都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
《形容詞「酸(す)し」の終止形から》
1 塩をふった魚介類を飯とともに漬け、自然発酵によって酸味を生じさせたもの。熟(な)れずし。生熟れ。《季 夏》
2 酢で調味した飯に、生、または塩や酢をふりかけた魚などの具を配した料理。握りずし・散らしずし・蒸しずしなど。酢は暑さに耐えるので夏の食品とされた。《季 夏》
【大辞泉】より
「すし」の起源は紀元前4世紀ごろの東南アジアといわれる。川魚の保存法として米などの穀類と炊いたものと一緒に漬け込み、米の発酵を利用して魚を保存した。ご飯は食用ではなくヌカ漬けのヌカのような "漬床(つけどこ)" の役割でした。
文献によると、718年(奈良時代)養老律令の税金の項目に「鮑(あ わび)ずし」・「貽貝(いがい)ずし」を税金で収めたと記載されている。
貽貝は二枚貝の一種。東アジアの浅海岩礁に生息する大型の二枚貝である。イガイは日本沿岸の在来種で、食用に漁獲もされている。
奈良時代に入って穀類と一緒に鮎や鮒を漬け込んだ「熟(な)れ鮨」が庶 民に食べられ るようになった。琵琶湖周辺の鮒の「熟れ鮨」があるが、塩つけにした鮒をご飯とともに、1年くらい漬け込んだもので、ご飯は食べず鮒だけ食べる。
鎌倉時代は「生熟れ」が登場する。「生熟れ」は10日くらいで食べられ、素材は鮎・鮒・鯰・鯉などの川魚が中心でした。
安土桃山時代になると酢が作られました。これによって、寿司が大きく変わりました。 この頃、飯ずしが誕生します。(ご飯も食べる)箱寿司(押し寿司)もこの頃に誕生しました。
素材も川魚に代わって、小鯛や鯖などになりました。漬け込んだ魚は今までは、おかずでしたが、食事へと変わっていきました。
握り寿司の誕生は、江戸時代の後期、文化年間(1818~1830年)です。
握ってその場で食べる・・というのを考案したのは、花屋興兵衛と伝えられます。日本料理の技術である、酢の物(コハダ)や煮物(イカ・穴子)、焼き物(玉子)、蒸し物(アワビ)、刺身(マグロ・ヒラメ)などをすし飯と一緒に食べさせるということを思いついたと云われます。当時の握りは拳ほどの大きなものだったようです。
江戸前というと寿司の代名詞と思われますが、もとは鰻(うなぎ)を指していました。
昔江戸城の前は海でしたが、ここを埋め立てた沼で鰻が沢山捕れ、これをぶつ切りにして串 にさして焼いて食べさせた店があったことから、江戸城前の鰻と云われるようになったらしいのです。この串に刺して焼いた鰻が蒲焼です。見た目が蒲の穂に似ているからです。
その後、握り寿司が盛んになったので、江戸前寿司と寿司にも使われるようになったといわれます。江戸前とは江戸の前の海で捕れる魚を指す言葉です。
江戸から明治にかけての寿司は、屋台が中心で、現在のように店を構えるようになったのは、もっと後のことです。
桶にすしダネを入れて、担いで町の中で売り歩くすし売りという商売もありました。冷蔵庫の無い時代のことなので、殆どの鮨ダネは、酢に漬けたり、煮たり、しょう油に漬けたりと手が加えられていました。これが、今も伝わる酢締めをした光りものや煮イカや煮ハマグリ、またはマグロのしょう油漬けの原型です。
すし屋の調理場が「つけ場」と云われるのは、このように醤油に漬けたり、酢に漬けたりする仕事が中心だったことの名残です。
当時マグロのトロは「脂身」でとろけるので「アブ」と呼ばれすしネタにはならなかった。江戸時代は赤身が上等な部位とされていた。保存技術もなく直ぐに腐るからトロだったと思われます。
戦後は、屋台で生ものを扱うことが禁止され、店の中に屋台を持ち込み店内で食べさせるようになりました。これは屋台の形式を店の中で再現し、屋台の形式がカウンターになりました。
戦中・戦後の食糧難の時は、寿司屋も店を閉めなくてはならなかったのですが、米1合で巻物を含むすし10個と交換することが出来たといわれます。
この時の寿司が1貫の大きさの基準であり1人前の基準となっています。握り寿司が誕生してから、わずか200年余のことです。
①熟(な)れ鮨
「熟れずし」はすしの最も古い形態で、延長5年(927年)にできた延喜式という書物にも、 鮒・鮎・鱒等のほか、猪や鹿などの獣肉も用いられたことが記録されているが、今では、鮒を主とし、鮎・鱒・鰊(にしん)・鰆(さわら)、鰰(はたはた)などが一部で作られているに過ぎない。
魚や肉を塩漬けにしてから、ご飯の中に何ヶ月も漬け込み、ご飯の乳酸発行で保存性を高め、酸っぱくなった魚や肉だけを食べていました。保存がきき、特有の風味(臭み)を持っています。
「半熟れずし」の原理は「熟れずし」と同様であるが、漬け込み日数が少なく、だいたい一ヶ月で出来上がる。
したがって米飯も、「熟れずし」がほとんど分解し、粥状になっているのに対し、「半熟れずし」はそれほど崩れていない。ご飯に酸味が出るか出ないかのうちに食べました。そのまま魚と一緒に食用とする。しかし「熟れずし」と同様、一種の臭みがある。
③早鮨
「早ずし」は江戸時代の中頃になると、米酢が広く販売されるようになり、手っ取り早くこの米酢と塩でご飯に味付けをし、魚貝をのせて、一晩重石をのせて食べるようになりましたものです。
はやずしは江戸時代中期の延宝年間(1673~1680年)、江戸四ツ谷に住んでいた幕府の御典医松本善甫の創案だとされているが、真偽のほどは定かではない。
しかしその頃から「早鮨」が普及し始めたとみることができる。やがて、おいしい鮨を早く食べたいというところから、文化文政年間(1804~1829)に、やっと「握り寿司」が登場します。この起源については少々曖昧で、『嬉遊笑覧※』によると、「文化のはじめ頃深川六軒ぼりに松がすし出きて世上すしの風一変」、また『守貞謾稿※ 』には。「文政ノ末頃ヨリ、戎橋南ニ、松ノ鮓ト号ケ、江戸風ノ握リ鮓ヲ賣ル」と記されています。いずれにせよ、19世紀の初頭に握り寿司が現れたのは間違いないようです。江戸時代の終わりになって酢飯を箱鮨のように握って上に具をのせ、握りたてを食べるようになったのです。
現在では普通すしといえばこの「はやずし」をさすが、その種類には姿寿司、箱寿司、握り寿司、ちらし寿司、巻き寿司、稲荷寿司、その他多数ある。
※『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』江戸後期の随筆。12巻、付録1巻。喜多村筠庭(きたむらいんてい)著。文政(ぶんせい)13年(1830)序。江戸時代の風俗に関する百科事典である。
※『守貞謾稿( もりさだまんこう )』著者・喜田川守貞(きたがわ もりさだ)成立年 天保八年(1837年)‐嘉永六年(1853年)。江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典である。
寿司屋さん用語
上がり(アガリ):お茶のこと。本来は食べ始めのときのお茶を「デバナ(出鼻)」、締めのお茶を「アガリ(上がり)」といった。
兄貴(アニキ):古いタネのこと。
お愛想(オアイソ):お勘定のこと。
踊り(オドリ):生きたままのタネ。通常生きたエビのこと。
ガリ:薄く切った生姜の甘酢漬け。その質感から。
貫(カン):すし1つを1カンと数える握りずしの数え方。語源は不明。
玉(ギョク):卵焼きのこと。「玉」の字から。
舎利(シャリ):ご飯の異称で、すし屋ではすし飯のこと。仏舎利から。
立ち(タチ):カウンター形式の店、またはその客。立ち食い形式のすし屋の名残り。
漬け(ヅケ):マグロの醤油漬け。
漬け場(ツケバ):すしを製する(つける)調理場のこと。
漬け台(ツケダイ):カウンターのすしを乗せる台のこと。今日では直接ツケダイにすしを乗せる店は少ない。
詰め(ツメ):アナゴなどの煮汁を調味し、煮詰めた甘辛いタレ。「煮詰め」から。
トロ:マグロの腹身。とろっとした質感から。
涙(ナミダ):ワサビのこと。
煮切り(ニキリ):醤油に日本酒や味醂を加えて火にかけて煮切ったもの。すしに塗るかつけ醤油にする。
種(ネタ):すしの具材、すしダネのこと。タネの逆さ読み。
紫(ムラサキ):醤油のこと。その色彩から。
「握り寿司」の発祥は屋台であり、当時のファーストフードであったと思われます。今のハン バーガーのようなもので、決して高級なものではなかったのです。いわば熟れ寿司のまがい物であったのです。いつから寿司屋は高級料理店のようになったのでしょうか。ネタの裏にご飯を数粒つけてありがたがっていたんじゃあ本末転倒じゃないかと思います。考えれば、庶民の味方、回転寿司は寿司屋の原点に戻ったと言えるのではないでしょうか。
したっけ。