(老兵、黙して・・・@会津高原尾瀬口駅)
始発電から線内列車として2往復、少々のインターバルで会津高原尾瀬口に佇む6050系。ちょうど浅草からやって来た500系リバティ会津が到着して、雪の山里に里帰りのお客さんと少々のスキー客が下車して行きます。会津高原尾瀬口の駅は、今でこそ電化されて南会津と首都圏を繋ぐルート上にありますが、かつては国鉄会津線の会津滝ノ原という名前の寂しい終着駅でした。会津若松から会津田島までの開通が1936年(昭和9年)、そして滝ノ原まで開通したのが1953年(昭和28年)のこと。駅前を流れる荒海川の上流に、八総(やそう・はちそう)銅山という黄鉄鉱を産出する鉱山があって、戦後は住友金属鉱山によって開発され、ここから産出される鉱石を運び出すために鉄道が敷設されたのだそうです。
かつては浅草から会津田島まで、東武・野岩・会津の三会社を股にかけ、東京埼玉群馬栃木福島と五県の境を跨いだ長距離ランナー。2×2×2の6連で颯爽と北関東の荒野を駆け抜けていた時代はそんなに昔のことではないと思うが、もう会津快速が消滅してから7年が経過しているらしい。野岩鉄道に残された6050系の最後の末裔2編成、それまでは東武鉄道の新栃木検車区に所属して、東武鉄道や会津鉄道持ちの同形式と共通運用で使用されていました。現在通常の点検業務では新栃木の研修区に入ることはなく、野岩鉄道の管理に任されているようです。大掛かりな全般検査などでは野岩ではカバーしきれないので実費を払って東武にお願いすることになるのでしょうが、車体には錆や塗装の剥離などが目立ち、正直満身創痍・・・。塗装が割れて下地が出てしまった部分をラッカーのようなもので応急処置しているのを見ると、寒冷地で鋼製車を使うのってなかなか管理が大変だなあと。
凍てつくホームから車内を覗けば、暖かな臙脂のモケットは変わらない。あの窓際のテーブルに、お弁当や酒やカワキモノを並べて乗るのが6050系の楽しみの一つだった。最近は、車内で物を食べたりあまつさえ飲酒なんてとんでもない!みたいな風潮が過半を占めるようになってきたが、それは東京~名古屋が1時間半程度の時代に「そのくらいも我慢できねえのか!」ということなのかなとも思うし、省力化による車内販売の縮減などにも表れているのかもしれないし。でも、そういう風潮というものは「個の意見」が「みんなの意見」にいつの間にかすり替わってしまう時代の後押しもあったような気もするよね。会津快速時代は浅草から会津田島まで3時間20分。区間快速だと4時間弱くらいかかっていたので、そりゃ何か食べたくもなるし、飲みたくもなるし、トイレにも行きたくはなる。
特急列車から下車したお客が散り散りバラバラに消えて行き、ひとしきりの賑わいもあっという間に消え去った静かな会津高原尾瀬口のホーム。現在のところ9:59発の316レ鬼怒川温泉行きは、会津田島からの列車を受けることもなく単純に野岩鉄道の中で折り返していくダイヤになっていますが、3月改正以降は、この列車が会津田島始発に改正されます。建設当初から、観光開発という観点からは期待もあった野岩鉄道ですが、どちらかと言えば沿線人口の流動期待というよりは栃木北部~南会津地方の交通ネットワークを形成して、ひいては首都圏と会津地方のアクセス改善に資するというのが主目的だったはずなので、このダイヤ改正は当初の目的に沿った原点回帰への取り組みと言えるものです