中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

漂流するオジサン

2009-12-05 12:30:15 | その他
 齢(よわい)40も後半に入っているボクだが、自分が着るモノに関しては、デザインよりも「優先するのは高機能だ」とばかりに、夏であればダクロンQDなどの即乾素材、冬であればポーラテックなどの保温素材、アウターウエアはゴアテックスなどの防水透湿素材と、アウトドア・ウェアーのコーナーで、裏タグの素材表示を確認するのが第一の商品選びをしている。だから世間の流行なんて全然知らないし、既に「そんなこと、どうでもイイ」と思っているところがある。
 あれほど好きだった車も、今では自分の趣味に対して「どう機能を発揮してくれるか?」という実用面が第一で、外観は二の次になっている。
 そんな暮らしをしているし、若い世代との交流も皆無に近いので、刺激も受けない。だから、振り返れば自分が世間に取り残されている感が多少なりともある。だが、それは自分のライフスタイルなので、そんなに気にはならないが、たまたま交わした言葉や、見かけた文章の中に「アレ~、いつの間に…。」と違和感を感じることが近頃多い。

 先日、息子が「コレ、食べれる?」って感じの言葉を使ったので、「ちゃんと『食べられる』と言いなさい。」と注意をした。
 すかさず子供から「『ら抜き言葉』でしょ?」「それってウンヌン、カンヌン…。」小学生でも高学年ともなると、完璧に言い返してくる。どうやら彼の話では「今では話し言葉はOK」と、学校でも認められているということらしい。コッチの感想としては「いつの間に?」という感覚だ。
 「その使い方、子供っぽいから止めといた方が…。」と言おうとしたところで、女房に先を越されて言われてしまい、振り上げた拳の降ろし場所に困ってしまった。

 ボクの記憶の中では確か子供の頃には、それが可能かどうかを指す場合、「『食べれる』ではなくて『食べられる』、『見れる』ではなくて『見られる』に直しなさい。」と各方面から注意されたような気がする。
 それを受けて子供心に、その「ら付き言葉?」の方が「大人の言葉」という感覚があって、「ら抜き言葉」に幼児性を感じていた様な気がしていた。そして、今でも実際に原稿を雑誌やブログに出す際には、ほぼ100%の確率で「ら」を付けていると思うし、周囲につられて使ってしまいそうになる会話時にも、そうならないように極力気をつけているのだが…。

 今更ながら調べてみると、「ら抜き言葉」には賛否両論が渦巻いているようだが、概ね息子の言うとおりで、文法的には間違っているから、書き言葉としてはペケだが、話し言葉としては一般的に既に普及していることもあってマルという感じだった。(折衷案のようで釈然としないが…)
 オモシロいのはTV局の解釈だ。ここ近年のTV番組では、発言に合わせて字幕スーパーを入れることがよくあるが、注意して観察していると、発言者が「れる」と言っていても、字幕スーパーではちゃんと「られる」に修正されてるのをよく見かけるのだ。このことも上記の折衷案が正しい裏付けになるだろう。

 もはや「ついて行けないオジサン」になったボクの違和感はコレに留まらない。
 たまたま覗いたブログやホームページの中にも見かけるし、オークションで相手とのやり取りをする際、若い(実際にはコチラが勝手にそう感じているだけだが)人の内、2割くらいは「こんばんは」「こんにちは」を「こんばんわ」「こんにちわ」と書いてくるが、コレも、もはや一般化しつつあるのだろうか?。ボクらの時代には、これが覚えられないヤツはバカにされたので自然とマスターしたが、近頃は、そうはならないのかな?。今はオバカ・ブームの終わりかけ?だと思うが、その流れやシャレでワザと使っているのか、活字媒体を読まない世代は「音」で判断するから、使い分ける必要がないと思っているのかは知らないが、せめて「面識のないオジサンの前では使うな!」とは言っておきたい。

 ここ近年で何度も採り上げられ、やや語り尽くされた感もあるが、コンビニのレジなんかで現金を支払う際に交わされている「~円からでよろしかったでしょうか?」というのを聞くと未だに居心地が悪い。こういうのを「バイト敬語」と言うらしくて、今ではかなり種類が増えているようだ。しかも驚くことに既に世間ではその多くが認められつつあるそうだ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%88%E6%95%AC%E8%AA%9E
 多分、コレは客が財布から出した、例えば1000円に対して、「この金額を元に精算しても良いのでしょうか?」であったり「この他に、お手持ちの細かい金額の硬貨はないのでしょうか?」の確認の意味で言っているのだろうけど、それならばもっと簡単に「1000円でイイですか?」と言えば済むのに、一見(聞?)丁寧を装っていながら、変な言い回しをされるのは非常にキモチワルイ。コンビニ本部には接客をアドバイスするスタッフも居るだろうに、今のように広まる前に注意をしなかったのが不思議に思う。
 「1000円からで、よろしかったでしょうか?」と言われた際に「金をもらったのはオレからだろ~が!」「ということはオレは1000円なのか?」と、屁理屈的なツッ込みを入れたくなるのはボクだけでは無いと思うのだが…。

 「和製英語」的な使いまわしの中にもついて行けない言葉は山ほどある。
 例えば「カリスマ美容師」というくらいだから、織田信長やヒトラー、もしくはスターリンのような他を圧する雰囲気を持ち、カットやパーマの仕上がりに対して、こちらから注文をつけようものなら、「生きて店からは出られない」みたいに「苛烈な人」が出てくるのかと思っていたら、ただ単に手先が器用な兄ちゃんであったり、「ア・カペラで歌います。」と言うからには、教会音楽がベースになったコーラスの綺麗な無伴奏の音楽を想像していたら、ヘタクソ一人が伴奏無しで歌っているだけだったりする。また、とても芸術的とは思えない歌唱力なのに「アーチスト」とはどういうことなのだろうか?。ついでに言うなら「焼き肉のタレ」を「漬けて焼いて、また漬けて」しながら食べているのにバーベキューとは…。
 外国語を日本語に組み合わすのは、言葉にある種のイメージや響きを加える為なのだろうけど、使い方を間違えると、その言葉を母国語とする人達が聞けば、我々が時々外国人のイレズミを見て笑ってしまうような=例えば二の腕に「足」と彫っているのを見た時のような感覚と同じように「カッコ悪~」と思われているのだとしたら、何だか恥ずかしいので、ボクだったら使うのをためらうのだが…。オジサンにとって、この手の感覚は本当にワケが解らん。

 日本語の乱れは近年に始まったことではなく「枕草子」の時代には既に若者の、言葉の乱れを嘆いていたらしいから、仕方のないことなのかも知れない。それに我々の世代も同様にオヤジ達に嘆かれていたに違いないから、この「悶々感」は自分がオジサンになった何よりの証拠なのだろう。
 元より、何かの調査の際に「お住まいは、どのようなタイプですか?」と聞かれると、豪邸でもないのに「マンションです。」と、つい答えてしまうボクには文句を言う権利はないのかな?…。
 世間に取り残され、漂流している内に、やがては浦島太郎を経て、最終的には道を歩けば子供達が逃げ出すような、嫌われジジイになる予定のオジサンの愚痴?だから、右から左に聞き流してもらって結構でゴザイマス。


                             ……オマケ映像……

        愚痴にお付き合いいただいた御礼に、今年のベスト・ショットかな?を…~有馬周辺にて
              (ただし、高解像版を載せられないのが残念なところだけど…。)