■終戦記念日を迎えて■
8月15日の終戦記念日がやってきた。今年も一年間に渡って何点かの近代史関連の本を読んだが、前半は海軍、それも戦闘機乗りの本を多く読み、後半からは何とも実態がよく解らず、もやもやとした霞の中にあるイメージの陸軍関連の本を探し、読む中心に据えている。
今回は、その日本陸軍について書きたいと思っているのだが、その前に、前半で読んだ中で一番印象に残った神立尚紀氏著「祖父たちの零戦」という一冊を紹介しておく。
この本は、零戦の登場期から終戦にかけて戦闘機隊を指揮した進藤三郎、鈴木實の両氏を中心に、他の元零戦搭乗員124名のインタビューを元に書かれたノンフィクション作品だ。この膨大な量のインタビューによって、今までのやや脚色された間のある、個人の”空戦物”とは違った、零戦搭乗員達の実像に迫っている感があって非常に興味深い内容だった。
この本を読み、その後に陸軍関連の本を読み始めたのだが、旧軍の中での違いを大いに感じさせられた。
「祖父たちの零戦」の中に出てくる戦士が搭乗する戦闘機は基本的に一人乗りであり、空中での判断も個人にある程度の裁量権があったせいか、軍という組織に属しているものの、言わば”個人事業主”のようなところがあって、他の将兵とは違う個人主義的な物の考えを持っていたようだ。そもそも「あこがれの海軍に入ったものの、艦隊勤務の、毎日のように殴られる”団体での訓練”が嫌になったこと」が理由で、戦闘機乗りを志願した人も居たので、逆に軍という組織の中では珍しい、そういった”個人”の集まりが戦闘機隊とも思える。
また、日頃から搭乗員同士で意見を交換し、協力し合って任務をこなすなど、個人行動と組織行動のバランスがとれていて、風通しの良さも見受けられる。
それとは違って、後半から読み始めた陸軍関連の本に出てくる将兵は、没個人を求められ、陰惨そのもので、読むのも辛い記述がかなり出てくる。このあたりが出版数の差になっている理由の一つに思う。
■日本陸軍関連の本■
陸軍関連の書籍を探している最中、最初に出会ったのが、山本七平氏の著書である三冊(内一方は上下巻)だった。
「一下級将校の見た帝国陸軍」は、学徒動員により、筆者自身が幹部候補生少尉として壊滅寸前のフィリピンに投入された際の実戦体験をもとに、そこで起こった「日本陸軍の不条理、不合理という言葉では表しきれない機能不全」を書き綴っている。そして、もう一方が「私の中の日本軍」で、こちらの方は、連合赤軍による一連の事件、グアム島での横井さんの救出、ルバング島での小野田さんとの救出交渉(後に救出)等々、著作前に起こった事件と自身の戦争体験と、中国戦線で起こったとされている、いわゆる「百人斬り競争」とを重ねることで、その根底にある共通項に迫ってゆく内容だ。
上述した山本七平氏が自費出版に近い状態だった物を発掘し、世に出したのが、小松真一氏著「虜人日記」という一冊だ。
小松真一氏は、今で言うところのバイオテクノロジー技術者としてブタノール(アルコール燃料類)生産プラントに関わる、軍属という立場でフィリピンへ渡り、戦線の後退に合わせて、軍と共にジャングルにこもった末に、終戦後は捕虜収容所に入れられ、やがては帰国したという経歴の持ち主だ。
「後書き」にもあるが、小松真一氏が当時肌身離さず持っていた手帳を始め、メモや日記にリアルタイムで記した内容を元にして出国~帰国までの期間に見、聞き、感じたことを書き綴った物であり、その意味では大変貴重な物になる。というのも、多くの戦中体験記は戦後しばらく経ってから書かれた物がほとんどであり、その場合、その戦後の価値観に支配されている物が多いし、中には自己弁護のために都合良く解釈した物など、故意であるなしに関わらず、実際にその場で感じた事ではないことが多いからだ。
そして、最後に紹介するのが、堀栄三氏著「大本営参謀の情報戦記」という一冊だ。
これは、大本営の情報部に所属していた堀栄三氏が書いた物で、当時の大本営の中枢部である作戦課が、如何に情報を無視して作戦指導していたかが良く理解できる内容になっている。
■私的制裁■
他にも数点読み、それを合わせても数冊の単位ではあるが、読んだ内容から、当時の日本陸軍という組織をボクなりに考えてみた。すると現在にも繋がる我々日本社会に巣食う病的な傾向が見えてくる…。
戦前~戦中の下士官以下は日頃兵舎に暮らし、その単位を内務斑と言うそうだが、そこでは些細なことが理由と言うか、ほとんどの場合がこじつけで下士官や入隊年数の長い古兵と呼ばれる人達による、兵への私的制裁という名のリンチが毎夜の如く行われていた。
制裁を加える側は一部ではあるのだが、こういった人達が一定の割合で居たがために、避けることは難しく、一般兵、特に入りたての初年兵に対する私的制裁に関する記述や証言は山本七平氏以外にも多数あるので、どこにでもある、当たり前の光景だったようだ。
制裁の内容は凄惨そのもので、手で殴る、足で蹴るはもとより、殴れば必ず口の中が切れて血だらけになるという、鋲が打ち込まれた硬質の上靴で殴る、それも顔が変形するまで殴る事も多かったそうだ。そして、一旦肉体的苦痛が限界を超えそうになると、今度はタン壺ナメや軍靴ナメその他といった精神的な苦痛へと切り替えるという、地獄の攻めを日々加えていたそうだ。
日常的に制裁を受け続けた兵は、やがて思考が停止し、命令に反射的に動くロボットのようになる。そういった兵同士で殴り合いをさせることもよく行われ、(兵が死ぬと「人数が減った=道具と同じ」として責任追及されるので実際には殺さないが)命令さえすれば互いに殺し合わせることも可能だったという。そんな状況は当然、自殺者や逃亡者を生み出している。
だが、これら私的制裁は表向きには「あるはずがない」とされていたそうだ。元より内務斑の管理者にはそれを押さえる能力はないが、「あるはずがない」を取り繕うために、そういったことに対する捜査があると、協力しないばかりか妨害すら行っていたそうだ。また、管理者の中には私的制裁を必要悪と考え、「制裁を受ける側にも、それを受ける理由であるところの、良からぬ点(この場合は軍人精神の欠如)があるはずだ。」と捉えていたことも発覚しにくい理由だったという。
しかし、頻発する私的制裁は隠し通せることでもなく、広く世間に知れ渡っていたが、その状況を「軍、民離間の元凶」と捉えた軍上層部は「私的制裁は厳禁とする」という、通達を出すに至った。
それを受け、朝礼時には中隊長が確認のため、頻繁に「私的制裁を受けた者は手を挙げよ。」と言っていたそうだが、制裁を受けた本人が手を挙げる、あるいは周りでそれを見ていた兵が申し出ることはない。なぜならば、あってはならない私的制裁によって、「手を挙げる」といった意志を示す心理自体が、すでに失われているからだ。確認する側の士官も実情を知らないワケはないのだろうが、恐らく「確認したが無かった」ということで済ませていたのだろう。
こういった私的制裁の傾向は山本七平氏曰く連合赤軍も同様であったそうだが、近頃紙面を賑わす「いじめ問題」も全く同じ構造であり、戦前から変わらない状況にボクは唖然とする。そして、戦後、軍部を徹底的に批判し続けていた教育者側が、同じ轍を踏むに至るとは皮肉と言う他はなく、「いったい、70年近くもの間、何をしてきたのか?」と、問いたくなってしまった。
■伝統的体質■
兵とは逆のエリート中のエリートと言われた参謀本部作戦課は当然花形であり、学力では東京帝国大学と同等と言われていた、陸軍士官学校~陸軍大学でも上位5番以内の成績優秀者が配属される部署だが、彼らには他の部署に対する差別意識があったそうだ。
作戦課から見れば、「大本営参謀の情報戦記」の著者である堀栄三氏の所属していた情報課は、「自分たちよりも成績下位の人達が入るところ」という意識があり、これは司馬遼太郎さんが以前に書いていたことでもあるが、成績下位の者から送られてくる情報は、それこそ「大したことのない情報」であり、それを精査することなく、半ば捨て置くことがあったそうだ。
堀栄三氏が送った情報の中に、戦局を左右するほどの重要な物があったのだが、それを某参謀が握りつぶして既定の大作戦を遂行したことによって、多大な犠牲者が生まれ、実質的に連合艦隊は壊滅した。そして、その作戦の後、日本海軍は組織的戦闘を行う手段を無くして特攻に偏るようになり、相対的に陸軍の力も落ちてフィリピン戦や沖縄戦のような、より凄惨な戦いへと進んでいった。しかし、この経緯の中で責任を取った人は居ない。
「情報を生かす能力の低さ」は、未だに日本政府の弱点となっているが、これは今に始まったことでははないことに気付かされる。そして、自分たちのみが正しく、他の意見に取り合わない独善ぶりと、そのくせ犯してしまう自分たちの失敗に対する無反省ぶりは、日本の当局者の中での伝統になっているかのようでもある。
また、軍内の恐るべき習慣(慣例?)の中には「員数合わせ」というモノがあったそうだ。
例えば砲が「砲を10門移動させよ」という命令があれば、それが壊れていようが、砲弾が無かろうが、10門移動させれば良いワケで、その移動さえこなせば内容について咎められることはない。何故なら員数が合っているからだそうだが、こうやって表面上で無理矢理につじつまを合わせることを「員数合わせ」と呼んでいたそうだ。
また、飛行場のような重要施設であっても、たとえそこが空襲の被害によって、穴だらけで使用に耐えない滑走路の上に、焼き払われて残骸になった飛行機が20機並ぶモノであったとしても、「員数合わせ」の下であれば、そこは20機配備の航空基地と化するそうだ。
そして、こういった員数合わせによって積み上げた数値で兵力や装備を計算し、作戦が立てられたというから、その結果は「言わずもがな」である。
上述したような思想は、今も活きているように思え、それが市民と政治・行政に携わる人々との感覚の乖離(かいり)原因の一つとなっているように思う。
これまた約70年もの間、「いったい当局者は何をしてきたのか?」と思わざるを得ない瞬間だ。
■教訓の忘却■
作家の三島由紀夫氏が自決する約4ヶ月前に
「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。」「日本は無くなって、その代わり無機質な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。」
という言葉を残した。恐らくこれは「国家のあり方」についての憂いだろうが、「国家のあり方」を考えず、ただひたすら豊かさを求めて得た、「富裕さ」に陰りが見え、「抜け目なさ」を失い、これまで登っていた経済大国への階段も下りつつある。これは近代史関連の本を読む度に感じる、「教訓の忘却」の結果だろうと思う。
「世の中が変わるには『御維新』を待つしかないのだろうか?。」とは、近頃つくづく思うことである。そしてまた一年、来年の終戦記念日に向けて、ため息と共にボクは本を読み続けるのだろうが、もしその「御維新」があった際には、微力ながら力添えをしたいと思っている。それが一票を投じることなのかも知れないが…。
8月15日の終戦記念日がやってきた。今年も一年間に渡って何点かの近代史関連の本を読んだが、前半は海軍、それも戦闘機乗りの本を多く読み、後半からは何とも実態がよく解らず、もやもやとした霞の中にあるイメージの陸軍関連の本を探し、読む中心に据えている。
今回は、その日本陸軍について書きたいと思っているのだが、その前に、前半で読んだ中で一番印象に残った神立尚紀氏著「祖父たちの零戦」という一冊を紹介しておく。
●祖父たちの零戦●
この本は、零戦の登場期から終戦にかけて戦闘機隊を指揮した進藤三郎、鈴木實の両氏を中心に、他の元零戦搭乗員124名のインタビューを元に書かれたノンフィクション作品だ。この膨大な量のインタビューによって、今までのやや脚色された間のある、個人の”空戦物”とは違った、零戦搭乗員達の実像に迫っている感があって非常に興味深い内容だった。
この本を読み、その後に陸軍関連の本を読み始めたのだが、旧軍の中での違いを大いに感じさせられた。
「祖父たちの零戦」の中に出てくる戦士が搭乗する戦闘機は基本的に一人乗りであり、空中での判断も個人にある程度の裁量権があったせいか、軍という組織に属しているものの、言わば”個人事業主”のようなところがあって、他の将兵とは違う個人主義的な物の考えを持っていたようだ。そもそも「あこがれの海軍に入ったものの、艦隊勤務の、毎日のように殴られる”団体での訓練”が嫌になったこと」が理由で、戦闘機乗りを志願した人も居たので、逆に軍という組織の中では珍しい、そういった”個人”の集まりが戦闘機隊とも思える。
また、日頃から搭乗員同士で意見を交換し、協力し合って任務をこなすなど、個人行動と組織行動のバランスがとれていて、風通しの良さも見受けられる。
それとは違って、後半から読み始めた陸軍関連の本に出てくる将兵は、没個人を求められ、陰惨そのもので、読むのも辛い記述がかなり出てくる。このあたりが出版数の差になっている理由の一つに思う。
■日本陸軍関連の本■
陸軍関連の書籍を探している最中、最初に出会ったのが、山本七平氏の著書である三冊(内一方は上下巻)だった。
●山本七平氏の著書の三冊●
「一下級将校の見た帝国陸軍」は、学徒動員により、筆者自身が幹部候補生少尉として壊滅寸前のフィリピンに投入された際の実戦体験をもとに、そこで起こった「日本陸軍の不条理、不合理という言葉では表しきれない機能不全」を書き綴っている。そして、もう一方が「私の中の日本軍」で、こちらの方は、連合赤軍による一連の事件、グアム島での横井さんの救出、ルバング島での小野田さんとの救出交渉(後に救出)等々、著作前に起こった事件と自身の戦争体験と、中国戦線で起こったとされている、いわゆる「百人斬り競争」とを重ねることで、その根底にある共通項に迫ってゆく内容だ。
上述した山本七平氏が自費出版に近い状態だった物を発掘し、世に出したのが、小松真一氏著「虜人日記」という一冊だ。
●虜人日記●
小松真一氏は、今で言うところのバイオテクノロジー技術者としてブタノール(アルコール燃料類)生産プラントに関わる、軍属という立場でフィリピンへ渡り、戦線の後退に合わせて、軍と共にジャングルにこもった末に、終戦後は捕虜収容所に入れられ、やがては帰国したという経歴の持ち主だ。
「後書き」にもあるが、小松真一氏が当時肌身離さず持っていた手帳を始め、メモや日記にリアルタイムで記した内容を元にして出国~帰国までの期間に見、聞き、感じたことを書き綴った物であり、その意味では大変貴重な物になる。というのも、多くの戦中体験記は戦後しばらく経ってから書かれた物がほとんどであり、その場合、その戦後の価値観に支配されている物が多いし、中には自己弁護のために都合良く解釈した物など、故意であるなしに関わらず、実際にその場で感じた事ではないことが多いからだ。
そして、最後に紹介するのが、堀栄三氏著「大本営参謀の情報戦記」という一冊だ。
●大本営参謀の情報戦記●
これは、大本営の情報部に所属していた堀栄三氏が書いた物で、当時の大本営の中枢部である作戦課が、如何に情報を無視して作戦指導していたかが良く理解できる内容になっている。
■私的制裁■
他にも数点読み、それを合わせても数冊の単位ではあるが、読んだ内容から、当時の日本陸軍という組織をボクなりに考えてみた。すると現在にも繋がる我々日本社会に巣食う病的な傾向が見えてくる…。
戦前~戦中の下士官以下は日頃兵舎に暮らし、その単位を内務斑と言うそうだが、そこでは些細なことが理由と言うか、ほとんどの場合がこじつけで下士官や入隊年数の長い古兵と呼ばれる人達による、兵への私的制裁という名のリンチが毎夜の如く行われていた。
制裁を加える側は一部ではあるのだが、こういった人達が一定の割合で居たがために、避けることは難しく、一般兵、特に入りたての初年兵に対する私的制裁に関する記述や証言は山本七平氏以外にも多数あるので、どこにでもある、当たり前の光景だったようだ。
制裁の内容は凄惨そのもので、手で殴る、足で蹴るはもとより、殴れば必ず口の中が切れて血だらけになるという、鋲が打ち込まれた硬質の上靴で殴る、それも顔が変形するまで殴る事も多かったそうだ。そして、一旦肉体的苦痛が限界を超えそうになると、今度はタン壺ナメや軍靴ナメその他といった精神的な苦痛へと切り替えるという、地獄の攻めを日々加えていたそうだ。
日常的に制裁を受け続けた兵は、やがて思考が停止し、命令に反射的に動くロボットのようになる。そういった兵同士で殴り合いをさせることもよく行われ、(兵が死ぬと「人数が減った=道具と同じ」として責任追及されるので実際には殺さないが)命令さえすれば互いに殺し合わせることも可能だったという。そんな状況は当然、自殺者や逃亡者を生み出している。
だが、これら私的制裁は表向きには「あるはずがない」とされていたそうだ。元より内務斑の管理者にはそれを押さえる能力はないが、「あるはずがない」を取り繕うために、そういったことに対する捜査があると、協力しないばかりか妨害すら行っていたそうだ。また、管理者の中には私的制裁を必要悪と考え、「制裁を受ける側にも、それを受ける理由であるところの、良からぬ点(この場合は軍人精神の欠如)があるはずだ。」と捉えていたことも発覚しにくい理由だったという。
しかし、頻発する私的制裁は隠し通せることでもなく、広く世間に知れ渡っていたが、その状況を「軍、民離間の元凶」と捉えた軍上層部は「私的制裁は厳禁とする」という、通達を出すに至った。
それを受け、朝礼時には中隊長が確認のため、頻繁に「私的制裁を受けた者は手を挙げよ。」と言っていたそうだが、制裁を受けた本人が手を挙げる、あるいは周りでそれを見ていた兵が申し出ることはない。なぜならば、あってはならない私的制裁によって、「手を挙げる」といった意志を示す心理自体が、すでに失われているからだ。確認する側の士官も実情を知らないワケはないのだろうが、恐らく「確認したが無かった」ということで済ませていたのだろう。
こういった私的制裁の傾向は山本七平氏曰く連合赤軍も同様であったそうだが、近頃紙面を賑わす「いじめ問題」も全く同じ構造であり、戦前から変わらない状況にボクは唖然とする。そして、戦後、軍部を徹底的に批判し続けていた教育者側が、同じ轍を踏むに至るとは皮肉と言う他はなく、「いったい、70年近くもの間、何をしてきたのか?」と、問いたくなってしまった。
■伝統的体質■
兵とは逆のエリート中のエリートと言われた参謀本部作戦課は当然花形であり、学力では東京帝国大学と同等と言われていた、陸軍士官学校~陸軍大学でも上位5番以内の成績優秀者が配属される部署だが、彼らには他の部署に対する差別意識があったそうだ。
作戦課から見れば、「大本営参謀の情報戦記」の著者である堀栄三氏の所属していた情報課は、「自分たちよりも成績下位の人達が入るところ」という意識があり、これは司馬遼太郎さんが以前に書いていたことでもあるが、成績下位の者から送られてくる情報は、それこそ「大したことのない情報」であり、それを精査することなく、半ば捨て置くことがあったそうだ。
堀栄三氏が送った情報の中に、戦局を左右するほどの重要な物があったのだが、それを某参謀が握りつぶして既定の大作戦を遂行したことによって、多大な犠牲者が生まれ、実質的に連合艦隊は壊滅した。そして、その作戦の後、日本海軍は組織的戦闘を行う手段を無くして特攻に偏るようになり、相対的に陸軍の力も落ちてフィリピン戦や沖縄戦のような、より凄惨な戦いへと進んでいった。しかし、この経緯の中で責任を取った人は居ない。
「情報を生かす能力の低さ」は、未だに日本政府の弱点となっているが、これは今に始まったことでははないことに気付かされる。そして、自分たちのみが正しく、他の意見に取り合わない独善ぶりと、そのくせ犯してしまう自分たちの失敗に対する無反省ぶりは、日本の当局者の中での伝統になっているかのようでもある。
また、軍内の恐るべき習慣(慣例?)の中には「員数合わせ」というモノがあったそうだ。
例えば砲が「砲を10門移動させよ」という命令があれば、それが壊れていようが、砲弾が無かろうが、10門移動させれば良いワケで、その移動さえこなせば内容について咎められることはない。何故なら員数が合っているからだそうだが、こうやって表面上で無理矢理につじつまを合わせることを「員数合わせ」と呼んでいたそうだ。
また、飛行場のような重要施設であっても、たとえそこが空襲の被害によって、穴だらけで使用に耐えない滑走路の上に、焼き払われて残骸になった飛行機が20機並ぶモノであったとしても、「員数合わせ」の下であれば、そこは20機配備の航空基地と化するそうだ。
そして、こういった員数合わせによって積み上げた数値で兵力や装備を計算し、作戦が立てられたというから、その結果は「言わずもがな」である。
上述したような思想は、今も活きているように思え、それが市民と政治・行政に携わる人々との感覚の乖離(かいり)原因の一つとなっているように思う。
これまた約70年もの間、「いったい当局者は何をしてきたのか?」と思わざるを得ない瞬間だ。
■教訓の忘却■
作家の三島由紀夫氏が自決する約4ヶ月前に
「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。」「日本は無くなって、その代わり無機質な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。」
という言葉を残した。恐らくこれは「国家のあり方」についての憂いだろうが、「国家のあり方」を考えず、ただひたすら豊かさを求めて得た、「富裕さ」に陰りが見え、「抜け目なさ」を失い、これまで登っていた経済大国への階段も下りつつある。これは近代史関連の本を読む度に感じる、「教訓の忘却」の結果だろうと思う。
「世の中が変わるには『御維新』を待つしかないのだろうか?。」とは、近頃つくづく思うことである。そしてまた一年、来年の終戦記念日に向けて、ため息と共にボクは本を読み続けるのだろうが、もしその「御維新」があった際には、微力ながら力添えをしたいと思っている。それが一票を投じることなのかも知れないが…。