tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

天誅組史跡公園(東吉野村鷲家)で、松本奎堂(けいどう)を偲んでください

2020年04月05日 | 観光にまつわるエトセトラ
今朝(2020.4.5)の奈良新聞に《天誅組が育む交流 東吉野の松本さん「史跡公園」を整備 奎堂を顕彰、紹介板も》という記事が出ていた。リード文には、


松本泰明さん。写真はすべて、東吉野村前教育長の阪本基義さんからお送りいただいた

文久3(1863)年に最初の武力討幕を企て、明治維新のさきがけになったとされる天誅組が、幕府軍と戦ってついえた東吉野村鷲家(わしか)で、同地の林業家松本泰明さん(77)が家族友人らの協力を得て「天誅組史跡公園」を整備した。誰でも自由に出入りできる広場で、村内外の交流を育んでいる。



詳しくは記事本文をご覧いただきたいが、この公園敷地は松本泰明さんの私有地。愛知県刈谷市出身で天誅組総裁の1人・松本奎堂が紀州藩の銃撃で戦死した山への登り口にある。刈谷市の旧国民学校が昭和17年に石碑を立てていた。松本さんは平成15年頃にその近くに石灯籠を設置、一昨年は奎堂戦死地までの山道を切り拓き、道標を立てたそうだ。



松本さんは奎堂と同姓だが血縁はなく、天誅組の話は祖父母などから聞いていたという。「激戦の後、集落一帯には死体が散乱し、片付けるのが大変だったという」(同紙)。松本さんは東吉野村前教育長・阪本基義さん(76)の講座などで、天誅組の歴史などを学んだという。昨年6月には阪本さんが揮毫して100年生の杉板に奎堂の人物紹介板も立てた。一部を抜粋すると、



この谷の頂上、伊豆尾笠松に天誅組三総裁の一人松本奎堂と従者・村上萬吉の戦死の地碑が建てられている。松本奎堂は三河国刈谷藩士で、文久三年の「天誅組の変」で当地で戦死した。奎堂は、松本奎堂は天保二年(一八三一)十二月七日 、刈谷藩用人(家老に次ぐ高位の藩士)松本印南の二男として刈谷城丸の内に生まれ、少年の頃より抜きん出でた秀才として知られていた。



文武に秀でていたが、18歳のとき、槍の稽古中あやまって相手の矢先のたんぽがはずれ、左目を貫いた。奎堂は流血する左目を手で押さえ、豪胆にも『片目でも結句眺めの吉野山』と吟じた。(この奎堂は吉野山の露と消える自分の最期までは知る由もなかったであろう。)



天誅組の総裁の一人として挙兵したとき、その軍令書を起草、その純粋にして無私、格調の高い軍令書の存在が天誅組の評価を更に高めていると云っても過言でない。朝幕による追討軍と転戦中、十津川陣営にてついに両目を失明、駕篭にて移動中、9月25日、奎堂は東吉野の奥深く伊豆尾の山中で、三河出身の従者、最期まで影のように付き従った村上万吉と共に紀州藩軍勢の銃弾の雨の中に死んだ。



奎堂の遺詠『君がため命死にきと世の人に語り継ぎてよ峰の松風』。東吉野の伊豆尾の峠には奎堂主従の碑が並び、松の木に風がそよぎ、主従の果たせなかった夢を今に伝えている。(刈谷頌和会「天誅組一四〇年資料」より)


刈谷市の小学生は、平成26年度から令和元年度までの6年間で、市内全15校が修学旅行で東吉野村を訪れたという(昨年度で一旦終了)。ぜひ皆さんも「天誅組史跡公園」(東吉野村大字鷲家)をお訪ねになり、天誅組の志士たちに思いを寄せていただきたい。

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