都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「西遊記」は、中国の明の時代(16世紀)に書かれた本です。沙悟浄は中国の水の妖仙のことです。しかし河童は日本の妖怪ですから、そんな昔に中国に行ったこという記録はありせん。
西遊記に出てくる「沙悟浄」は、天帝の宝である玻璃(はり:水晶)の器を割ったことで天界を追われ、南瞻部州(なんせんぶしゅう)・唐土(とうど)の流沙河(るさがわ:砂漠)で人を喰らう妖仙で頭蓋骨を腰にまいています。
中国でも日本でも、原作での沙悟浄は「河の化物」という事になっているようです。
原作に描写される沙悟浄の容姿は、「色が黒くて不景気な面をした疫病神 の様な顔」みたいな表現になっているようです。
弟子である妖怪3人組といえば、猿・豚・河童だと思われています。
石から生まれた石猿である孫悟空、イノシシの胎から生まれたにも関わらず、なぜか豚の猪八戒はホントの話ですが、沙悟浄が河童であるとは原作には書かれていません。むしろ人間に近いのだそうです。
原作の描写を読むと、沙悟浄は河童であるとは言い難いのです。なにしろ彼は「赤い目」、「赤い髪」の持ち主です。「頭頂部には髪はありません」が、特に皿があるわけではなさそうです。ちなみに赤い髪は三蔵法師の弟子になった時点で剃髪されたそうです。
原作を調べると沙悟浄は「毘沙門天(七福神の一人)の化身」と言う設定になっていて、西遊記に出てくる沙悟浄は「河伯(かわはく)」という妖怪ということです。
漢字表記を見ると、明治末には「河伯」とあり、大正期には「水虎」とあります。この沙悟浄を 河童にしたのは、誰かなのかは分からないのですが、明治の初めの頃に講談で語られたのが、その起源だと考えています。中国の水の妖仙のことなど説明できないので、日本で誰もが知っている河童にしたのでしょう。
そもそも、カッパって、「河伯(かわはく)」がなまって「河童(かっぱ)」になり日本独自の発展をしたとする説もあります。
この沙悟浄を河童として書いている本は、明治44年から大正13年の間に発刊された講談本(立川文庫)だそうです。
日本で沙悟浄を河童にしてしまった経緯としては、「流沙河」は砂の川で砂漠のことなのですが、単純に川と思い「河の化物」は「河童」と結びついたのではないでしょうか。
西遊記が小説の形で世に登場したのは明・清の時代(1400~1900年頃)。ですが、この時代に突然西遊記の物語が考え出されたわけではありません。
玄奘三蔵が、お経を求める旅をしたのは史実です。そして、玄奘三蔵の旅の伝説は唐の時代(西暦7世紀前半)に「大唐西域記」という旅行記に著されました。これが、「西遊記」という物語の元なのです。ですから、原作では、孫悟空と三蔵法師なかなか出会えないのです。
物語の前半は、三蔵法師に出会う前の孫悟空の大暴れエピソード満載です。ただの石猿が 仙術を会得し、天界に登り、そこでも大暴れ。
大暴れが過ぎてお釈迦様の怒りを買い、五行山に500年閉じ込められることとなります。山に閉じ込められて反省した孫悟空は、観音様に助けを請うのですが、観音様は反省しているならば後からくる三蔵法師の弟子になって天竺へお供しなさいと告げて去ります。
そして、沙悟浄・猪八戒もそれぞれ別の場所で悪さをして、観音様に諭され、後でやってくる三蔵法師の弟子となることを約束します。
つまり孫悟空らは、自分達の思いつきで弟子入りしたのではなく、それぞれの罪を悔い改めるために観音様の指示で三蔵法師を待っていた…というのがホントの話です。
何かと派手な孫悟空と、欲望丸出しの猪八戒に比べて、沙悟浄は登場の時
以外にこれといって目立つエピソードはありません。ちょっと影がうすい感じがします。しかしそれは、彼が縁の下の力持ちとして、一行を影からサポートしているからだと考えられます。
やがて、この旅行記を元とした講釈(人前で話を聞かせる演芸の一種)が広まり、南宋時代(11世紀頃)では講釈の台本として「大唐三蔵取経詩話」が定着、その後「西遊記」という名前になり、次第に小説や劇の台本へと進化していきます。劇の台本から進化したものが、京劇の「西遊記」です。
「西遊記」の原作は全部で100話あるそうです。かなりの長編です。日本語でも全訳本が出ているそうですが、出版社によって多少内容に違いがあるようです。
長い年月をかけ、多数の人間が関わって出来上がっていった物語なのです。ですから、本当の原作者、原作は特定できないのです。西遊記の翻訳本などには原作者の名前として呉承恩の名前が表記されているようです。
ちなみに、「三蔵」とは経・律・論に精通している僧侶に対する敬称です。経・律・論とはそれぞれお経の種類のことで、
経…お釈迦さまの教えをまとめたもの
律…戒律(規則)に関するもの
論…経と律に関する解説および研究論文
という意味があるのだそうです。
したっけ。