かれ、ここに商いをする人達が移り住み新町通りが出来た。
虫籠窓の御菓子司金光堂本店の先が昭和橋西詰である。漸く幸町まで戻って来た私は左へ曲がり住吉山公園下に向かった。
住吉山公園と記された石碑の上には昔住吉神社が建っていた。その後住吉神社が(玉島中央町の)羽黒神社に合祀されて境内は公園に変わった。住吉山の上には魚霊塔があるそうだ。
備中松山藩水谷氏の時代は新田開発ブームであった。干拓を進めるために柏島(住吉山)と阿弥陀島(羽黒山)の間に新町堤防が築かれ、ここに商いをする人達が移り住み新町通りが出来た。
玉島柏島のスクラップ工場を通り過ぎて少し歩くとまた法界地蔵尊(宝暦十四年申六月の文字 ※明和に改元する直前)が祀られていた。柔和な表情の地蔵から異様な熱気を感じた。傍らに建っている薬師堂が開いていれば強い日差しを避けて中で休憩したことだろう。
私は暑さに耐えかねて近くのセブンイレブンに入って冷たいアイスを買い求めることにした。袋から取り出したガリガリ君はすぐに溶け始めた。焦って食べたのでこめかみが痛くなったが、体の火照りは多少取れた。
戎町(玉島阿賀崎)の重厚な造りの建物角に石碑が建っていた。「史蹟備前藩御屋敷跡 / 平成十九年一月十四日建之 玉島文化協会 玉島観光ガイド協会」と記され江戸時代中期には存在していたような説明があった。もともと阿賀崎新田村は備中松山藩・水谷氏が開発したものだが、世継ぎが認められずお家断絶、所領が幕府に召し上げられた。
玄関の上部に「旅館備後屋」の表示があった。大正三年(1914)に料亭として創業した備後屋は現在料理旅館となっており間もなく創業百年を迎える。生粋の備後人は備中で備前と備後の文字を見て「3つ合わせれば吉備の国だ」と呟いた。
私は暑さに耐えかねて近くのセブンイレブンに入って冷たいアイスを買い求めることにした。袋から取り出したガリガリ君はすぐに溶け始めた。焦って食べたのでこめかみが痛くなったが、体の火照りは多少取れた。
戎町(玉島阿賀崎)の重厚な造りの建物角に石碑が建っていた。「史蹟備前藩御屋敷跡 / 平成十九年一月十四日建之 玉島文化協会 玉島観光ガイド協会」と記され江戸時代中期には存在していたような説明があった。もともと阿賀崎新田村は備中松山藩・水谷氏が開発したものだが、世継ぎが認められずお家断絶、所領が幕府に召し上げられた。
玄関の上部に「旅館備後屋」の表示があった。大正三年(1914)に料亭として創業した備後屋は現在料理旅館となっており間もなく創業百年を迎える。生粋の備後人は備中で備前と備後の文字を見て「3つ合わせれば吉備の国だ」と呟いた。