都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
パンに餡子(あんこ)が入っているから、アンパンなわけですが、もともとのパンを考えると、これは、はなはだ奇妙なものです。
パンが日本へ渡ってきたのは、江戸時代の「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」には、「波牟(パン)とは蒸餅(じょうべい)、即ち饅頭の餡なきものなり。阿蘭陀人(おらんだじん)一個を用ひて一食分となす。これに添えて羅加牟(らかん)を吃らう。羅加牟(らかん)なるものは鰤魚の肉をバンテイカの油に粘(つ)けて脯(ほ)と為して片を切るものなり。」とあります。羅加牟(らかん)というのはなにものかというに、ブリの身をバンテイカ油(ブタのラードであるという)に漬け、干し肉として切ったもののことである。「和漢三才図会」は1712年(正徳2年)頃出版された日本の類書(百科事典)です。
どうやら、このあたりに、パンに餡子が入った理由がありそうなのです。「饅頭の餡なきものなり。」とは、何故饅頭に餡子が入っていないのだと、いかにも不満たっぷりではありませんか。
日本最初のパン屋は明治2年(1869年)、創業者木村安兵衛(きむらやすべえ) 、英三郎 父子が日本人として、初めて東京芝日陰町(港区新橋駅付近)に「文英堂」の店名でパン屋を開業したのです。以後、京橋区尾張町(現在の銀座付近)に移り、屋号を「木村屋」と改称。明
治7年(1874年)日本食文化の代表とも言えるパンに餡を入れた「酒種(さかだね)あんぱん」が誕生致しました。これが「アンパン」の始まりです。
餡のない饅頭に餡が入ったのですから、長い間の課題だった日本人の気分も、多分すっきりしたと思います。「アンパン」は銀座名物といわれるくらい評判になったそうです。
明治8年(1875年)4月4日、明治天皇が、向島にある水戸藩地の屋敷にお花見に訪れることになました。その時に、木村パン屋では陛下に「アンパン」を献上することになった。木村安兵衛はこの日のために工夫を凝らして従来の「アンパン」よりも「より日本らしい」パンを開発した。それは桜の塩漬をパンの中央に入れた「桜アンパン」でした。この日は「アンパンの日」として、国の記念日に認定されていますが、厳密にいうと「桜アンパンの日」なのです。
中央に桜の花がのった丸いパンは、まるでおなかにヘソがあるように見えました。そしてこれが木村屋の「ヘソパン」として有名になり、今もその流れをくんでつくられているのです。
明治20年(1887年)蠣殻町(かきがらちょう)中嶋座の正月興行で、木村屋
のチンドン屋宣伝風景を取り入れ、評判になったそうです。
尚、明治33年(1900年)木村屋3代目儀四郎が、ジャムパンを新発売し、大評判となりました。
明治時代には麺麭(めんぽう、麺包)という呼び名が一般的になります。小麦で作った饅頭の
ようなもの、という意味です。しかし、大正時代に入ると、その呼び名は廃れ、カタカナで「パン」と称されるようになります。
「軍隊堅麺麭(ぐんたいかたパン)」は大東亜戦争中(昭和16年12月8日に始まり、昭和20年8月15日に終戦)当時の鯖江連隊より兵隊さんが木村屋さんに派遣され、軍人用のパンを焼いて携帯食としたのです。
私も「アンパン」が大好きです。外国の人には奇妙に見えるかもしれませんが、「アンパン」は木村屋さんの大発明ではないでしょうか。木村屋さんが「アンパン」を発明していなかったら、子供たちの大好きな「アンパンマン」は登場しなかったのです。
したっけ。