■靖国神社へ■
このブログでも「学校では誰も教えてくれなかった『近代史』」については何度も触れているが、そういった近代史を知る上で避けては通れない靖国神社へ向かった。

そもそも、ウチの家系からは祖母の兄(母の叔父)が商船学校経由で海軍に入り、戦艦比叡に乗艦して戦死し、その弟(同じく母の叔父)は海軍兵学校(70期)経由で海軍に入り、特殊潜行艇(特攻兵器ではない小型の潜水艦)で出撃して戦死しているから、戦死者が祀られている靖国神社とボクとの間は全く無縁というわけではない。従って、その2人に対しての「お参り」という意味もあった。
しかし、それ以上に知りたかったのはこの神社についての実感だった。
この神社に対しての解釈については、様々な意見が渦巻いているのは日本人であれば誰もが知っていることであろう。しかし、それらを伝え聞いたところで、所詮は他人が行って感じた話であり、中には行ってもない人達の話であったりするので、ボクとしては実際に自分が行って見て感じたことで判断をしたい。それがあっての行動だった。
白熱した議論を見る中で勝手なイメージが膨らんでいたのか、境内に着く前は、はっきり言って怖々(こわごわ)という感覚もあった。しかし実際は、戦前まで国が管理していたせいか、境内の大きさには驚くが、それ以外は普通の神社と何ら変わったところもなく、至って普通であり、静粛な空気が流れたいた。
最も、これは普段の日だからであって、8月15日の終戦記念日や祭事があるときは違った様子になっているということらしい。

拝殿前に立つと、何となく「ピーン」と張りつめた空気感を感じ取っていたが、これは上述したイメージからくるモノなのか、単にボクが日本人だから感じるのかは判らない。
■遊就館へ■
参拝を済ませた後は、隣にある資料館兼、博物館の「遊就館」という施設を訪問する。

「武」がテーマだけあって中には日本書紀の時代から大東亜戦争(太平洋戦争)までの「戦」についての展示物が並んでいるが、各戦地から収集した実物の兵器類も展示されている。

「遊就館」を訪れた人にとって一番印象深いのは大東亜戦争(太平洋戦争)、それも「特攻隊に関する展示だ。」とよく言われている。特に隊員達が残した遺書や、嫁ももらわず若くして死んでいった息子のために親たちが寄贈した花嫁人形を目にした際は、ボクもそうだったが思わず落涙してしまう人が多いと思う。
しかし「九死に零生」と言われ、「花と散る」と謳われた特攻でなく、通常戦闘の中であっても、生存率が限りなく0に近い作戦が多かったことを今を生きる人達に理解してもらいたい。例えば、特殊潜行艇乗りだった母の叔父のように、一旦出撃すると、ほとんど回収される見込みのない作戦海域に向かった人や、銃砲弾が雨あられのように飛んでくる敵の陣地に向かって銃剣という、たった一つの武器を携えて突撃をしていった人、更には食料をほとんど持たされず、何百kmも歩かされたうえにマラリアやアメーバ赤痢に犯され、飢えに苦しんだ人の様に…。
原発問題を始めとし、経済問題、外交問題等々、近年における日本の姿を見るにつけ、国難の中、大東亜戦争のみならず、日進・日露等を含めた全ての戦争で犠牲となって死んでいった人々に対して、
「報いる社会を築いてきた」とは決して言えない現実に、展示物を見ながらボク個人としては申し訳ない気分で一杯になっていた。
■無限の生■
靖国神社を出たあと、ふと「故、中島らもさん」がエッセイの中で「人の死」について触れていた文面を思い出していた。それを要約すると…。
「僕という個体が経た時間を遡ると、ドンドン若くなってやがて1個の受精卵になる。僕としての存在はここまでだが、その先は精子と卵子に別れ、精子をたどれば父親に、卵子をたどれば母親になる。同じ方法で両親と、その先をたどってゆくことを続ければ、その向こうにあるのは死ではなく限りのない『生』がある。そういった『無限の生』が収斂(しゅうれん=収束に近い意味)したのが僕という結節点であり、僕を超えた先にある未来には同じように『無限の生』が広がってゆく。」
この考えの下に人の生死を考えてゆくと、「個としての存在は、次の世代に命を受け渡した時点で存在意義を完遂し、その後は生きていても、いなくてもいい」と続いてゆく話だったが、その境地に至るには自分の心にある我というか、私というか、そういった部分を完全に消し去る必要があるだろう。しかし、それは並大抵の人間にできることではない。
これは全てに当てはまることではないのかも知れないが、戦死した人達の遺書を読む限り、彼らの多くが望んだものは、「国と、そこに暮らす人々のより良い未来」であることから、僅か18歳から35歳(兵役年齢の中心としての表現)の頭で上述した「無我」や「無私」の境地に至ったことが、あるいは至らざるを得なかったことが想像できると思う。そんな兵士達のことを思うと、ボクのような邪念だらけの凡人は、ただ感謝するのみで彼らに掛ける言葉すら浮かんでこない。
そして、そこから進んで、仏教哲学で言うところの「縁起」がボクの頭の中をよぎっていた。
その縁起とは
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。」「此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す。」
と説かれている。
戦争が起こった理由はどうであれ、戦死した人達は、子のある者は自分の子孫へと広がってゆく「無限の生」のため、子のない者は少し遡って枝の方から未来に繋がる「無限の生」のために、逃れることの出来ない苦難の道を、祖先から引き継いだバトンを持ち、命を懸けて全速力で駆け抜けてくれたのだと思う。
そう、彼らが居たから今のボクらが居るのだ。今、バトンを受け持っている我々みんなが「彼らの思いを忘れてはならない」と、再確認をした今回の靖国神社訪問だった。
このブログでも「学校では誰も教えてくれなかった『近代史』」については何度も触れているが、そういった近代史を知る上で避けては通れない靖国神社へ向かった。

●一番外側にある碑と、全高が25mの大鳥居●
そもそも、ウチの家系からは祖母の兄(母の叔父)が商船学校経由で海軍に入り、戦艦比叡に乗艦して戦死し、その弟(同じく母の叔父)は海軍兵学校(70期)経由で海軍に入り、特殊潜行艇(特攻兵器ではない小型の潜水艦)で出撃して戦死しているから、戦死者が祀られている靖国神社とボクとの間は全く無縁というわけではない。従って、その2人に対しての「お参り」という意味もあった。
しかし、それ以上に知りたかったのはこの神社についての実感だった。
この神社に対しての解釈については、様々な意見が渦巻いているのは日本人であれば誰もが知っていることであろう。しかし、それらを伝え聞いたところで、所詮は他人が行って感じた話であり、中には行ってもない人達の話であったりするので、ボクとしては実際に自分が行って見て感じたことで判断をしたい。それがあっての行動だった。
白熱した議論を見る中で勝手なイメージが膨らんでいたのか、境内に着く前は、はっきり言って怖々(こわごわ)という感覚もあった。しかし実際は、戦前まで国が管理していたせいか、境内の大きさには驚くが、それ以外は普通の神社と何ら変わったところもなく、至って普通であり、静粛な空気が流れたいた。
最も、これは普段の日だからであって、8月15日の終戦記念日や祭事があるときは違った様子になっているということらしい。

●静かな境内●
拝殿前に立つと、何となく「ピーン」と張りつめた空気感を感じ取っていたが、これは上述したイメージからくるモノなのか、単にボクが日本人だから感じるのかは判らない。
■遊就館へ■
参拝を済ませた後は、隣にある資料館兼、博物館の「遊就館」という施設を訪問する。

●遊就館●
「武」がテーマだけあって中には日本書紀の時代から大東亜戦争(太平洋戦争)までの「戦」についての展示物が並んでいるが、各戦地から収集した実物の兵器類も展示されている。

●特攻に使われることが多かった「零戦52型」●
「遊就館」を訪れた人にとって一番印象深いのは大東亜戦争(太平洋戦争)、それも「特攻隊に関する展示だ。」とよく言われている。特に隊員達が残した遺書や、嫁ももらわず若くして死んでいった息子のために親たちが寄贈した花嫁人形を目にした際は、ボクもそうだったが思わず落涙してしまう人が多いと思う。
しかし「九死に零生」と言われ、「花と散る」と謳われた特攻でなく、通常戦闘の中であっても、生存率が限りなく0に近い作戦が多かったことを今を生きる人達に理解してもらいたい。例えば、特殊潜行艇乗りだった母の叔父のように、一旦出撃すると、ほとんど回収される見込みのない作戦海域に向かった人や、銃砲弾が雨あられのように飛んでくる敵の陣地に向かって銃剣という、たった一つの武器を携えて突撃をしていった人、更には食料をほとんど持たされず、何百kmも歩かされたうえにマラリアやアメーバ赤痢に犯され、飢えに苦しんだ人の様に…。
原発問題を始めとし、経済問題、外交問題等々、近年における日本の姿を見るにつけ、国難の中、大東亜戦争のみならず、日進・日露等を含めた全ての戦争で犠牲となって死んでいった人々に対して、
「報いる社会を築いてきた」とは決して言えない現実に、展示物を見ながらボク個人としては申し訳ない気分で一杯になっていた。
■無限の生■
靖国神社を出たあと、ふと「故、中島らもさん」がエッセイの中で「人の死」について触れていた文面を思い出していた。それを要約すると…。
「僕という個体が経た時間を遡ると、ドンドン若くなってやがて1個の受精卵になる。僕としての存在はここまでだが、その先は精子と卵子に別れ、精子をたどれば父親に、卵子をたどれば母親になる。同じ方法で両親と、その先をたどってゆくことを続ければ、その向こうにあるのは死ではなく限りのない『生』がある。そういった『無限の生』が収斂(しゅうれん=収束に近い意味)したのが僕という結節点であり、僕を超えた先にある未来には同じように『無限の生』が広がってゆく。」
この考えの下に人の生死を考えてゆくと、「個としての存在は、次の世代に命を受け渡した時点で存在意義を完遂し、その後は生きていても、いなくてもいい」と続いてゆく話だったが、その境地に至るには自分の心にある我というか、私というか、そういった部分を完全に消し去る必要があるだろう。しかし、それは並大抵の人間にできることではない。
これは全てに当てはまることではないのかも知れないが、戦死した人達の遺書を読む限り、彼らの多くが望んだものは、「国と、そこに暮らす人々のより良い未来」であることから、僅か18歳から35歳(兵役年齢の中心としての表現)の頭で上述した「無我」や「無私」の境地に至ったことが、あるいは至らざるを得なかったことが想像できると思う。そんな兵士達のことを思うと、ボクのような邪念だらけの凡人は、ただ感謝するのみで彼らに掛ける言葉すら浮かんでこない。
そして、そこから進んで、仏教哲学で言うところの「縁起」がボクの頭の中をよぎっていた。
その縁起とは
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。」「此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す。」
と説かれている。
戦争が起こった理由はどうであれ、戦死した人達は、子のある者は自分の子孫へと広がってゆく「無限の生」のため、子のない者は少し遡って枝の方から未来に繋がる「無限の生」のために、逃れることの出来ない苦難の道を、祖先から引き継いだバトンを持ち、命を懸けて全速力で駆け抜けてくれたのだと思う。
そう、彼らが居たから今のボクらが居るのだ。今、バトンを受け持っている我々みんなが「彼らの思いを忘れてはならない」と、再確認をした今回の靖国神社訪問だった。