青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

国策に、袂を分かつ線と線。

2024年09月07日 10時00分00秒 | 西日本鉄道

(高層マンションを背に@和白駅)

貝塚からスタートして、名島、西鉄香椎、そして三つ目の交換駅が和白駅。15分間隔のパターンダイヤ、どの駅でもきっちりと交換があってシステマティックである。和白の駅は、周囲に高層マンションに囲まれた住宅街の駅、という感じ。博多湾に沿って走る西鉄貝塚線、この和白駅と一つ前の唐の原駅付近が一番海に近い。ただし、海岸まで住宅が建て込んでいることもあり、車窓から海は見えません。というか、写真が似たような駅の交換シーンばかりで申し訳ない(笑)。西鉄貝塚線、さすがに都市部を走る路線ということもあって、そこまでフォトジェニックな場所を見つけきれない・・・というのもあり。そして、この日の博多は35℃を超える猛暑。あまりにも暑くて、駅間を歩いて撮り歩くという行為は正直しんどいということもあった。そこらへん自分でも最近根性がないなあと思うのだけど、旅先であんまり無理してもねえ、という感じで。

和白駅は、JR香椎線との接続駅でもありまして、あわよくば西鉄の黄色い電車とJR九州の気動車を絡めて撮れるかな??と思ったのだが、日中の香椎線の30分間隔の列車はちょうど貝塚線の電車の15分間隔に差し込まれていて、両者が並ぶようなダイヤにはなっていません。まあ、同時発車なんてやられたら乗り換え客にしてみたらたまんないでしょうしね。接続に関しては配慮がなされているようです。JR香椎線と西鉄貝塚線は、元々「博多湾鉄道汽船」という会社が敷設した同じ出自の路線だったため、今でもレールを繋げば簡単に相互乗り入れが果たされそうな雰囲気があります。博多湾鉄道汽船は、廃止された国鉄勝田線(吉塚~筑前勝田間)の元である筑前参宮鉄道とともに、勝田炭鉱、志免炭鉱、西戸崎炭鉱などから西戸崎の石炭積み出し港への輸送路線として建設された路線で、福岡市の東方の糟屋炭田からの出炭ルートを担っていました。午前中に訪れた志免炭鉱が海軍の艦船向けの出炭を担っていたこと、また当時の国のエネルギー政策として、石炭産業に関わる一連の鉄道群は社会経済や安全保障の面でも特に重要なインフラとされたため、戦時中に成立した陸上交通統制法によっていったん西日本鉄道へ引き受けられたのち、国鉄香椎線として国有化されて袂を分かつことになります。

香椎線は非電化路線ですが、西戸崎行きの列車は架線式蓄電池電車「DENCHA」ことBEC819系。大容量バッテリーを搭載し、架線下ではパンタグラフから集電し、非電化地帯は充電したバッテリーと軽油を併用して走るのだそうで・・・プラグインハイブリッド車の鉄道バージョンということでしょうか。それにしても、かつての産炭路線がディーゼル気動車により無煙化し、そして現在ではバッテリーを併用したハイブリッドカーが走るという香椎線の歴史は、日本のエネルギー政策の変遷をそのまま体現しているようでもあるな。車輛の形式番号である「BEC」は「attery lectric ar」の略かな。そして愛称である「DENCHA」は、「UAL ENERAGY CHARGE TRAIN」の略。いかにも最近のコピーライターとか広告デザイナーがつけそうなキャッチコピーであるなあ。そして日傘の淑女が跨線橋を渡る、真夏の昼下がりの和白駅。

この辺りの博多湾は「和白干潟」と呼ばれる約80ヘクタールの広さを持つ干潟で、潮干狩りや飛来する渡り鳥を対象にしたバードウォッチングなどが楽しめるそうだ。建物の陰を伝いながら駅から少し離れた場所まで歩き、和白干潟に繋がる小さな水路を渡って行く貝塚線の電車を撮る。水路沿いの低い土地に建ち並ぶ民家と、漂う潮の香りと、水路に跳ねる小さなボラの幼魚。線路際の灌木がちょっと車両を隠してしまうけど、和白の街の雰囲気を優先した構図で。

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さよなら夏の日。

2024年09月05日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(オキサイドイエローの競演@名島駅)

九州らしいパンチの効いたとんこつラーメンを啜った後は、再び橋を渡って名島の駅から貝塚線へ。名島駅は平日の日中ダイヤでは必ず列車交換をおこなう駅で、貝塚行きが新宮行きの電車を待って発車します。今でこそ博多の小さなローカル電車・・・という雰囲気の貝塚線ですが、1992年(平成4年)には年間1,200万人の輸送実績を挙げたバリバリの福岡都市圏の通勤路線でした。そこから僅か15年で、年間600万人まで輸送人員が落ち込むという極端な減少カーブを描くのですが、1992年のピークの頃は、並行するJRがまだ都市圏の近距離輸送にはあまり熱を上げていなかった時代の話で、鹿児島本線も旅客列車の本数が少なかったんですよねえ。鹿児島本線の近郊輸送の増強とそれに伴う宅地開発は、海沿いではなく鹿児島本線の線路から山側に向かっておこなわれ、それが宮地岳線沿いの旧市街地の陳腐化を招いたというのもあるでしょう。新型車両を導入し本数を増やしたJRは、博多直結で宮地岳線より圧倒的にスピードが速く、宮地岳線が貝塚~津屋崎を40分で走るのに対し、JRの快速は博多~福間が20分ちょい。どうしても大牟田線のお古ばかりが回される後ろ向きな設備投資と、貝塚での乗り換えが必須になる輸送形態と、単線で速度を上げられない宮地岳線の線形では、さすがに天下のJRに対してはが立たなかったというのが実情でしょうか。

名島を出ると、線路はJRの鹿児島本線に沿って高架となり、西鉄千早・香椎宮前・西鉄香椎と福岡市街の高架駅が続きます。西鉄香椎で2回目のすれ違い交換。日中の15分ヘッドでは名島・香椎・和白で交換をおこない、そして終点の西鉄新宮で段落としの運用が行われています。貝塚線で使われている車両は600形で統一されているので、車種による妙味みたいなものはありません。現在でこそライトケースに収まる横並びの丸型ライトが特徴の600形ですが、デビューの頃はオデコの一灯大型ライト。行先表示器は現在の車番が刻印されている「ヘソ」の位置についていて、今でいうところの神鉄の1000系列のような顔をしていたそうです。同じ神戸の川崎車輛の製造で、製造された年次もごくごく近いとなれば、相似のデザインの車両が生まれていてもおかしくはない話ではあります。

西鉄香椎から先、地上に戻って香椎花園前。ここには、博多湾鉄道汽船株式会社が開設した「香椎チューリップ園」を源流とした西鉄直営の遊園地「かしいかえん」がありました。福岡市内唯一の遊園地として長らく市民に親しまれていましたが、レジャーの多様化によるファミリー層の遊園地離れによる入場人員の減少と施設の老朽化にコロナが直撃し、2021年12月いっぱいを持って閉園してしまいました。夏休み、子供たちで賑わったであろう「かしいかえんプール」の跡を横目に走る貝塚線の電車。きっとシーズンは大勢の子供たちの歓声の坩堝になっていたに違いない光景です。そう大きくはないけれど、子供が楽しむには十分なサイズ感のプールだったそうで、骨組みだけになったプールサイドの日よけとひび割れたコンクリート、そして色褪せたプールの残骸が雑草に覆われてまさに在りし日の夏の遺構となっている。かつてはウォータースライダーなんかもあったらしいけど。

電鉄系の遊園地と言えば、古くは京成の谷津遊園から始まって小田急の向ヶ丘遊園、東急の二子玉川園、西武のせいぶゆうえんち、関西だと近鉄のあやめ池遊園とか南海の狭山遊園地などなど大手私鉄の沿線における行楽客誘致の必須アイテムの一つではありましたよね。レジャーの多様化に伴い、どの電鉄系遊園地も経営不振による閉園や不動産開発の対象になっていて、現在元気なのは京阪が運営する「ひらかたパーク」くらいなもんでしょうか。遊園地がなくなっても、駅の名前にその名を残す香椎花園。駅の改札口に飾られた大きなオブジェが、この駅の賑わいの時代を紡ぐメモリアルブーケ。そのデザインの一部がちゃんとチューリップになっている辺りに、歴史のリスペクトを感じたりするのでした。

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名にしおう 名橋博多の 名島橋。

2024年09月03日 17時00分00秒 | 西日本鉄道

(博多の空から見てみよう@名島橋上空)

西鉄貝塚線は、貝塚を出て次の名島に向かう間に、多々良川に架かる名島橋を渡ります。博多の街の東玄関、博多湾に注ぐ川の河口部分に、海側から国道3号線(名島橋)、博多貨物ターミナルに繋がる臨港貨物線、西鉄貝塚線、そして少し離れてJR鹿児島本線と4つの橋が並びます。飛行機で福岡空港に着陸する寸前、海の中道から博多湾を横切ってJR箱崎駅付近を飛行して行くのですが、ちょうど車窓の左手に名島橋がよく見えるシーンがありました。ここが西鉄貝塚線の随一の撮影地、まずは貝塚の駅から電車には乗らず、徒歩でこの橋の袂まで行ってみることにします。

貝塚の駅から国道3号線に出て、ひとまず名島橋を名島駅側まで渡ってみることにしますが・・・国道の橋からでは間に挟まった貨物線が邪魔をしてしまい、貝塚線の橋脚が上手く抜けません。そして、貝塚線の名島橋は、貝塚側は橋の袂まで家が立て込んでいるし、名島側はちょっとよく分からない雑然とした荒れ地になっていたりして、どこまでが公有地なのか私有地なのかがはっきりしません。いっそのこと、多々良川の岸にでも降りて橋脚の下からでもアングルが組めればいいのですが、この時間はちょうど満潮の時間帯。博多湾から上がって来た潮が川面を満たしていて、川岸に降りられる余地は全くない。あれれ、「名撮影地」なんて言いつつこれは意外に難儀では・・・?となり、橋の上で再度作戦の練り直しをせざるを得なくなってしまった。

ひとまず名島橋を貝塚側まで戻り、マンションの裏手から再度貝塚線の名島橋にアプローチを試みる。貝塚側から橋を望む場所は、公民館の駐車場の一部になっていた。一応公共施設とはいえそのままズカズカと入って行って写真を撮るのも躊躇われるので、玄関前で掃き掃除をしていた施設の人に一声かけて撮影させてもらった。貝塚線の電車は、15分に1本の間隔で走って来るので撮影するのは楽チンだ。貝塚線の名島橋は、1923年(大正11年)に博多湾炭鉱汽船株式会社により架橋された210mのコンクリートアーチ橋で、設計者は阿部美樹志氏。阿部氏は逓信省の鉄道作業局に勤務した鉄道土木技術者で、鉄道構造物の部門では中央本線の東京~万世橋間の万世橋高架橋を手掛けるなど手腕を発揮。日本の鉄筋コンクリート工学の第一人者として活躍した人物だそうです。確かにそう言われると、この低い連続のアーチ橋は、ガード下に飲み屋街の連なるあの東京駅から神田駅にかけての高架橋を彷彿とさせるところがありますね・・・。あちらは万世橋高架橋同様にイギリス積みのレンガ造りに見えますが、鉄筋コンクリートで作ったものにレンガを貼り付けて装飾を施したものなんだそうで。

満潮の時間帯だけに、ドロリと淀んだ多々良川の流れからも噎せ返るような潮の香りが漂っている。今度は河口側へ回り込み、貨物線の橋脚の下から撮影してみる。電車を待っているうちに、頭上をEH500の貨物列車が通過して行った。こちら側が順光になるのはおそらく午後から夕方にかけてなのだが、光線が低くなってくれば貨物線の橋脚に遮られてしまうだろうし、なかなかいい条件が重なることが少ないポイントである。このアーチ橋を設計した阿部美樹志氏は、戦後の1946年には復興院総裁を務めた大物官僚で、その後も貴族院議員や特別調達庁長官など、国家の要職を務め上げた人物でした。阪急電鉄の創始者であった小林一三の知己を得たこともあり、鉄道橋のデザインのほかは、梅田の阪急百貨店や阪急西宮スタジアムの設計などを手掛けています。そう言えば、初代復興庁総裁って小林一三なんですよね。そこらへんはコネクションというヤツなんでしょうか。

いやあ、それにしても暑い。電車を待っているだけでも、自動的に額から大量の汗が噴き出してくるので、タオルでいちいち拭うのも面倒になって来る。陽射しを避けるために貨物線の橋の下でタオルをほっかむりにし、ペットボトルの水をがぶ飲みにしてせめて熱中症にはならないように対策を整える。関東はお盆を過ぎて多少は暑さも収まったような気もしますが、私が九州に行った三日間はまあ天気には恵まれましたね。全国ニュースで福岡の大宰府が連続猛暑日の記録を叩き出した・・・なんてニュースが流れていましたけど、この日の気温も35℃を超える地獄のような暑さ。500mlのペットボトルなんて持ってたってすぐ飲み干してしまうから、コンビニで2リットルの水を買って持ち歩いてました。重いけど、しょうがないのよ。暑いから。

名島橋で何本か貝塚線の電車を撮影していると、貝塚側のたもとにあるラーメン屋の暖簾が上がったようで、続々と駐車場にクルマが集まって来た。地元でも人気のお店なのだろうか。朝も早かったし、暑さに耐えかねて、少しでも涼しい店内で英気を養って塩分補給したいよね!ということで私も暖簾をくぐって九州らしくトンコツラーメンをオーダー。トンコツ・・・と言うと我が家の圏内では圧倒的に家系ラーメンですが、家系ラーメンが豚の脂とか鶏油の味でスープを作っているのに対し、遠慮会釈なく店内に漂うトンコツ臭さをものともせずに、この店はデカい釜でトンコツの骨の味を絞り尽くそうとガンガンにスープを炊いている。活気ある店内をテキパキと動き回る店のおばちゃんたち、お客は多かったが私が頼んだラーメンは大した待ち時間もなくササッとカウンターの上へ「どうぞ、熱いですよ」の声とともに提供されたのでありました。名島橋の店のラーメンは、パツパツの細麺に青ネギとチャーシューだけのストロングスタイル、これぞ九州のラーメンというビジュアルである。スープを啜ると、これぞトンコツ!という感じのケモノ臭さが鼻に抜けて、ああ、九州のラーメンはこれだよなあ・・・となるのであった。

真夏の平日の昼間に、トンコツ臭いラーメンや具沢山のチャンポン麺を啜り、焼きメシをがっつく博多のサラリーマンたち。
ちょっと関東の人はこの匂いにウッとなるかもしれないけど、だからこそ臭み消しの紅ショウガが合うんだろう。これが九州の味であり、土着の香りなんだよな。
ごちそうさまでした。

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お盆を過ぎてボンレッド。

2024年09月01日 11時00分00秒 | 西日本鉄道

(まほうのつえをてにいれた!@「旅名人の九州満喫きっぷ」)

志免の竪坑櫓を後に、再び福岡市街へ戻ろうとバスの時間を調べたのだが、結局市内行きを待つよりも福岡空港行きのバスに乗るのが早いってんで、同じ道をバスで福岡空港へ。ここから改めて九州旅を始めようと思うのですが、まずは地下鉄で博多の駅へ出てこんなものを手に入れてみました。JR九州が出している「旅名人の九州満喫きっぷ」。私鉄・三セクを含む九州のすべての鉄道路線が3日間乗車出来て11,000円という魔法の杖。ちなみに、青春18きっぷと同様、九州新幹線とか西九州新幹線、そして特急列車に乗りたい場合は乗車券+特急券の購入の必要があります。一日あたりで計算すると3,667円/日。18きっぷよりは日数単価が高いのですが、そこは私鉄・三セクを含むことで致し方ないのかなと。ちなみに、割と九州の1日で4,000円弱を乗るのって大変な気がするね。博多-中津で2,140円、博多-別府で3,740円なので、普通列車で中津往復とか、片道なら別府まで行くとかすれば元は取れるのだと思うけど。あくまで私鉄&三セクを絡めてワイドに使わないと、コスト的なメリットは出しづらいかも。個人的には、いちいちワンマン列車で現金精算しなくて済むというのが楽・・・というのと、コスパより「その場の思い付きでなんでも乗れる/降りれる」という感情の自由というかフレキシブルさがいいのかなと。この駅で降りてみたいけど、切符が勿体ないから途中下車できないとか、そういうの本末転倒でしょう。あと、18きっぷと違って有効期間3ヶ月なんですよね。毎月九州に行くわけにも行かないけど、地元民なら小分けに毎月日帰り旅・・・という使い方も出来る。

改めて、博多の駅から福岡市営地下鉄に乗る。福岡の地下鉄に乗るのも随分久し振りだ。福岡市営地下鉄が姪浜〜博多間で開業したのは昭和58年(1983年)3月のことだから、もう開業して40年以上が経過していることになるんですねえ。市営地下鉄の開通にともない、国鉄筑肥線は姪浜~筑前前原までの電化と市営地下鉄への乗り入れを決定。旧来の国鉄筑肥線の一部(博多~姪浜間12.7km)は、途中5駅を含め地下鉄と切り替えられる形で廃止されています。国鉄時代の姪浜~博多間って、中心街の天神や中洲川端を通る地下鉄と比べ、福岡市街を南に大回りしてましたし、毎時1本・朝夕ラッシュ時で毎時3本くらいのいかにも国鉄然としたダイヤで、雑多な気動車がゴロゴロと動いていただけなので、福岡市内の交通に役立っていたか・・・と言われればそうでもなかったんですよね。だいたいの人が姪浜の駅で西鉄の福岡市内線(路面電車)に乗り換えていたそうなので。

博多から中洲川端で地下鉄の箱崎線に乗り換え、福岡市営地下鉄の東端である貝塚駅までやって来ました。ここで接続するのが西鉄貝塚線。今回の福岡旅は、西鉄(西日本鉄道)を中心にした北九州の鉄道を探訪しよう!というテーマをもってやって来ました。初日は、まずは西鉄の中でもスタンドアローンな存在である貝塚線に乗ってみようというわけです。貝塚駅では、地下鉄と同じフロアで対面改札での乗り換えが行われており、乗客の流動は比較的スムーズ。西鉄貝塚駅は、市営地下鉄の貝塚延伸に伴い160mほど東へ移転し、構内の配線も将来的な相互乗り入れ含みのものが設計されたのですが、貝塚線のホーム有効長が3両が限界のため、市営地下鉄の6両固定の編成をそのまま入線させることは出来ず、乗り入れは実現には至りませんでした。計画自体は長年くすぶり続けたものの、西鉄サイドが貝塚線の大規模な投資に及び腰なこと、また新型コロナの影響による鉄道事業の不透明さもあいまって、2021年に相互乗り入れは正式に計画凍結、ということになっています。

西鉄貝塚線の現在の主力車両である600形。令和のこの世で稼働している現役の鉄道車両の中では、かなーりレトロな部類に入ります。製造初年度は1962年(昭和37年)というのだから、既に還暦のオールドタイマー。確かに、この車両を現状で使っていること自体に地下鉄との相互乗り入れをあまり考えてねえなあ・・・という感じはありますね。そもそも2連で天神や姪浜に乗り込んでいくのはちょっとキツいものがある(笑)。もともと貝塚線は「博多湾鉄道汽船」という会社によって開業された大牟田線とは別の路線であり、大牟田線が1,435mmの標準軌に対して貝塚線は1,067mmの狭軌とレギュレーションが異なるのもネックか。昔っから使用する車両は基本的に大牟田線のお古で、それも他の会社から取り寄せた台車へ履き替えして投入したりしているんですよね。長年の懸案事項だった地下鉄乗り入れについても、貝塚線に設備投資するカネがあるんなら大牟田線が先でしょ?という感じだったんだろうし、なかなかこの路線に対する思い切った投資は決断できなかったんだなあ、という雰囲気はあります。

そもそも西鉄貝塚線は、かつては貝塚駅から津屋崎町(現:福津市)の津屋崎駅までを結ぶ「西鉄宮地岳線」という名前の路線でした。西鉄新宮~津屋崎間は、並行するJR九州の鹿児島本線が福岡近郊区間のフリークエンシーの増強を図る中で、JRへの乗客の逸走が慢性化。各駅停車のみで時間がかかり、博多や天神に直接出れない線形もネックだったため、路線の約半分に当たる西鉄新宮~津屋崎間9.9kmが2005年に廃止されています。廃止に伴い、路線名称も「西鉄貝塚線」に変更され、現在は貝塚~西鉄新宮の間の11.0kmを営業する路線となりましたが、地下鉄との相互乗り入れが果たされなかったのも、設備面に加えて津屋崎方面からの乗客減があったのは想像に難くありません。グズグズ考える前に、バブルの勢いのあった1986年の地下鉄の貝塚開業の時点で思い切って設備投資して乗り入れていたらどうだったですかねえ・・・。中洲川端とか天神に直結していれば、間接的にでも西鉄大牟田線と繋がったし、津屋崎方面の住民もJRに鞍替えすることはなかったか。こればっかりは「もしも」の話なので何とも言えんが。地下鉄と西鉄で通し運賃に出来ないところもネックだったということだけど、それは西側の筑肥線+地下鉄だって同じですしね。

西鉄電車の中で、唯一本線筋の天神・大牟田線と接続していない貝塚線ですが、その離れ小島的な立ち位置から、博多を中心とした商業圏の中にありながらローカルなムードも残っていて、前々から気になっていた路線でもありました。名鉄の蒲郡線とか、東武で言えば佐野線とか桐生線とか、大手私鉄にありながらローカル線っぽい立場の路線って大好きなんですよねえ。まあ、西鉄貝塚線はラッシュが10分・日中は15分ヘッドの運行なので、これをローカル線なんて言っては失礼にあたるのかもしれませんが・・・貝塚~名島間にある多々良車庫の横を往く600形。オキサイドイエローにボンレッドの帯をキリリと締めたカラーリングは、かつての西鉄の看板車両だった西鉄2000形の塗色を今に残すそれであります。

少し遅くなったお盆休み、お盆を過ぎてボンレッド。
会いに来ました、博多まで。

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聞け、地底からの叫び。

2024年08月29日 23時00分00秒 | 西日本鉄道

(空港から・・・バスですか?@福岡空港前バス停)

福岡空港に無事着陸し、久し振りに九州の地を踏んだ私。九州って来たのいつ以来かなあ、というくらい記憶がないんだが、少なくとも10年以上ぶりであることは間違いない。福岡空港は博多駅や天神に地下鉄ですぐに出られるのがいいところ・・・なのですが、だいたいの人が地下鉄の入口に吸い込まれて行く中で、福岡空港の1Fフロアから外に出て、私が探しているのはバス乗り場。発車時間も迫っているので横断歩道に立ってる警備のおねーちゃんにバス停の場所を聞いたんだけど、「?」みたいな反応で全く役に立たない。「福岡空港前」というバス停が福岡空港前にないのはどういうことだ、と思ってウロウロと探し回ったら、バス停は到着ロビーからかなり離れた空港南側の公道上にあった。バス停を見付けた時はとっくにバスの時間は過ぎていたのだけど、福岡市内の中心部から来るバスだったのでバス自体も遅れていたようで、なんとか間に合ったのでありました。

福岡空港から西鉄バスの「宇美営業所行き」に乗って約20分。バスはアビスパ福岡の本拠地「ベスト電器スタジアム」のある博多の森陸上競技場を抜け、とりとめもないような福岡市の郊外を走って行く。Googleマップを見ながら窓の外を眺めていると、バスはやがて福岡市を離れ、粕屋郡志免町へ。車内の半分程度の座席が乗客で埋まっていたが、いつの間にか乗客が自分だけになって、「東公園台一丁目」という、住宅街の中のバス停でバスを降りた。

バス停の横の階段を登り、公園の広場に出ると、目の前にどどん!と異形のコンクリートの構造物が、夏の青空に向かってそそり立っていた。パッと見の見た目は、NHKのキャラクターである「どーもくん」のようでもある。ビル?だとしたら下がやたらと空洞で、居住部分が上だとしたらやけに窓が小さく、オーバーハングがついている。まあ、このブログを読んでいる賢明な皆様にはこれがなんであるかくらいはうすうす・・・という感じもあるのですが、この異形の施設の正式名称は「旧・志免(しめ)鉱業所竪坑櫓」。福岡近郊に開かれた旧海軍指定の歴史ある炭鉱であった志免炭鉱。この竪坑櫓は、高さ約50mの巨大な産炭用の構造物で、地上8階に1000馬力の大きな巻き上げ機を備え、地下430mの深さまで通じた巨大な昇降エレベーターの塔屋に当たります。このエレベーターにより大深度の坑道へ炭鉱夫を送り届けたり、採掘された石炭などを地上に運び出したりしていました。

竪坑櫓と、地下の坑道へ入り込んでいく斜坑の入口。明治維新から富国強兵が叫ばれた明治初期。島国であった日本は、欧米列強に追い付け追い越せと軍備の増強に躍起でした。まだ飛行機は軍事力としては計算の立たない時代でしたから、海洋国家である日本は、圧倒的に艦船による海軍力を前面に出して軍備の増強を進めますが、艦船を動かすのは蒸気機関ということで、艦船の製造とともに、燃料である石炭の調達が急がれました。海軍の技師たちが全国にその鉱脈を探る中で、明治20年代に福岡郊外の糟屋炭田に艦船向けの煙の少ない良質な石炭(無煙炭)の鉱床を見つけたことから、この志免の炭鉱は海軍直轄の炭鉱として開発されて行く事になります。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけ、大日本帝国海軍を、そして日本の軍事力を支えるエネルギー源として、志免炭鉱の存在感は一層増していきます。増産による増産の要請に、より深く、より深くとその鉱脈を追い求めて行った志免の炭鉱。この竪坑櫓が出来たのは昭和18年(1943年)のことだそうですが、ようはその頃になると地下400m以上まで掘って行かないとなかなか石炭の鉱脈に当たらなくなっていた・・・ということで、質のいい石炭を掘るための苦労が偲ばれます。それにしても、このレベルの規模の超巨大構造物をいとも簡単に作り上げる当時の日本の技術力たるや。国によるエネルギー政策というものは、今も昔も国家が存立するための最重要案件だと思うのでありますが、国家規模のインフラというものは、時にとんでもない土木構造物を後世に残すよなあ。

戦争が終わり、海軍の持ち物から国鉄の所有になった志免炭鉱。お隣の直方の貝島炭鉱とともに、終戦後のエネルギー不足に悩む国鉄へ石炭を供給し続けました。朝鮮戦争による特需に沸いた戦後の復興期を経て、昭和31年あたりが戦後の出炭量のピークだったようですが、そこからは急速に進む石油へのエネルギー転換に伴って石炭の時代は終わりを迎え、あっという間に昭和39年(1964年)に閉山に追い込まれてしまいました。海軍の直営から、戦後は国鉄の直営炭鉱となった志免炭鉱は、70年余りを一貫して国営の炭鉱としてあり続けた珍しいヤマでありましたが、実は閉山に至るまでに「国鉄から民間への払い下げ」というものが何度も何度も画策されたのだそうです。ただ、そのたびに民間払い下げによる待遇面や条件面の悪化を嫌う労働組合の強く苛烈な反対闘争に阻まれ、上手く行かなかったのだと聞きます。その首謀者こそ、当然ながら国鉄の労働組合なのでありました。

閉山から既に60年。未だに撤去された内部の機器以外は、ほぼ現役当時の姿をとどめている志免の竪坑櫓。今でこそ国の重要文化財に指定されてはいますが、閉山からしばらくは手がつけられず、完全に持て余して放置されるがままの状態だったそうです。地元の志免町としてはさっさと取り壊して跡地を再開発したいという思惑もあったようなのですが、当時の最高レベルの技術で作られているためか、思った以上に頑丈で、壊すにもカネがかかるしどうにもならなかった・・・というのが本当のところだったらしい。時が過ぎ、筑豊の炭鉱施設が「産業遺産」として見直されて行く中で、この志免の竪坑櫓も文化財としての再評価の機運が高まって現在に至る、という訳です。確かに修繕はされてもいるのだろうけど、目立った剥離やひび割れとか鉄筋の露出とかもないんですよね。丈夫に出来ててよかったねと思わずにはいられません。

地元の人の中では、閉山に至るまでの激しい労働争議なんかでつくづく嫌気が差したこともあって、「とにかくこんなバカでかくて何の役にも立たない竪坑櫓なんかさっさと潰してしまえ!」という意見も少なくなかったそうで。それは、生きて行くために命を削って過酷な労働環境に身を投じた炭鉱夫とその家族たちの怨嗟だったのかもしれないし、あっという間にエネルギー政策の転換で仕事を追われた無力感だったのかもしれないし、炭鉱町にありがちな差別や貧しさだったりの負の遺産を断ち切りたい!という切なる思いがあったのかもしれない。筑豊や筑後に関わらず、石炭産業ってのは、当たり前だけど苛烈な労働環境とか、親方衆による搾取の歴史だとか、戦前戦中の朝鮮の人々の使役だとか、落盤事故や炭塵爆発とかガス爆発みたいな災害も枚挙にいとまがなく、どっちかっていうと、あまり明るい話だけでは終わらない「負」の部分の多い産業遺産でもありますよね。

久し振りに九州に来て、最初に見に行ったこの施設の重みみたいなもの。
ああ、そう言えば、九州っていうのも、割とそういう「国策」に振り回された土地だよなあ、という思いを新たにする。
この竪坑櫓は、地中深くに消えて行った炭鉱夫たちの声なき声を、今も地上の我々に届けています。

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