温室と化した家を出てチャリンコで五本松へ向かう。自動車を使わないのは私なりの計算であった。数々の裏ワザを駆使しわずか10分で福山市体育館に到着した。ここにチャリを止めて芦田川の土手道をテクテク歩いた。

私は小水呑橋(こみのみばし)東詰に陣取りデジカメを調整した。河川敷は涼しい風が吹きまるで天国であった。

市長などの挨拶が終わり午後7時35分頃から花火が打ち上げられた。子どもの頃に見た花火とは比べ物にならぬ位色鮮やかで変化に富む。花火の世界も技術革新が進んでいるということだ。

8時過ぎから風が止み蒸し暑さを感じ始めた。撮影に集中したいところへやぶ蚊の執拗な攻撃が続き汗でベタベタになった左手は絶えず回転していた。


河川敷で開催される花火大会の醍醐味は臨場感であろう。日本人の心を鷲掴みにするあの独特の音、そこに色の劇的な変化が加わり、歓声がこだまする。エコー感が心地よくて結局1時間ほど橋の袂で写真を撮った。帰りも飛ばしてきっちり10分で家に着いた。公言通りドクターズ2には間に合ったのである。

私は小水呑橋(こみのみばし)東詰に陣取りデジカメを調整した。河川敷は涼しい風が吹きまるで天国であった。

市長などの挨拶が終わり午後7時35分頃から花火が打ち上げられた。子どもの頃に見た花火とは比べ物にならぬ位色鮮やかで変化に富む。花火の世界も技術革新が進んでいるということだ。

8時過ぎから風が止み蒸し暑さを感じ始めた。撮影に集中したいところへやぶ蚊の執拗な攻撃が続き汗でベタベタになった左手は絶えず回転していた。


河川敷で開催される花火大会の醍醐味は臨場感であろう。日本人の心を鷲掴みにするあの独特の音、そこに色の劇的な変化が加わり、歓声がこだまする。エコー感が心地よくて結局1時間ほど橋の袂で写真を撮った。帰りも飛ばしてきっちり10分で家に着いた。公言通りドクターズ2には間に合ったのである。

現・備後護国神社の巨大な石柱は尾道市石工・大村喜兵衛の作品で裏面に明治三十一年五月の銘が入っている。


旧阿部神社の参道前を通り水路に沿って東へ進む。三蔵稲荷神社(西参道)の鳥居の先にもう一基の大鳥居がある。移築時期がかなりずれた原因について『福山市多治米町誌(平成五年・一九九三年)』は詳細にまとめている。

鳥居の発掘移転 埋められていた石鳥居のことを少し触れると、戦後、連合軍最高司令官マッカーサーによって宗教法人令がだされ、市民の間に「このままだと取り壊されるおそれがある」という声が起き、市当局は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。一基は、昭和三六年に発掘し現備後護国神社表参道に再建された。もう一基の方は、埋めた場所が分からなくなり、未完成で消えた神社だけでなく、こちらも「幻の鳥居」と呼ばれていたが、現在の体育館の北側駐車場下にあると分かり発掘された。しかし、柱の一本は真ん中あたりで折れていたし、発見できない部分もあったが、裏参道に立派に再建された。行って見れば柱の一本は継がれていることがよく分かる。三五年振りの昭和五五年秋の大祭に間に合うことができ、以来立派に役目を果している。多治米近くにしばらく立っていた鳥居なのであえて紹介した。なお、一基は三菱電機、一基は個人の奉納であった。
『福山市多治米町誌(平成五年・一九九三年)』


柱の各側面には「福山市 (赤)垣幾四郎」「昭和十九年十一月吉日」という文字が刻まれている。補修の跡は裏参道入口から見た方が分かりやすい。
文献の記述を読んでからは私の大鳥居への見方は一変した。戦勝国という巨大な権力に屈することなく石造物を残そうと努力した人達に深く感謝したい。



旧阿部神社の参道前を通り水路に沿って東へ進む。三蔵稲荷神社(西参道)の鳥居の先にもう一基の大鳥居がある。移築時期がかなりずれた原因について『福山市多治米町誌(平成五年・一九九三年)』は詳細にまとめている。

鳥居の発掘移転 埋められていた石鳥居のことを少し触れると、戦後、連合軍最高司令官マッカーサーによって宗教法人令がだされ、市民の間に「このままだと取り壊されるおそれがある」という声が起き、市当局は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。一基は、昭和三六年に発掘し現備後護国神社表参道に再建された。もう一基の方は、埋めた場所が分からなくなり、未完成で消えた神社だけでなく、こちらも「幻の鳥居」と呼ばれていたが、現在の体育館の北側駐車場下にあると分かり発掘された。しかし、柱の一本は真ん中あたりで折れていたし、発見できない部分もあったが、裏参道に立派に再建された。行って見れば柱の一本は継がれていることがよく分かる。三五年振りの昭和五五年秋の大祭に間に合うことができ、以来立派に役目を果している。多治米近くにしばらく立っていた鳥居なのであえて紹介した。なお、一基は三菱電機、一基は個人の奉納であった。
『福山市多治米町誌(平成五年・一九九三年)』


柱の各側面には「福山市 (赤)垣幾四郎」「昭和十九年十一月吉日」という文字が刻まれている。補修の跡は裏参道入口から見た方が分かりやすい。
文献の記述を読んでからは私の大鳥居への見方は一変した。戦勝国という巨大な権力に屈することなく石造物を残そうと努力した人達に深く感謝したい。


霞町を出て福山郵便局前交差点を通過したのが19時過ぎ。既に空は暗くなり始めていた。駅前大通りの提灯が明々と輝き美しい。


私は宮通りの鳥居を抜けて今年最後の夜店の様子をうかがうことにした。すごい人出で前に進むのは容易ではない。
ひさまつどおりに入るとイカ焼きの香ばしいにおいがプンプン漂っていた。輪投げの方も盛況で子どもの大きな声が聞こえる。


きたはま通り流し演舞場では「よさこい連伊呂波」がダイナミックで軽快な踊りを披露して道路脇の観客から声援を浴びていた。後ろで旗を振り回す男性の熱演に私は惜しみない拍手を送った。


YOSAKOIを観るのは初めてだが、二上りとは全く違った面白さがある。二日間にわたって市中心部の賑わいを実感できて嬉しかった。来年も多分出掛けることになるだろう。


私は宮通りの鳥居を抜けて今年最後の夜店の様子をうかがうことにした。すごい人出で前に進むのは容易ではない。
ひさまつどおりに入るとイカ焼きの香ばしいにおいがプンプン漂っていた。輪投げの方も盛況で子どもの大きな声が聞こえる。


きたはま通り流し演舞場では「よさこい連伊呂波」がダイナミックで軽快な踊りを披露して道路脇の観客から声援を浴びていた。後ろで旗を振り回す男性の熱演に私は惜しみない拍手を送った。


YOSAKOIを観るのは初めてだが、二上りとは全く違った面白さがある。二日間にわたって市中心部の賑わいを実感できて嬉しかった。来年も多分出掛けることになるだろう。

福山は8日連続の猛暑日となった。コンビニで買ったガリガリ君をかじりながら霞町まで歩く。いろは丸YOSAKOIのメイン会場・中央公園のステージでは若い女性が盆踊り風の色っぽい動きをしていた。時計を見ると18時50分であった。

駅前大通りを横断し西へ移動する。霞本通の入口付近(霞町2丁目2)に大きなとうろうが置かれ人目を引いていた。ここからは車両通行止である。

霞町3丁目の吉山タンスまで来るといがぐり頭の少年が手作りのとうろう内のロウソクに火をつけていた。


薄灯りの本通の中程まで戻ると食品販売コーナーに人が群がっていた。子どもはやはり冷たい物に引き寄せられる。

手を休める暇もなくかき氷を削るおっちゃんの顔は真っ赤だ(笑)。私は関東煮の大鍋の前に立ちすっかり舞い上がって計算をやり直すおばさんに注文(3品みつくろい)を入れた。


案の定彼女は串しか皿(トレイ)に取らなかったので「こんにゃくと玉子も入れて」と念を押さなければならなかった。串(牛の肺臓)はかなり甘めの味付けだが、船町の本家ほどはこってりしていない。
神石牛バーガーの移動販売車はばら祭の時も確かここに来ていた。380円のハンバーガーにはパテの他にレタスとトマトが仕込んであった。あっさりした風味で中高年には嬉しいところだ。


火を扱うまつりなので消防関係者を10人弱見かけた。万が一の時に備えて消防車が小林洋品雑貨店前にスタンバイしていた。今日だけは運転席に特別に座ることができるため幼い子どもは大喜びだった。ほのぼのとしたまつりに私は好印象を持った。


駅前大通りを横断し西へ移動する。霞本通の入口付近(霞町2丁目2)に大きなとうろうが置かれ人目を引いていた。ここからは車両通行止である。

霞町3丁目の吉山タンスまで来るといがぐり頭の少年が手作りのとうろう内のロウソクに火をつけていた。


薄灯りの本通の中程まで戻ると食品販売コーナーに人が群がっていた。子どもはやはり冷たい物に引き寄せられる。

手を休める暇もなくかき氷を削るおっちゃんの顔は真っ赤だ(笑)。私は関東煮の大鍋の前に立ちすっかり舞い上がって計算をやり直すおばさんに注文(3品みつくろい)を入れた。


案の定彼女は串しか皿(トレイ)に取らなかったので「こんにゃくと玉子も入れて」と念を押さなければならなかった。串(牛の肺臓)はかなり甘めの味付けだが、船町の本家ほどはこってりしていない。
神石牛バーガーの移動販売車はばら祭の時も確かここに来ていた。380円のハンバーガーにはパテの他にレタスとトマトが仕込んであった。あっさりした風味で中高年には嬉しいところだ。


火を扱うまつりなので消防関係者を10人弱見かけた。万が一の時に備えて消防車が小林洋品雑貨店前にスタンバイしていた。今日だけは運転席に特別に座ることができるため幼い子どもは大喜びだった。ほのぼのとしたまつりに私は好印象を持った。


現在の草戸町5丁目12にあった幻の福山護国神社(福山市体育館が建っている場所)。その数少ない遺構である2つの大鳥居は戦後丸之内1丁目に移築された。

まずは西側の鳥居から話を始めたい。場所は福山城公園庭球場の下(北)でタクシーの運転手が車を停めてよく休憩している所に建っている。


太い柱の側面にはそれぞれ「三菱電機株式會社」「昭和十八年九月吉日」の銘が入っている。戦況が悪化していた時期の建造物で当時市内にあった三菱電機の工場と軍との密接な関係を示すものだ。大鳥居をくぐると備後護国神社(旧阿部神社)が見える。

この道を通って家に帰る際には護国神社に寄ることにしている。現在の繁栄は多くの人達の犠牲の上に成り立っていることを(恥かしき)団塊の世代はすっかり忘れている。大正生まれの人達が自分の子どものことをあまりよく言わないのは親だけでなく英霊をも軽視しているからであろう。

備後郷土史研究においても護国神社は非常に重要な存在だと私は考えている。陸軍の誘致で急速に発展を遂げた福山市の歴史を「悪」と捉えて隠蔽するのが本当に「善」と言えるのか。(自分の意志はどうであれ)民間人も軍に協力していた事実を直視した上で英霊に手を合わせ静かに「国防と憲法」について市民が考えなければならない時期になった。

戦勝国にあてがわれた「憲法」のおかげで平和が維持されてきたと思うのは幻想である。先ずは(なりすましを含めて)左巻きの連中が垂れ流してきた自虐史観を払拭し愚民が洗脳状態から抜けることが大事なのだ。あの「イマジン」を作った男がどういう最期を迎えたかを思い浮かべるがよい。「理想」と「現実」の大きな違いを認識して今は「自衛力」を高める時期だ。


まずは西側の鳥居から話を始めたい。場所は福山城公園庭球場の下(北)でタクシーの運転手が車を停めてよく休憩している所に建っている。


太い柱の側面にはそれぞれ「三菱電機株式會社」「昭和十八年九月吉日」の銘が入っている。戦況が悪化していた時期の建造物で当時市内にあった三菱電機の工場と軍との密接な関係を示すものだ。大鳥居をくぐると備後護国神社(旧阿部神社)が見える。

この道を通って家に帰る際には護国神社に寄ることにしている。現在の繁栄は多くの人達の犠牲の上に成り立っていることを(恥かしき)団塊の世代はすっかり忘れている。大正生まれの人達が自分の子どものことをあまりよく言わないのは親だけでなく英霊をも軽視しているからであろう。

備後郷土史研究においても護国神社は非常に重要な存在だと私は考えている。陸軍の誘致で急速に発展を遂げた福山市の歴史を「悪」と捉えて隠蔽するのが本当に「善」と言えるのか。(自分の意志はどうであれ)民間人も軍に協力していた事実を直視した上で英霊に手を合わせ静かに「国防と憲法」について市民が考えなければならない時期になった。

戦勝国にあてがわれた「憲法」のおかげで平和が維持されてきたと思うのは幻想である。先ずは(なりすましを含めて)左巻きの連中が垂れ流してきた自虐史観を払拭し愚民が洗脳状態から抜けることが大事なのだ。あの「イマジン」を作った男がどういう最期を迎えたかを思い浮かべるがよい。「理想」と「現実」の大きな違いを認識して今は「自衛力」を高める時期だ。


私が二上り(おどり)を観に行くのは実に30数年ぶり(小学校卒業以来)である。なぜこんなに間が開いてしまったのか。街のど真ん中に住んでいるから「来年があるさ」という思いが強かったのも理由の一つだ。まつりには気が向いた時に参加するのが私の昔からのポリシーである(ド田舎の強制とは全く無縁だ)。はぶ文泉堂前辺りで市長のフニャフニャした開催の挨拶が大音量で流れていた(笑)

船町の商店街を抜け宮通りを経由して久松通りに入る。タオルを頭に巻いたおっさんがスペイン産生ハムをナイフで削いでいた。飯をしこたま喰っている私はここを素通りした。

国道2号線を横断して中央公園前に到着。警備の人から「自転車から降りて押して下さい。まもなく二上りの第一陣が出発します」と言われた。

洒落た衣装の御婦人方の竹の握り方は流石であった。私は公園内に入って露店をチェックしてすぐに駅前大通りに出た。


2号線の手前で広島銀行の行員がスタンバイ中でリーダーらしき人物が記念写真を撮っていた。私は人込みを避けながら少し大回りをして宮通り鳥居前に移動した。

若い人が多いなと思ったら福山市立大学の学生さんだった。従兄の娘を笠岡町で見かけたが、どうやら仲間に挨拶をしに来たようだった。元町の天満屋の角を曲がりきたはま通りに沿って天下橋跡に向かう。


日は暮れ始めていた。石灯籠に灯りがついて実にいい感じである。木綿橋跡から出てきた踊り手は相当練習を積んでいるようで全てがビシッと決まっていた。私は3コースを全て回ったが、このグループが最も格好良かった。暗がりの中、二上りおどりのブロンズ像も嬉しげであった。


船町の商店街を抜け宮通りを経由して久松通りに入る。タオルを頭に巻いたおっさんがスペイン産生ハムをナイフで削いでいた。飯をしこたま喰っている私はここを素通りした。

国道2号線を横断して中央公園前に到着。警備の人から「自転車から降りて押して下さい。まもなく二上りの第一陣が出発します」と言われた。

洒落た衣装の御婦人方の竹の握り方は流石であった。私は公園内に入って露店をチェックしてすぐに駅前大通りに出た。


2号線の手前で広島銀行の行員がスタンバイ中でリーダーらしき人物が記念写真を撮っていた。私は人込みを避けながら少し大回りをして宮通り鳥居前に移動した。

若い人が多いなと思ったら福山市立大学の学生さんだった。従兄の娘を笠岡町で見かけたが、どうやら仲間に挨拶をしに来たようだった。元町の天満屋の角を曲がりきたはま通りに沿って天下橋跡に向かう。


日は暮れ始めていた。石灯籠に灯りがついて実にいい感じである。木綿橋跡から出てきた踊り手は相当練習を積んでいるようで全てがビシッと決まっていた。私は3コースを全て回ったが、このグループが最も格好良かった。暗がりの中、二上りおどりのブロンズ像も嬉しげであった。


昨日駅前に出る用事があって船町を通った。木綿橋跡付近に福山夏まつりの交通規制の立て看が置かれていた。

物も言いたくないほどの暑さで歩行者の数はまばらである。高齢の女性は日傘を差していた。初日の二上り踊りは気が向いたら見に行こう(笑)

天下橋跡から北浜(※入江の北岸を指す)通りを望む。戦前築切(つっきり)から入江を埋め立てて現在の道路の元ができた。中國銀行福山船町支店が建っていた場所はマンションとなり銀行跡地を示す石碑が残っている。


物も言いたくないほどの暑さで歩行者の数はまばらである。高齢の女性は日傘を差していた。初日の二上り踊りは気が向いたら見に行こう(笑)

天下橋跡から北浜(※入江の北岸を指す)通りを望む。戦前築切(つっきり)から入江を埋め立てて現在の道路の元ができた。中國銀行福山船町支店が建っていた場所はマンションとなり銀行跡地を示す石碑が残っている。


玉島魚市場から岡山県道47号倉敷長浜笠岡線を横断し天満町南樋門前に立つ。この場所からは水島灘がよく見える。青色の橋が玉島大橋で上の道路が水島ブリッジラインである。

玉島大橋は玉島源平大橋という別名を持つ。大昔橋の下辺りで源氏(乙島渡里に陣を置いた)と平家(柏島政所)が戦を交えたと伝わっている。潮風は時折吹いたが汗でビショビショになったシャツは簡単に乾きそうになかった。


岡山県道47号沿いの宗田釣具店(玉島柏島916‐15)を過ぎると天満町バス停である。私は標識の手前を左折して旧道に戻った。


かつての遊廓街を抜けると辻の角に小さな煉瓦造りの稲荷町水門ポンプ室(地図では薄紫色の丸)が建っていた。どうやらここから稲荷町となるようだ。


玉島大橋は玉島源平大橋という別名を持つ。大昔橋の下辺りで源氏(乙島渡里に陣を置いた)と平家(柏島政所)が戦を交えたと伝わっている。潮風は時折吹いたが汗でビショビショになったシャツは簡単に乾きそうになかった。


岡山県道47号沿いの宗田釣具店(玉島柏島916‐15)を過ぎると天満町バス停である。私は標識の手前を左折して旧道に戻った。


かつての遊廓街を抜けると辻の角に小さな煉瓦造りの稲荷町水門ポンプ室(地図では薄紫色の丸)が建っていた。どうやらここから稲荷町となるようだ。

