■一乗谷朝倉氏遺跡■
永平寺を後にして向かったのは「一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)」。ここはソフトバンク社のCMロケ地で使われたところなのだが、放映されていた当時は「何で一乗谷?」「こんなところ戦国&歴史マニアぐらいしか知らんやろ?」と思っていたのだが、とにかくそのおかげで以前から取り組まれていた遺構の発掘の進み具合がかなり進んでいることを知ったのが今回の訪問に至った理由である。
遺構(遺跡?)自体は「果たしてどれくらいの人達が感動するのだろうか?」とも思う状態であったが、とにもかくにもここを訪れて思いに耽るためには、やはりここを支配していた朝倉氏の歴史を知っておく必要があるように思う。
朝倉氏というのは戦国期に越前(福井県)一帯を支配した戦国大名家であり、ここ一乗谷はその本拠地であった。この街?の風情は、今で言うところの”小京都”のようだったと言えばイメージしてもらい易いかと思う。
しかし、以前にも書いたが、歴史マニアの末席にかろうじて引っ掛かる位置に居るボクとしては、ここに来て思いを巡らせるのは朝倉氏自体よりも、ここを滅ぼし、焼き払った織田信長の大戦略の方になってしまう。その大戦略とは…。
■一乗谷の顛末■
一乗谷の町並みが消え、遺跡となってしまった戦いにおける、そもそもの前哨戦は、滋賀県琵琶湖北東部の戦国大名、浅井長政の本拠である小谷城を3万人の織田信長(以後信長と略す)軍が取り囲んだところから始まる。
これに対して浅井長政と同盟を組む越前の戦国大名、朝倉義景が、自ら2万の大軍を率いて救援に駆けつけるのだが、この時点で織田方の内部工作などによって重臣が寝返るなど、将兵の足並みは既に乱れていた。
恐らく初めから信長は「出てきた朝倉を先に叩く」と考えていたらしく、小谷城への力攻めはせずに、進軍してきた朝倉方に挑発牽制を繰り返し、その出方をうかがっている。
着陣後、朝倉方は砦を各所に築いているが、織田方も浅井方の小谷城と朝倉方の間にくさびを打ち込むように砦を築き、陣を敷いて浅井・朝倉の連携を絶つと同時に各個を包囲する体勢をとる。
そこに近江一帯を暴風雨が襲うという転機が訪れた。信長は暴風雨で朝倉方が油断していると判断して、自ら1000人程度の兵を率いて朝倉方の大嶽砦を急襲した。
そして予想通り砦を守る朝倉方は虚を突かれて降伏する。普段の信長であれば、事後処理に際して苛烈な報復をすることもあるのだが、この場ではワザと兵を解放するという行動をとる。これは、本隊に逃げ込む敗残兵の影響で朝倉方が動揺し、恐れをなして撤退すると見込んだ信長の作戦だったのだ。そして念を入れるために信長は同様の手段で丁野城を襲い、ここでも守兵を解放している。
撤退する側にとっての撤退戦はかなり難しい作戦とされ、逆に追撃する側の威力は絶大になるが、信長は自軍の優位性が最高潮になる、そのタイミングで一挙に朝倉方を襲おうというのである。
軍議の席で信長は朝倉方の撤退を予言し、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら重臣が率いる精兵に準備を整えさせ、好機を待った。
そして予言通り朝倉方の撤退が始まった。
その報を受けて信長は自ら陣頭指揮を行って朝倉方の追撃を開始した。そしてたちまち、朝倉方は大混乱に陥り、織田方の猛追の前に、皆殺しに近い状態となった。
最初の砦が落ちてから二日間、織田方が徹底的に追撃した結果、朝倉方は総崩れになり、主立った武将と兵はほぼ全滅状態になる。そして朝倉義景は僅かな残兵と共に一乗谷へ帰還することとなった。
追撃戦の終了から二日間の休息を経て織田方は越前を侵攻し、一乗谷へと迫る。
そして織田方は一乗谷の市街地を制圧し、ここを焼き払った。そして、京や大内氏(山口県)の文化を積極導入した姿は朝倉文化とも呼ばれ、最盛期は1万人もの人々で賑わう栄華を誇った街は灰となった。織田方の、朝倉方に対する最初の攻撃から僅か七日間の出来事だった。
そして、それから更に二日後、落ち延びていた朝倉義景は結局自刃に至り、子や縁者は織田方によって処刑され、朝倉家は滅亡した。
このような一乗谷と朝倉家のあっけない結末は、常ならない世のはかなさを感じるが、それにしても織田信長という不世出の天才の、戦略眼の鋭さには恐れ入るばかりである。
■ソースカツ丼■
さてさて、おまけのお話。福井名物についてである。
福井名物と言えばソースカツ丼。かつ丼と言えばヨーロッパ軒ということになる。
ソースカツ丼は、ドイツでの料理留学を終えたヨーロッパ軒の創始者が大正2年の料理発表会で披露したのが始まりで、当初は現在の東京都新宿区で客に提供していた。しかし、関東大震災のために故郷の福井に戻っての再出発となって現在に至るのだそうだ。
その味はウスターソースがベースの、秘伝のタレをくぐらせた薄めのカツが絶品で、他のどこかで味わうことの多い味とは全く別物であった。
カツはサクサクで脂っこくなく仕上がっているから、結構「サラッ」と食べられてしまうので、量的に多く見えてもあっという間に胃袋に納まってしまった。
「福井に来たらソースカツ丼を!」ボク的にこれは自信を持って言えることだ。
永平寺を後にして向かったのは「一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)」。ここはソフトバンク社のCMロケ地で使われたところなのだが、放映されていた当時は「何で一乗谷?」「こんなところ戦国&歴史マニアぐらいしか知らんやろ?」と思っていたのだが、とにかくそのおかげで以前から取り組まれていた遺構の発掘の進み具合がかなり進んでいることを知ったのが今回の訪問に至った理由である。
●往時の一乗谷全景図●
遺構(遺跡?)自体は「果たしてどれくらいの人達が感動するのだろうか?」とも思う状態であったが、とにもかくにもここを訪れて思いに耽るためには、やはりここを支配していた朝倉氏の歴史を知っておく必要があるように思う。
朝倉氏というのは戦国期に越前(福井県)一帯を支配した戦国大名家であり、ここ一乗谷はその本拠地であった。この街?の風情は、今で言うところの”小京都”のようだったと言えばイメージしてもらい易いかと思う。
しかし、以前にも書いたが、歴史マニアの末席にかろうじて引っ掛かる位置に居るボクとしては、ここに来て思いを巡らせるのは朝倉氏自体よりも、ここを滅ぼし、焼き払った織田信長の大戦略の方になってしまう。その大戦略とは…。
●住民居住区のメインストリート●
■一乗谷の顛末■
一乗谷の町並みが消え、遺跡となってしまった戦いにおける、そもそもの前哨戦は、滋賀県琵琶湖北東部の戦国大名、浅井長政の本拠である小谷城を3万人の織田信長(以後信長と略す)軍が取り囲んだところから始まる。
これに対して浅井長政と同盟を組む越前の戦国大名、朝倉義景が、自ら2万の大軍を率いて救援に駆けつけるのだが、この時点で織田方の内部工作などによって重臣が寝返るなど、将兵の足並みは既に乱れていた。
恐らく初めから信長は「出てきた朝倉を先に叩く」と考えていたらしく、小谷城への力攻めはせずに、進軍してきた朝倉方に挑発牽制を繰り返し、その出方をうかがっている。
着陣後、朝倉方は砦を各所に築いているが、織田方も浅井方の小谷城と朝倉方の間にくさびを打ち込むように砦を築き、陣を敷いて浅井・朝倉の連携を絶つと同時に各個を包囲する体勢をとる。
●居住区の家々●
そこに近江一帯を暴風雨が襲うという転機が訪れた。信長は暴風雨で朝倉方が油断していると判断して、自ら1000人程度の兵を率いて朝倉方の大嶽砦を急襲した。
そして予想通り砦を守る朝倉方は虚を突かれて降伏する。普段の信長であれば、事後処理に際して苛烈な報復をすることもあるのだが、この場ではワザと兵を解放するという行動をとる。これは、本隊に逃げ込む敗残兵の影響で朝倉方が動揺し、恐れをなして撤退すると見込んだ信長の作戦だったのだ。そして念を入れるために信長は同様の手段で丁野城を襲い、ここでも守兵を解放している。
撤退する側にとっての撤退戦はかなり難しい作戦とされ、逆に追撃する側の威力は絶大になるが、信長は自軍の優位性が最高潮になる、そのタイミングで一挙に朝倉方を襲おうというのである。
軍議の席で信長は朝倉方の撤退を予言し、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら重臣が率いる精兵に準備を整えさせ、好機を待った。
●秀吉が寄進した物が移築されたという、唐門●
そして予言通り朝倉方の撤退が始まった。
その報を受けて信長は自ら陣頭指揮を行って朝倉方の追撃を開始した。そしてたちまち、朝倉方は大混乱に陥り、織田方の猛追の前に、皆殺しに近い状態となった。
最初の砦が落ちてから二日間、織田方が徹底的に追撃した結果、朝倉方は総崩れになり、主立った武将と兵はほぼ全滅状態になる。そして朝倉義景は僅かな残兵と共に一乗谷へ帰還することとなった。
●居住区を俯瞰する●
追撃戦の終了から二日間の休息を経て織田方は越前を侵攻し、一乗谷へと迫る。
そして織田方は一乗谷の市街地を制圧し、ここを焼き払った。そして、京や大内氏(山口県)の文化を積極導入した姿は朝倉文化とも呼ばれ、最盛期は1万人もの人々で賑わう栄華を誇った街は灰となった。織田方の、朝倉方に対する最初の攻撃から僅か七日間の出来事だった。
そして、それから更に二日後、落ち延びていた朝倉義景は結局自刃に至り、子や縁者は織田方によって処刑され、朝倉家は滅亡した。
●諏訪館跡庭園●
このような一乗谷と朝倉家のあっけない結末は、常ならない世のはかなさを感じるが、それにしても織田信長という不世出の天才の、戦略眼の鋭さには恐れ入るばかりである。
■ソースカツ丼■
さてさて、おまけのお話。福井名物についてである。
福井名物と言えばソースカツ丼。かつ丼と言えばヨーロッパ軒ということになる。
●ヨーロッパ軒本店●
ソースカツ丼は、ドイツでの料理留学を終えたヨーロッパ軒の創始者が大正2年の料理発表会で披露したのが始まりで、当初は現在の東京都新宿区で客に提供していた。しかし、関東大震災のために故郷の福井に戻っての再出発となって現在に至るのだそうだ。
その味はウスターソースがベースの、秘伝のタレをくぐらせた薄めのカツが絶品で、他のどこかで味わうことの多い味とは全く別物であった。
●オリジナルのソースカツ丼(セット)●
カツはサクサクで脂っこくなく仕上がっているから、結構「サラッ」と食べられてしまうので、量的に多く見えてもあっという間に胃袋に納まってしまった。
「福井に来たらソースカツ丼を!」ボク的にこれは自信を持って言えることだ。