【美しい化粧箱に入った 本場中国の月餅】
妻の実家へは、お盆前の墓参りから2ヶ月ぶり、楽しい夕食を囲むことが出来た。
我が家の挿し芽で根付いた黄色いバラ苗と白の小菊の株を土産にした。
翌朝、互いの健康を祈りながらお暇した。豊科ICから高速に乗る前に、義姉宅を訪ねた。
甥の幸司君は8月に3年ほどの予定で中国に行ったばかりだったが、丁度帰国していた。中秋節の休みが長いようだ。
10月3日、中秋節は日本の中秋の名月に当たる祝いの行事だ。お土産のお菓子月餅をいただきながらしばし中国談義に花が咲いた。現地の様子をいろいろ伺うことが出来た。
中国では伝統的な祭日にゆかりのある食品がたくさんあるらしい。たとえば元宵節の元宵、端午節のちまき、重陽節のむし餅などで、中秋節の伝統的な食品が月餅だそうだ。月餅は形が圓型で、団圓(団らん)を象徴し、一家団らんという人々の願いをあらわしており、このためまたの名を「団圓餅」とも呼ぶ。
ご馳走になった月餅は実に豪華だった。何種類かの月餅が、見たこともないきれいな化粧箱に入っていた。中秋節の時だけに登場する「中秋月餅」だ。いつか横浜中華街で土産に買ったものとは比べものにならないボリュームだ。小さく切ると、月餅の真ん中には何か硬い丸いものが入っていた。味はチーズのようだが見当が付かなかった。あとでネットで調べたら、あんの中は月をイメージした「蛋黄(たんふぁん=アヒルの卵を塩漬けにしたもの)」らしい。はからずも中国の伝統の味を楽しむことができた。
昼近くまでゆっくりお茶をご馳走になり、丁度12時、豊科ICから高速道長野自動車道に乗った。 10/5
【安曇野市明科付近からの 常念岳】
妻の実家へは、お盆前の墓参りから2ヶ月ぶり、楽しい夕食を囲むことが出来た。
我が家の挿し芽で根付いた黄色いバラ苗と白の小菊の株を土産にした。
翌朝、互いの健康を祈りながらお暇した。豊科ICから高速に乗る前に、義姉宅を訪ねた。
甥の幸司君は8月に3年ほどの予定で中国に行ったばかりだったが、丁度帰国していた。中秋節の休みが長いようだ。
10月3日、中秋節は日本の中秋の名月に当たる祝いの行事だ。お土産のお菓子月餅をいただきながらしばし中国談義に花が咲いた。現地の様子をいろいろ伺うことが出来た。
中国では伝統的な祭日にゆかりのある食品がたくさんあるらしい。たとえば元宵節の元宵、端午節のちまき、重陽節のむし餅などで、中秋節の伝統的な食品が月餅だそうだ。月餅は形が圓型で、団圓(団らん)を象徴し、一家団らんという人々の願いをあらわしており、このためまたの名を「団圓餅」とも呼ぶ。
ご馳走になった月餅は実に豪華だった。何種類かの月餅が、見たこともないきれいな化粧箱に入っていた。中秋節の時だけに登場する「中秋月餅」だ。いつか横浜中華街で土産に買ったものとは比べものにならないボリュームだ。小さく切ると、月餅の真ん中には何か硬い丸いものが入っていた。味はチーズのようだが見当が付かなかった。あとでネットで調べたら、あんの中は月をイメージした「蛋黄(たんふぁん=アヒルの卵を塩漬けにしたもの)」らしい。はからずも中国の伝統の味を楽しむことができた。
昼近くまでゆっくりお茶をご馳走になり、丁度12時、豊科ICから高速道長野自動車道に乗った。 10/5
【安曇野市明科付近からの 常念岳】
マッチャンは青春を信州で過ごされたことは知りおよんでいましたので、松本の信大だと思っておりましたが、上田なんですね。繊維学部は信大の花形で優秀でなければ入れなかった時代でしたね。私の同級生も信大の繊維学部を二浪してやっと入りました。卒業後、東洋紡の研究室で何か専門に研究していたようです。
そーなんです。上田で6年間、世話になりました。
今回久々に昔居たところへ行きました。
太郎山の麓、昔りんご園の細い道は広いバイパスに変わり、高速道も通り、チョウを観察していた沢などはすっかり無くなっていました。
寂しい限りでした。
よき時代に青春を過ごせたと、つくづく思っています。
懐かしく思い出しました。
仕事で、中国は何度も行ったのですが、丁度この時期にあたり、
休みの前に仕事を終えてほしいと・・・
なんとか終えて、空港に来ると売店には、月餅の山でした。
そういえばホテルでもたくさん売ってました。
土産は買わない主義なのですが、買って帰りました。
中国だけでなく、年間、100日の出張の日々でした。(だから、定年後の慰留を振り切ったのですが・・・ 笑)
自動車関係が多く中京地区が多く、篠ノ井線で、明科は毎月何回か通りました。
常念岳懐かしいです。
見せてもらっています。
いろいろと読ませていただいている間に、どうやら
貴方の出身大学は、東京農工大と私の在籍校との3大学で
合同合宿練習を信州上田で行った時の大学のようですね。
最終日にはみんなで浅間登山をしました。
懐かしい話し思い出しました。
私は剣道部でしたが、当時3繊維といい、京都の記憶はありませんが、東京農工大へは試合で行った記憶があります。上田の武徳殿では試合のあと、余興で「川中島」の詩吟を吟じたことなど思い出しました。
皆、遙かな懐かしい青春の思い出となりました。
あちらこちら飛び回る、大変なお仕事でしたね。
篠ノ井線、今もそう呼んでいるんですね。
姨捨の田毎の月を眺めながら走った、のんびりした時代が浮かびます。
あの写真は明科の姉の家からとったものです。