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修験道は、「脳化社会」へのアンチテーゼ

2023年10月20日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「大自然の非日常に浸かる山修行」(師のブログ 2014.9.13 付)、『体を使って心をおさめる 修験道入門 』(集英社新書)』のP139以下の抜粋である。
※トップ画像は、養老孟司著『唯脳論』(ちくま学芸文庫)

当ブログのタイトル〈修験道は、「脳化社会」へのアンチテーゼ〉は、私がつけた。師は「大自然=山修行=非日常(ハレ)」と「人工物に囲まれた都会生活=日常(ケ)」を常に対比される。ふと「これは、誰かも言っていたな」と思いだし、本棚にあった養老孟司著『唯脳論』を取りだしてみた。おお、あるある、利典師と養老氏は、表現を変えて同じことを言っているのだ。

『唯脳論』の裏カバーには、〈文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、そして心…あらゆるヒトの営みは脳に由来する。「情報」を縁とし、おびただしい「人工物」に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住む〉。その昔、ヒトは自然の洞窟の中に住んでいた、それが今は脳の中に住んでいるのだ。

人工物ばかりの都会は「脳化社会」つまり、すべて脳が作り出した社会だ。極端に言えば「世界は脳の産物である」。これに対するアンチテーゼが「身体=自然」(自然の世界)である。

養老氏が、「画期的名著」と言われる『唯脳論』を青土社から刊行したのは1989年だが、役行者の昔から、修験道はそれを知っていた。身体を酷使する厳しい山修行(非日常)により、脳化社会のなかで抑圧されてきた「身体感覚」を取り戻し、心を整えて再び脳化社会(日常)に戻っていく。今の脳化社会を見通していたとは、修験道はスゴイ! 前置きが長くなった、師の全文を以下に紹介する。

「大自然の非日常に浸かる山修行」
少し想像力をはたらかせてイメージしてみていただきたいのです。大自然の山の中を修行するとは、どんなことなのか。

山の中は、電気もなければ水道もない。道にしても、古来より踏みしめられた歩きやすいところもありますが、場所によっては「ここ以外に足場がない」というような、木や岩などにつかまりながらようやく通れる難所もあります。むせ返るほどの植物のにおい、土のにおい、森が抱える生物の息づき。雨がふれば濡れ、風が吹くままになびき、朝日がのぼれば明るくなり、夕方、陽が沈めば暗くなります。

どうでしょう。私たちがいま、暮らしている日常生活とは、大ちがいでしょう?

農業や漁業などの第一次産業に従事されている方は、山の修行の世界とある程度近いような、自然とふれあう日々かもしれませんが、オフィスなどに勤める方々の生活は、もっともっと非自然的で、あらゆるものがコントロールされた環境下だと思います。

車や電車で通い、電気のあるところでパソコンや機械を使って仕事をする。室内の温度も、たいがいは適切な温度に調節されています。あたりまえのように携帯電話やタブレット端末で通信し、あふれかえるような情報量の中で仕事をこなし、家に帰ればテレビや電子レンジを使いこなす。自然にふれ合う機会どころか、自然な陽の光の変化さえ感じにくいままに一日が過ぎていきます。それを日常とする現代人にとっては、大自然が非日常です。

大自然の深山幽谷をひたすら歩き、自然に浸りながら自分という生命を感じるひとときでは、「自分」というものの使い方が変わってくるとさえ言えるのではないか、私はそう感じます。
ー田中利典著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)より
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