都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
師の網に人魚が捕えられたという記述が『日本書紀(720年)』にある。またこの人魚に関して、1400年ほど前の伝説が残されている。
聖徳太子が近江国(現・滋賀県)で琵琶湖のそばを通りかかると、醜い人魚が湖上に現れ、大声で懺悔したという。
「私は漁を生業としておりましたが、ここは殺生禁断の地。この罪により罰を受けてこんな姿になってしまいました。しかし今、太子の法戒を受けて殺生の恐ろしさをしみじみ知りました。来世まで、私の醜い姿を残していただいて、殺生戒という仏戒を伝えるために末永くこの事実を語り、後生役立てていただきたい」
そう言い残して、人魚は昇天したという。聖徳太子は手厚く供養したという話もある。
鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)※』などでは、日本の人魚はヒト状の顔を持つ魚とされていたが、江戸時代後期にはヨーロッパ同様、ヒトの上半身と魚の下半身を持つ姿と伝えられるようになる。
※ 『古今著聞集』:13世紀前半の人、伊賀守橘成季(たちばなのなりすえ)によって編纂された世俗説話集。単に『著聞集』ともいう。20巻約700話からなり、『今昔物語(平安時代末期に成立)』に次ぐ大部の説話集である。建長六年(1254)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた。今昔物語・宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)とともに日本三大説話集とされる。
江戸時代には人魚の骨が薬とされたりしたが、それ以前より人魚の肉は不老長寿をもたらすと信じられていた。
「古今著聞集」などでは味は良かったが、食べても異常はなかったと書かれているが、人魚 の肉を食べて八百歳まで生きたと言われている若狭の国の八百比丘尼(やおびくに)の伝説は有名で、小浜市青井の神明神社に徳川時代に奉納された八百比丘尼の像がいくつも残っている。
若狭(福井県)小浜に高橋某という男がいた。あるとき浜の網元の網に人魚がかかり、その人魚の肉を賞味しようということになった。この部分にはいくつかバリエーションがあるらしく、高橋某は、山あるいは海で異界に迷い込み、帰りに土産に人魚の肉を持ち帰ったという説もある。というわけで、とにかく持ち帰った人魚の肉を賞味しようということになるのだが、みんな気味悪がって食べようとしなかった。しかし好奇心旺盛な娘がそれを食べてしまった。それからその娘は老いることなく、数百年生き続け、やがて世の無常を感じ尼になり、諸国をめぐった。
晩年は故郷の若狭に帰り、庵に暮らし、八百歳まで生きて、ついに後瀬山(のちせやま)の洞穴にはいって断食して死んだといわれている。
日本各地に伝わる人魚伝説は恐ろしいものとされることが多い。江戸時代の越中国(現・石川県)では、角を持った全長11メートルの人魚を人々が450丁もの銃で撃退としたといわれる。若狭国(現・福井県)でも漁師が岩の上に寝ていた人魚を殺した後、その村では海鳴りや大地震が頻発し、人魚の祟りと恐れられたという。
このように人魚が恐れられたのは、中国の『山海経(せんがいきょう)』に登場する、その姿は山椒魚に似て四つ足を持つ魚で赤子のような声を持つ人魚の影響を受けたためといわれる。
一方では吉兆の幸せとの説もあり、寿命長久や火難避けとしても崇められたこともある。高 野山の麓の西光寺刈萱堂(かるかやどう)には全長約50センチメートルの人魚のミイラがあり、不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となっていたといわれ、現在でも橋本市(和歌山県北東に位置する市)の有形民俗文化財に指定されている。
橋本市の私立郷土資料館にも、人魚のミイラが保存されている。この人魚の特徴は体長約50㎝、大きく開かれた口からは牙のような歯が覗いている。両手を頬にあてがっている。下半身は鱗に覆われている。胸にはヒレのようなものが残っている。乳首のような突起物がある。
例えば江戸時代の『和漢三才図会(1712年)』になると、人魚は「西海の大 洋の中に、ままこのようなものがいる。頭や顔は婦女に似ていて以下は魚の身体をしており、あらい鱗は浅黒色で鯉に似ており、尾には岐がある。……暴風雨のくる前に姿を見せる。漁父は網に入っても気味が悪いので捕えない。阿蘭陀(オランダ)では人魚の骨を解毒剤としているが、すばらしい効目がある」と紹介されており、すっかり西洋的な特徴を備えている。ちなみに、『和漢三才図会』で人魚は、魚類の項に記載されています。
したっけ。