澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

NHKの体質を暴露~BPO委員会の意見公表

2009年04月29日 07時40分15秒 | マスメディア

NHKが8年前に放送した「戦争をどう裁くか」という番組は、ある”市民グループ”が天皇の戦争責任を模擬法廷で裁くという内容から大きな問題に発展した。その過程で、NHK幹部と政治家との接触があったかどうかがクローズアップされ、「報道の自由」が侵害されたかどうかが争点となっていた。

BPO(放送倫理・番組向上機構)の委員会は、「NHKの幹部が政治家に会ったり、改編を指示したりしたことは放送の自主・自律を危うくする行為であった」という意見を公表した。だが、それに対するNHKのコメントは、まさに噴飯ものである。
「放送した番組は、政治的圧力で改変されたり、国会議員の意図をそんたくした事実はありませんが、放送前に番組内容を国会議員などに説明することは無用の誤解を与える可能性が否定できず、いっそう留意していきたいと考えています。」
これは、お役所かどこかで聞いたような無責任な言いぐさだ。

4月5日に放送されたNHKスペシャル「アジアの”一等国”」は、上記の「戦争をどう裁くか」などとは比較にならないほど、重大な事実誤認や歪曲に満ちた番組だった。これに対し、自民党の中山成彬氏(元・文部科学大臣)などが、抗議を申し入れている。
「アジアの”一等国”」については、放送前に政治家が関与した事実はなく、TVを見た人たちがあまりの内容に抗議したというのが実情である。
であるので、中山氏や心ある人たちは、ぜひ、上記のBPO(放送倫理・番組向上機構)に当該番組がNHKの「公平性、中立性」を阻害し、特定勢力に加担するものだとして、提訴していただきたい。
評論家の勝谷氏もこのことを主張していた。

 

【BPO・放送倫理・番組向上機構の意見書にたいするNHKの見解】

NHKが8年前に放送した教育テレビの番組「戦争をどう裁くか」について、BPO=「放送倫理・番組向上機構」の委員会は、番組の制作過程で「NHKの幹部が政治家に会ったり、改編を指示したりしたことは放送の自主・自律を危うくする行為であった」とする意見を公表しました。

BPOの放送倫理検証委員会は、NHKが平成13年に教育テレビで放送した番組「戦争をどう裁くか」について、ことし1月から放送倫理の面から審議を進め、28日に意見を公表しました。この中で、委員会は「番組制作部門の幹部が、放送前に有力政治家と面談し改編指示を行ったことや、国会担当の局長が制作現場の責任者に改編を指示したことは、公共放送にとって最も重要な自主・自律を危うくし、視聴者に重大な疑念を抱かせる行為だった」と指摘しました。また「こうした改編によって、番組の質よりも安全が優先され、番組は完成度を欠き散漫になっていった」と述べています。これについて、NHKは「放送した番組は、政治的圧力で改変されたり、国会議員の意図をそんたくした事実はありませんが、放送前に番組内容を国会議員などに説明することは無用の誤解を与える可能性が否定できず、いっそう留意していきたいと考えています。『番組は完成度を欠き散漫』などと評価されたことは残念で、放送倫理上の観点から番組の質を論ずることに強い違和感を覚えます」というコメントを出しました。


【「アジアの”一等国”」に疑問をもつ方は、ぜひ、この番組を】

《米国から見た日本の台湾統治》

 


宮原永治さんに旭日単光章~台湾人日本兵の終わらない戦後

2009年04月29日 06時51分15秒 | 台湾

インドネシア残留日本兵である宮原永治さんに旭日単光章が授与される。
宮原さんは台湾人で、日本兵として東南アジアの戦線で戦った。終戦後、国民党に占拠された台湾に戻ることなく、インドネシア独立戦争に参加し、その後インドネシア国籍を取得した。
「日本人」兵士として戦ったはずの宮原さんは、日本の敗戦後、突然国籍を変えられた。「台湾に戻ると、敵だった国民党に処刑されるかもしれない」と考えたのも当然のことだ。
日本政府は、こうした台湾人日本兵士に対して十分な処遇をしてきたとは言えない。
今回の叙勲は、その意味で大きな意義がある。もう残された時間は少ない…。

インドネシア残留日本兵、宮原永治さんに旭日単光章

 【ジャカルタ=矢野英基】第2次大戦後、インドネシアに残って対オランダ独立戦争に参加した宮原永治さん(89)が29日、春の叙勲で旭日単光章を受ける。残留日本兵の互助組織の運営に携わってきたことが評価され、「こんな栄誉をもらえるとは夢にも思わなかった」と話す。

 宮原さんの現地名はウマル・ハルトノ。日本統治下の台湾で生まれ、従軍してフィリピンなどを転戦後、インドネシアで敗戦を迎えた。「台湾に戻ると、敵だった国民党に処刑されるかもしれない」と考えインドネシアに残留。約900人の日本兵とともに独立戦争に参加した。半数以上が戦死し、約300人が独立後のインドネシアに残った。

 その後、日本の商社で仕事を見つけたが、生活に困窮する戦友が続出。79年に情報交換と助け合いを目的に107人の元日本兵で「福祉友の会」を結成した。元日本兵は宮原さんを含め4人だけになったが、遺族らが会を支え、会報の発行などを続けている。

 福祉友の会で顧問を務める宮原さんは、インドネシア人の妻との間にできた三女とその夫との3人暮らし。「インドネシア人は裏表がなく、親しみやすい。国内には資源も多く、将来は立派な国になる」と信じている。