■TPP問題■
今、国内の世論を大きく分けている「TPPへの参加問題」。
農政や保険、郵便側に立つ資料では日本側の不利益が、輸出関連側からは利益が訴えられる資料や金額が試算され、結局のところ、日本が参加しても最終的に得するのか?損するのか?が見えてこない。
であるのなら、日本が最終的に利益を得るようになるためには、会議での交渉力=外交力の「有る・無し」が関わってくることは間違いのないところだ。
しかし、そんな力が今の日本にあるのだろうか?…。
いつものように時代を遡ってみると、過去にはそんな力があった。それは、またもや明治期の話だが、中でも外務大臣・小村寿太郎(こむら じゅたろう)という人物の能力は大きかった。
■小村寿太郎■
第一回・文部省海外留学生に選ばれた小村寿太郎はハーバード大学で法律を学び、帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出する。
そこで陸奥宗光(坂本龍馬の海援隊出身!)に認められ、清国代理公使を皮切りに日清戦争の処理を始め、義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたった。
次いで明治34年、第1次桂内閣の外務大臣に就任し、伊藤博文らの反対を押し切って明治35年、日英同盟締結に持ち込む。この日英同盟は日露戦争遂行と日本側勝利の大要因の一つと言われている。
そして日露戦争終結に際して開かれた明治38年のポーツマス会議において日本側全権として出席し、ポーツマス条約を調印するに至る…。
■ポーツマス会議の背景■
日本海海戦の大勝利に象徴されるよう、「日本の大勝利」と思われがちな日露戦争。しかし、その実を知ると「辛勝」という言葉を当てはめることの方が正解に近いようだ。
上述した日本海海戦や、旅順要塞攻略、奉天会戦のように個々の戦場での日本側の勝利は、現場から日本国内に至るまでの指揮官の能力の高さと、戦闘に参加した兵士達の士気や訓練度の高さがロシア側とは全く違っていたことが原因とも言われている。
しかし、日本とロシアの国力差は埋めがたく、特に陸軍兵力は10倍もの差があり、もし仮にロシア側に更なる戦争継続の意思があれば、武器・弾薬、兵力共に払底していた日本の、その後の運命は変わっていたのかも知れない。
だが、そこは明治の軍部と政治家達だ。ロシア側が戦争継続意識を無くすよう、手だても打っていた。
日本軍は、明石元二郎(当時は大佐)を送り込み、当時帝政だったロシアの「足下を掬う」ため、ロシア国内で活動する革命家に対する支援工作をも行っていたのだ。その効力も手伝って「血の日曜日事件」をはじめとする数々のデモや民衆蜂起、ストライキ、徴兵拒否などが起こり、ロシア側に相当な厭戦気分が蓄積されていったとされている。
また、日本側は、政治家や軍の上層部といった国家の中枢部でも初めから自らの国力をわきまえており、「戦費をいつまで払い続けられるか?」=「いつまで戦争を続けられるか?」についても理解していた。だから開戦時から「引き際」も考えて、終戦時には有利な状態に持ち込んでの講和に持ち込めるよう、算段していたのだ。
■ポーツマス条約締結■
日露戦争開戦に先駆けて、日本政府は外交官の金子堅太郎にあらかじめアメリカ国内での活動を指令していた。これは、当時のアメリカ大統領「セオドア・ルーズベルト」と同じハーバード大学で学び、個人的にも親しい金子を通じて「講和の際には仲介を」と下工作を進めていたということだ。
そして実際に日露戦争終結に向けてのポーツマス会議ではルーズベルトが講和の斡旋をし、日露両者が講和のテーブルにつくことになる。
講和会議に際して日本国内の世論は、「戦勝国なのだから、日清戦争と同じように賠償金を!」というものだったのだが、実際日本の政府内では「賠償金は獲れないだろう」という意見も多く、当初は全権に選ばれる予定だった伊藤博文までもが「締結後の風当たり」を予想した側近の反対で辞退する中、小村寿太郎が全権として送り込まれた。
一説によると、小村を送り出す際に井上馨は涙を流し「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度でだいなしになるかもしれない」とまで語ったとされている。それほど困難で「得る物が少ない」と予想された交渉だったということだろう。
対するロシア側の全権はウィッテ。丁々発止のやり取りの中、小村寿太郎は粘り強く交渉する。
実際には当時のロシア皇帝である「ニコライ2世」が当初は「やるんなら、まだやってやるゾ!」の姿勢をとっており、交渉は決裂の可能性が高かったようだが、民意に恐れをなした首相の桂太郎がねじ込んだと言われている「賠償金の要求」を取り下げたことと、ロシア国内の革命が本格化しつつあったこと(これは明石大佐の工作の効果も大だったそうだ。)の影響で、何とか締結できたそうだ。
その結果、日本は以下の六つの講和内容を得ることができた。
その内容は、
「日本の朝鮮半島における優越権」、「鉄道警備隊を除く日露両軍の満州からの撤退」、「北緯50度以南の、樺太の日本への永久譲渡」、「東清鉄道内、旅順~長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡」、「関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡」、「沿海州沿岸の漁業権を日本漁民へ与える」
であった。
「各個の局地的な戦闘では負けたが、国が敗北したわけではない」との姿勢で挑む大国ロシアを相手に、これだけの条件を引き出したことは現代から見ると賞賛に値するし、何よりも開戦の大きな原因であった「ロシアの南下」を見事に防いだ。そして国際社会の中では、この条約内容をもって、「日本側の勝利!」が確定的だという評価を受けることができたのだ。
■その後の小村寿太郎■
その後の小村寿太郎は、明治41年成立の第2次桂内閣でも外務大臣に再任する。ここでは幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正交渉を行い、遂に明治44年、日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復をし、明治政府成立以降の念願であった不平等条約の撤廃をも果たすのである。
■今こそ小村寿太郎を!■
明治時代あった「国家的危機」に際して職を賭す姿勢で臨み、粘り強い交渉を続ける外務大臣と、省庁の壁を越え、リアリズムに徹して交渉を一丸となって全面的に支える、政府、軍部の要人と官僚達。今、その姿を思い浮かべると胸が熱くなる。
今抱えるTPP関連の交渉には当然、小村寿太郎クラスの外務大臣以下が必要だ。
しかし、現状の日本を見ると何とももどかしく、同じ日本人でありながら、気骨や気概は「何処に行ったのやら?」というのが現実であり、全権を与えられるに相応する人物も思い浮かばない。
いずれにせよそういった人達の登場を待っている余裕すら今はもうない。正に「待ったなしの状態」なのに…。でも、この状態を今まで放置してきた我々みんなの責任なんだろうな…。
今、国内の世論を大きく分けている「TPPへの参加問題」。
農政や保険、郵便側に立つ資料では日本側の不利益が、輸出関連側からは利益が訴えられる資料や金額が試算され、結局のところ、日本が参加しても最終的に得するのか?損するのか?が見えてこない。
であるのなら、日本が最終的に利益を得るようになるためには、会議での交渉力=外交力の「有る・無し」が関わってくることは間違いのないところだ。
しかし、そんな力が今の日本にあるのだろうか?…。
いつものように時代を遡ってみると、過去にはそんな力があった。それは、またもや明治期の話だが、中でも外務大臣・小村寿太郎(こむら じゅたろう)という人物の能力は大きかった。
■小村寿太郎■
第一回・文部省海外留学生に選ばれた小村寿太郎はハーバード大学で法律を学び、帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出する。
そこで陸奥宗光(坂本龍馬の海援隊出身!)に認められ、清国代理公使を皮切りに日清戦争の処理を始め、義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたった。
次いで明治34年、第1次桂内閣の外務大臣に就任し、伊藤博文らの反対を押し切って明治35年、日英同盟締結に持ち込む。この日英同盟は日露戦争遂行と日本側勝利の大要因の一つと言われている。
そして日露戦争終結に際して開かれた明治38年のポーツマス会議において日本側全権として出席し、ポーツマス条約を調印するに至る…。
■ポーツマス会議の背景■
日本海海戦の大勝利に象徴されるよう、「日本の大勝利」と思われがちな日露戦争。しかし、その実を知ると「辛勝」という言葉を当てはめることの方が正解に近いようだ。
上述した日本海海戦や、旅順要塞攻略、奉天会戦のように個々の戦場での日本側の勝利は、現場から日本国内に至るまでの指揮官の能力の高さと、戦闘に参加した兵士達の士気や訓練度の高さがロシア側とは全く違っていたことが原因とも言われている。
しかし、日本とロシアの国力差は埋めがたく、特に陸軍兵力は10倍もの差があり、もし仮にロシア側に更なる戦争継続の意思があれば、武器・弾薬、兵力共に払底していた日本の、その後の運命は変わっていたのかも知れない。
だが、そこは明治の軍部と政治家達だ。ロシア側が戦争継続意識を無くすよう、手だても打っていた。
日本軍は、明石元二郎(当時は大佐)を送り込み、当時帝政だったロシアの「足下を掬う」ため、ロシア国内で活動する革命家に対する支援工作をも行っていたのだ。その効力も手伝って「血の日曜日事件」をはじめとする数々のデモや民衆蜂起、ストライキ、徴兵拒否などが起こり、ロシア側に相当な厭戦気分が蓄積されていったとされている。
また、日本側は、政治家や軍の上層部といった国家の中枢部でも初めから自らの国力をわきまえており、「戦費をいつまで払い続けられるか?」=「いつまで戦争を続けられるか?」についても理解していた。だから開戦時から「引き際」も考えて、終戦時には有利な状態に持ち込んでの講和に持ち込めるよう、算段していたのだ。
■ポーツマス条約締結■
日露戦争開戦に先駆けて、日本政府は外交官の金子堅太郎にあらかじめアメリカ国内での活動を指令していた。これは、当時のアメリカ大統領「セオドア・ルーズベルト」と同じハーバード大学で学び、個人的にも親しい金子を通じて「講和の際には仲介を」と下工作を進めていたということだ。
そして実際に日露戦争終結に向けてのポーツマス会議ではルーズベルトが講和の斡旋をし、日露両者が講和のテーブルにつくことになる。
講和会議に際して日本国内の世論は、「戦勝国なのだから、日清戦争と同じように賠償金を!」というものだったのだが、実際日本の政府内では「賠償金は獲れないだろう」という意見も多く、当初は全権に選ばれる予定だった伊藤博文までもが「締結後の風当たり」を予想した側近の反対で辞退する中、小村寿太郎が全権として送り込まれた。
一説によると、小村を送り出す際に井上馨は涙を流し「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度でだいなしになるかもしれない」とまで語ったとされている。それほど困難で「得る物が少ない」と予想された交渉だったということだろう。
対するロシア側の全権はウィッテ。丁々発止のやり取りの中、小村寿太郎は粘り強く交渉する。
実際には当時のロシア皇帝である「ニコライ2世」が当初は「やるんなら、まだやってやるゾ!」の姿勢をとっており、交渉は決裂の可能性が高かったようだが、民意に恐れをなした首相の桂太郎がねじ込んだと言われている「賠償金の要求」を取り下げたことと、ロシア国内の革命が本格化しつつあったこと(これは明石大佐の工作の効果も大だったそうだ。)の影響で、何とか締結できたそうだ。
その結果、日本は以下の六つの講和内容を得ることができた。
その内容は、
「日本の朝鮮半島における優越権」、「鉄道警備隊を除く日露両軍の満州からの撤退」、「北緯50度以南の、樺太の日本への永久譲渡」、「東清鉄道内、旅順~長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡」、「関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡」、「沿海州沿岸の漁業権を日本漁民へ与える」
であった。
「各個の局地的な戦闘では負けたが、国が敗北したわけではない」との姿勢で挑む大国ロシアを相手に、これだけの条件を引き出したことは現代から見ると賞賛に値するし、何よりも開戦の大きな原因であった「ロシアの南下」を見事に防いだ。そして国際社会の中では、この条約内容をもって、「日本側の勝利!」が確定的だという評価を受けることができたのだ。
■その後の小村寿太郎■
その後の小村寿太郎は、明治41年成立の第2次桂内閣でも外務大臣に再任する。ここでは幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正交渉を行い、遂に明治44年、日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復をし、明治政府成立以降の念願であった不平等条約の撤廃をも果たすのである。
■今こそ小村寿太郎を!■
明治時代あった「国家的危機」に際して職を賭す姿勢で臨み、粘り強い交渉を続ける外務大臣と、省庁の壁を越え、リアリズムに徹して交渉を一丸となって全面的に支える、政府、軍部の要人と官僚達。今、その姿を思い浮かべると胸が熱くなる。
今抱えるTPP関連の交渉には当然、小村寿太郎クラスの外務大臣以下が必要だ。
しかし、現状の日本を見ると何とももどかしく、同じ日本人でありながら、気骨や気概は「何処に行ったのやら?」というのが現実であり、全権を与えられるに相応する人物も思い浮かばない。
いずれにせよそういった人達の登場を待っている余裕すら今はもうない。正に「待ったなしの状態」なのに…。でも、この状態を今まで放置してきた我々みんなの責任なんだろうな…。
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