都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
国家としての日本、または日本の文化・民族は、長い年月を経て段階的に形成されてきており、建国時期を示す明確な記録はりません。日本列島には約10万年前ないし約3万年前から、しだいに人が住み始めました。約1万2千年前の前後、氷河期が終わると同時にアジア大陸と分離し、東アジア文化圏の影響下にありつつも独自の文化・社会・政治体制を築いていったのです。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成した時期なのです。
日本をさす言葉に、古くは「大八洲(おおやしま)」「秋津島(あきつしま)」「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」「葦原中国(あしはらなかつくに)」「大和(やまと)」などがあり、中国では日本を「倭(わ)」と呼んでいた。
倭(わ、やまと)は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。倭および倭人の指し示す範囲は時代によって変遷した。
「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形で、室町時代の公卿・摂政関白で古典学者である一条兼良(いちじょうかねら)が「倭人の人心が従順だったからだ」と『日本書紀』の注釈本『日本書紀纂疏(にほんしょきさんそ)』で唱えた。
それが「日本」と定められたのは、大宝元年(701年)に藤原不比等(ふじわらのふひと)らにより定められた「大宝律令(たいほうりつりょう)」によってである。
「大宝律令(たいほうりつりょう)」は、日本最古の完成された成文法で《それ以前にも、近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)などの試作品はありました》、日本という国は、生まれたときから「日本」であったといってよいでしょう。
大宝律令の頃は「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と呼んでいましたが、奈良時代になると漢字の知識も広がり。訓ではなく音読みするようになりました。「にほむ」と発音していたようです。
そして時代が下がって、室町時代になると、東国の発音で読まれるようになり、「にほん」あるいは「にっぽん」となったのです。
現在では「にほん」でも「にっぽん」でもどちらの読み方でもかまいませんが、昭和9年(1934年)の文部省臨時国語調査会では「にっぽん」に統一され、一時期この呼び方が強制されたことがあります。
このとき、東京の「日本橋」と『日本書紀』だけは例外とし「にほん」と読みました。考えるとおかしな話しです。これは、政府で採択されず、正式な決定がないまま現在に至っています。正式な国名がないという、あやふや文化の国「日本」の象徴といえるでしょう。
英語のジャパン【Japan】という呼び名はマルコ・ポーロの『東方見聞録』に載っていたジパング【Zipangu(イタリア)】に紹介された、“中国の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある黄金の島”からきています。マルコ・ポーロはCipangu(あるいはChipangu)として最初に紹介したと言われ、中国語の音写といわれる。
ヴェネツィアの商人ニコロとマテオのポーロ兄弟が、ニコロの子マルコを連れてフビライ・ハンのもとへ遠大な旅行に出たのは西暦1271年のことでした。この三人がヴェネツィアに戻ったのは1292年に泉州を発ってから三年後、実に四半世紀にわたる大旅行だったとされている。
『東方見聞録』とは複数のヴェネツィア商人の記録を「マルコ・ポーロ」という商人に仮託してまとめた物ではないか、とも考えられている。即ち「マルコ・ポーロ」は日本にきたことがないというわけです。また、マルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけている史学者もいるそうです。
そうなると、本当は誰が見たのか?幻の国ジパングということになります。
国宝 中尊寺金色堂は天治元年(1124年)、藤原清衝(ふじわらのきよひら)により建立され、奥州藤原氏が造立した現存唯一の建造物です。堂内外を全て金箔で包み、金銀・螺鈿・蒔絵で荘厳された堂内部の三つの仏壇の中には、三代の遺体と、四代泰衡の首級を安置しています。正に平泉文化の象徴です。
中国人が中尊寺金色堂を見て、そのすばらしさに大変驚き中国に帰って誰かに伝えた。その人は、マルコ・ポーロに伝え、マルコ・ポーロが旅行記に残した。
約200年後にイタリアの青年コロンブスがそれを読み、金が無限にある黄金の国ジパング(日本)を目指し西方に向かったのです。
コロンブスは、残念ながら日本まで来ることができなかった。それは米国大陸という大きな「邪魔もの」があったからです。コロンブスはインドに着いたと思い、先住民を「インデアン」と呼んだのです。
したっけ。