今度の入院中、一度病院から遠く離れた我が家に戻った妻が、枕元にあった文庫本を数冊持ってきてくれた。その中に司馬遼太郎の「街道をゆく」の「奥州白河・会津のみち」があった。
はからずも、しばらく忘れていた幕末・会津の悲劇を考えることとなった。
そしてまた、肯えないこの幕末の時の流れ、歴史の一コマに切なさが込み上げてきた。
学僧・徳一のこと、戊辰戦争の悲劇のこと。会津の精神風土について、そして悲劇の会津藩について等々。
斗南藩、柴五郎については「ある明治人の記録」(*)の次の一節を記している。
『いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして 齢すでに八十路を越えたり。』
そらんじている文をつぶやいた。
百数十年前の、こうした希有な歴史を持った会津に生きる自分を思った。あらためて、心の底から、会津の被った悲劇を忘れてはならないと思った。
*) 【拙ブログ 2006.7.15 【映画「バルトの楽園」を観る】
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昔のエッセイより
「郷土の思索の旅をしたい」
昨年末、司馬遼太郎の風土と人間を見つめる思索の旅「街道を行く」がテレビ放映された。「奥州白河、会津のみち」の映像化だが、
時折会津の歴史を反すうしたい思いにかられ読み返していた。
そこでは幕末の会津人の切ない想いが語られ、許せない長州の仕打ちや歴史の残酷さ、そして何よりも会津がよく語られていた。テレビの演出も原典の通りで、この如何ともしがたい運命の歴史が美しい会津の山河をバックに見事に表現されていた。ビデオに収め、柴五郎と彼の少年期、斗南の地での飢寒、貧窮さらには屈辱的生活を繰り返し見た。そして長州の人々がこの映像をどう見て、何を感じたであろうかと考えた。
生まれ育った土地がすべての思索の基盤のような気がする。つまり、司馬遼太郎の会津への同情心が、自分の中では郷土愛や涙なのかもしれないと思った。あらためて自分に影響を与えた郷土の思索の旅をしたいと思う。 (1999.2)
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